コメントと記事

ロレンソ、ロッシが2・3位表彰台(ヤマハ発動機 2010年9月5日(日))

J・ロレンソ選手談(2位)
「こんな悲しい日には、言葉が出てこないよ...。
祥也のことは、本当に残念。だっていいやつだったし、ライダーとしても力を持っていたからね。とても悲しくて、僕がどれほど悲しんでいるかを彼の家族や友達に伝えたい。それ以外何もない」


W・ズィーレンベルグ、チーム監督談
「富沢選手のことは本当に残念だ。彼は才能にあふれていて、いつか必ずモトGPにやって来ることになったはずのライダーだった。このスポーツでは常に起こり得ることだが、今日はそのことを、我々全員に改めて思い出させることになった」


V・ロッシ選手談(3位)
「今日のように悲しいことが起こると、すべてがゼロになってしまう。そして成績などどうでもよくなってしまうんだ。祥也は素晴らしいライダーだったし、それ以上に人間としてとても温かみがあった。それに面白くて、いつも笑っていて、みんなを楽しませるようなことばかり話していた。まだ若く、未来があっただけに、みんながとても悲しんでいる」


D・ブリビオ、チーム監督談
「非常に悲しい一日になった。誰もがトミのことを、そしてその友人、家族、チームのことを考えている。彼はとてもいい男だったよ。」


B・スピース選手談(6位)
富沢祥也選手の事故はとても残念なことだった。僕の心は彼の家族や友達とともにあるよ」


C・エドワーズ選手談(7位)
「悲しい知らせのあとではレース結果の意味も薄れてしまう。この辛いとき、僕のこころは、彼の家族と友達のところへ行っているよ」


H・ポンシャラル、チーム監督談
「まずはじめにテック3ヤマハの全員を代表して、富沢祥也選手のご家族と友人たちに心からお悔やみの気持ちを伝えたい。彼はライダーとしてもひとりの人間としても素晴らしく、彼がいなくなったことでレースに携わるすべての人が寂しい思いをすることになるだろう」



富沢祥也選手の逝去について(HRC 2010年9月6日(月))

ロードレース世界選手権(WGP)Moto2クラスに参戦するTechnomag-CIPチームの富沢祥也選手(19歳 千葉県)は、2010年9月5日(日)に開催された第12戦サンマリノグランプリ Moto2クラス決勝レース走行中の12周目、11コーナーで転倒。頭部、胸部、腹部を負傷し、サーキット内のメディカルセンターで人工呼吸などの処置を 受けた後、2名の医師とともにサーキットからリッチョーネ市内の病院に搬送されました。病院では緊急処置が施されたものの、同日(9月5日)午後2時20 分、逝去されました。
※2010年9月5日 レース・ディレクション発表


富沢選手は、2006年に全日本ロードレース選手権のGP125クラス(Honda RS125R)にデビューするとともに、同年開催されたWGP日本グランプリ125ccクラスにワイルドカードでスポット参戦を果たしました。2008年 には全日本ロードレース選手権GP250クラス(Honda RS250R)にステップアップし、ランキング2位を獲得。翌2009年には、活躍の場をWGP250ccへと移し、フル参戦しました。今シーズンは、新設されたMoto2クラスに参戦し、開幕戦カタールでは見事優勝を遂げ、世界で活躍する日本人の若手ライダーとして今後の更なる活躍が期待されるライダーでした。
謹んでお悔やみを申し上げますと共に心よりご冥福をお祈り申し上げます。


中本修平 HRC副社長のコメント
「現場で富沢選手の訃報に接し、深い悲しみでいっぱいです。富沢選手は、グランプリライダーとしてのキャリアをまだ歩みはじめたばかりで、チャレンジングスピリット溢れる有望なライダーを失ったことは、大変残念に思います。富沢選手ならびにご家族に対しまして、心より哀悼の意を表します」



サンマリノGP 決勝(HRC 2010年9月5日(日))

