「教育」ではなく「処世術」

うつらうつら横になりながらsava95さんの日記「覚え書き」のコメント欄で紹介されたリンク先のことを考えていた。


池上公介の教育論 [12] 一生を棒に振る、この年収の差。ピアスと茶髪


これは果たして「教育論」なんだろうか、と。どうにも私にはやはり「処世術」の披瀝でしかないように見える。茶髪やピアス、フリーターがなぜいけないのか、ここで教育上の観点から語られていることは何もない。この「教育論」とやら、第1回目から「茶髪」を登場させているところを見ると、何か遺恨があるのかもしれないが、世間を見回してほぼ8割方の女性、男性でも2〜3割(確かに若年層かもしれないが)が髪を染めている時代に、という感もある。
この「池上学院」「社団法人 日本青少年育成協会」の正会員なのだそうだが、この団体は「勉強もしっかりするけれど、ボランティア活動も、スポーツも、地域活動も、大自然の中での活動も、外国の人との交流も体験させたい」と思い、「一人一人の子どもを大切に育てていくこと」を要点とし、「目指しているもの、それは『愛』」なんだそうだ。不登校や引きこもりにも積極的に関わっているらしい。娘も、そしてゆくゆくは私や妻も受けるつもりでいる「漢検」なども正会員に名を連ねている。
さて、そうした団体の沿革やら何やらはおいておき、どうもこの「処世術」を声高に吹聴しては教育と取り違えている人々は実に多いのではないか、いや、ひょっとするとそうしたメッセージを受け取る側だって教育のことなんかわかっちゃいなくって何となくそうだの違うだの言ってるだけなんじゃないか、もちろん我が身を振り返っても、結局そんな曖昧模糊とした実情にユラユラしてるだけじゃない、という気がしている。
例えば「茶髪」や「ピアス」がなぜいけないかと語る時、「ちゃんとした社会に認めてもらえない」とか「将来不利になる」とかいう言葉が正しいのか? 先日も校則を取り上げた番組があってちらっとしか見てないけれど、どこかの高校生が、自校について「服装をちゃんとしようという運動があって参加していて、クラスメートなどにも茶髪をやめようと言わなくちゃと思う」なんてことを言っていてビックリしたのだ。彼は何をもって「茶髪はダメ」と思うに至ったのか?
そこのところのプロセスに疑問を差し挟むことのできる何かがあると思うけれど、そこまで何か掘り下げたものがあったんだろうか。