どの責任を逃れようとしているのか

やり取りを注目していた「北沢かえるの働けば自由になる日記」(11月12日コメント欄)のやりとりだが、どうもよくわからない。


高遠さんたち3人の事件の際には「自己責任」を問うた人たちには「税金を無駄遣いしやがって」という、わかったようなわからないような理由があったものだ。
橋田さんの時はどうだったろう。
しかし、香田さんがむくろとなって帰ってきてなお、自己責任を言いつのる人にはいったいどんな理由があってのことかよくわからない。


id:kaerudayoさんが書いていたのは、香田さんにも危険なところへ行ってしまったという責任はもちろんあろう、しかし、彼が殺されなければならないような状況になったのには自分たちにも某かの責任があったのではないか、ということだろうと思っている。
例えばそれが「危ないところへは行くな」という直接的なまたはそこに至る日常的な働きかけであったり、あるいは自分の身を守る何かを身に付けさせるための働きかけであったり、別の角度から見れば自衛隊を撤退させる要求だったり、日本は米軍の攻撃に荷担していないという強力なメッセージだったり、もっと外交的な努力でもってイラクに平和をもたらすことだったり。
拉致されてから殺害されるまでについても、もっとできることがあったんじゃないか、首相なり外交官なりのメッセージはどうだったか、救出する手だてはもっと何か打てなかったのか。
政府の仕事である以上、主権者である国民に責任の一端は必ずある。


「危ないところへ行くな、行ったら命を落として当然だ」という論理には、結局は自分に跳ね返って来てしまう危うさをいつも内包する。
危険であるかないかを、いつ、誰が、どこで、どんな基準で決めるのか。
政府が危険でないと言ったら危険でないのか。
命を落としたら危険「だった」のか。
拉致被害のことを考えたら、日本国内だって危険ではないのか。
夜道を歩いていたから殺された、目が不自由なのにホームの端を歩いていたから転落した、こんな例には枚挙に暇がない。
最後には、余計なことをした人間は誰も助けてもらえなくなるのだ。
第一、拉致被害だってつい最近までなかったことになっていたではないか。


id:kaerudayoさんの書いた

「よくも、大事な日本国民を殺しやがって、犯人ども、首洗って待ってろ! 日本をなめるな」

は、まったくその通りだと思う。
首相としてお悔やみの言葉と一緒に言わなくちゃいけないのは、「救出できなくて申し訳ない」ではなかったのか。
そう言わなかったのはまさに、「危険なところに行って殺されるのは当然だ、そんな勝手なヤツのことまでカネを使って気にかけていられるか」ということだからだろう。


危険なところに行ってしまった責任を問う時、その危険が自分たちの行為、例えば自衛隊がいることで生まれているという認識はないのかもしれない。
日本人が何か危険な目にあった時に、政府は全力で救出する義務を果たす責任があるのは当然なのだ。
香田さんの死を彼の「自己責任」で片付けたい気持ちには、こうした政府の責任を、問われるべきものでないとする姿勢があるのではないか。
例えばそうだとして、「自己責任」で片付ける人たちにはいったい何の得があるのか、すなわち彼らはいったい何の責任から逃れられるのだろうか。


コメントにあった「よくある香田氏への擁護は、責任をあいまいにし、企業経営の失敗の責任をとらない企業トップの姿勢と同一のものに見えます。」という意見はまたよくわからない。
「自分たちにも責任の一端はあるんじゃないだろうか」と言っているものに、なぜ「責任を曖昧にし、責任を取らない」と詰め寄るのだろう。
冷静さを欠かず別の視点で見るといったい何が見えるというのか。


この人たちにも、ぜひ、自分たちの「自己責任」というものをよく考えてみてほしいものだ。