ダニ・ペドロサ
「今日の優勝は言葉にできないほど最高の気分だったが、チェッカーを受けてパルクフェルメに到着したとき、メカニックがみんな真面目な顔をしているので変だなあと思ったら、富沢選手が亡くなったことを知らされた。とてもショックで言葉がなかった。とにかく、彼が亡くなったことが信じられなくて3回も聞き返してしまった。そして、とても悲しい気持ちになったし、こんなことは決して起きてはいけないと思った。富沢選手は、いつも楽しいジョークを言って、みんなに愛されていた。とても速くて勇敢なすばらしいライダーだった。先週のインディアナポリスでは、ピーター・レンツ選手を亡くした。1週間で2人の選手が亡くなるなんて、本当に悲しい。彼の家族に心からお悔やみを申し上げます」


アンドレア・ドヴィツィオーゾ
「富沢選手の事故は、レースが終わってから知ったが、あまりにもショックだった。この2週間で2つの悲劇的な事故が起こり、2人のライダーが亡くなった。セーフティコミッションは、これまでたくさんの安全を実現してきたが、コース上で起きた事故だけに避けられなかった。富沢選手の家族にお悔やみを申し上げます。自分が父親になった今、こういう出来事が、家族にとってどんなに悲しいことかということを感じている」


山路敏幸|Repsol Honda Team 監督
「今日は、将来ある富沢祥也選手が事故で亡くなるという悲しい日になりました。本当に残念で仕方がありません。富沢選手のご冥福をお祈りし、ご家族の方々にお悔やみを申し上げます」



2010MotoGP 第12戦 サンマリノ(Team SUZUKI 2010年9月5日(日))

アルバロ・バウティスタ
「レースが終わってから富沢選手の訃報を聞いた。富沢選手と彼の家族に心からお悔やみを申し上げたい。すべてのライダーにとって悲しみの日となった。彼の魂はいつも我々と共にあることを信じて、冥福を祈りたい」


ロリス・カピロッシ
「次のアラゴンで無事に走れることを願っているが、今日の悲しい出来事は、この比ではない。富沢選手の家族に心より弔慰を送りたい。」


トム・オーケイン(アルバロ・バウティスタのチーフメカニック)
「まず何よりも我々は、富沢選手のご家族とご友人に心からのお悔やみを申し上げます。レース後に訃報を聞いたアルバロは、かなり動揺していた」



2010年 MotoGP 第12戦(ブリジストン 2010年9月5日(日))

安川ひろし−株式会社ブリヂストン モータースポーツ推進室長
「今日は素晴らしい資質を備えたヤングライダーである富沢祥也選手が、レース中のアクシデントにより逝去されました。とても陽気で気さくな性格で、誰からも愛されていました。19歳という若さでの逝去は、あまりに早すぎます。残されたご家族の皆様のご心情をお察しし、心からご冥福をお祈り申しあげます。我々は、今後も彼のことをけっして忘れません」


生方透−株式会社ブリヂストン モーターサイクルレースタイヤ開発マネージャー
「今日は若く才能に溢れた富沢祥也君がレース中のアクシデントのために逝去し、我々全員にとってとても辛い一日になりました。パドックの皆が彼を愛していました。本当に、言葉にできないほど辛い出来事です。心からご冥福をお祈りいたします」



富沢祥也事故死に四輪レース界からも悲しみの声(AUTOSPORT web 2010年9月6日(月))

5日、イタリア・ミサノで行われたロードレース世界選手権Moto2で転倒、事故死した富沢祥也選手に、四輪モータースポーツ界からも悲しみの声が上がっている。
今季新設されたMoto2クラスで、開幕戦カタールを制し将来を嘱望されていた富沢の死は、イベントや共催レースで接することが多い四輪モータースポーツ界にも大きな衝撃となっている。同じホンダ系のドライバーで、今季スーパーGTフォーミュラ・ニッポンにステップアップした山本尚貴は、自身のブログで「彼と初めて会ったのは2008年のホンダサンクスデー。当時はお互い2輪、4輪の中で一番若手で、それほど多くは語らなかったですが、『お互い一番年下で大変なこともあるけど、頑張って行こうね!!』と声を掛け合ったのを覚えています。その後、僕はFN、S-GTに、そして彼は世界を舞台にMoto2にステップアップ。良い刺激をいつももらっていました。そんな富沢君が……とにかく残念です」と悲しみを綴っている。
また、テレビで観戦していたという松田次生は「まさか、あのような事故が起きるとは……最高峰のMotoGPクラスの時に、転倒をした富沢選手の情報がもの凄く気になりましたが、亡くなられたとの報道があり、本当にショックでした。(中略)4輪は、安全性がもの凄く向上していますが改めて、モータースポーツと言うのは死と隣り合わせだと痛感させられます」とコメント。
ウェッズスポーツIS350スーパーGTに参戦する織戸学も、「僕も2輪のレースは大好きだっただけに、ショックは大きいです。これからって時だったのだろう。残念です」とブログに書いた。
また、F1界からも山本左近マーク・ウェーバーTwitter上で富沢を悼むツイートを残している。



レース中事故死の富沢選手悼む 「非常に残念」母校の恩師(47News 2010年9月6日(月))

イタリアで行われたオートバイレース中に事故死した富沢祥也選手(19)について、高校2年、3年の時に担任だった千葉県立匝瑳高校(同県匝瑳市)の成川賢一教諭(43)が6日、「将来有望だと思っていたので非常に残念です」と肩を落とし、ホープの若すぎる死を悼んだ。
成川さんによると、富沢選手は「世界で活躍できるように」との理由で英語科を選択。人を笑わせるのが得意で、笑いの中心にいるような明るい生徒だった。レース以外で学校を休んだことはなかったという。
富沢選手は、今年のオートバイ世界選手権シリーズにフル参戦。5日にイタリアのミサーノアドリアティコで開かれた今季第12戦サンマリノ・グランプリ(GP)で、レース中に転倒し後続車にはねられて死亡した。



「富沢祥也 RIPOSA IN PACE(やすらかに眠れ)」(イタリアたわいのない話 2010年9月6日(月))

<イタリア「La Stampa」記事翻訳を抜粋>
ミザノ 『ミザノGPで富沢選手事故死、レース続行に論議
ミスで転倒、そして、悲劇。
日本人ライダーの富沢祥也選手(19才)がサンマリノ開催のロードレース世界選手権モト2クラスのレース中、激しい事故による重度裂傷で死亡した。
後続車が激突
富沢選手はコース12周目を時速200km以上で走行中、マシンのコントロールを失い、車輪が縁石に乗り上げ転倒。
後続のアレックス・デ・アンジェリス選手(サンマリノ出身)およびスコット・レデイング(イギリス出身)両名が富沢選手を避ける間もなく激突し、バイクこと飛ばされ転倒した。レデイング選手には特に裂傷等もなく、デ・アンジェリス選手の方はかすり傷ひとつなかった。
富沢選手は今年度より始まったモト2クラスにて、開幕レースのカタール戦で優勝している。
事故後の措置、問題視
コース上に横たわる富沢選手のもとへ救急班が駆けつけたものの、レース自体は中断されることなく、トニ・エリアス選手(スペイン出身)によりゴールが切られた。
富沢選手がコースから搬送される際も、レッドフラッグによりレースが中断されることはなかったのである。また、慌ただしく搬送される中、砂利に足を取られた救急隊員が、一瞬、担架を落としてしまう一幕もあった。
救急車内では医師らによる蘇生措置が行われたが頭蓋骨および胸部、服簿の外傷がひどく、午後1時40分頃、救急車によりリッチョーネ市内の病院へと搬送され、午後2時19分に死亡が確認された。
医師コメント「ひどい裂傷」
多くの観客が不安を抱きながらモトGPクラスの観戦を続ける中、富沢選手の訃報が届いた。
モバイルクリニックの責任者クラウディオ・コスタ医師が明らかに動揺した様子で、
「医療センターでも救急車内でも病院でも最良の処置がなされたが、富沢は14時19分に逝ってしまった。」と伝えた。また、もし、レッドフラッグが振られレースが中断されたならば、救命処置は容易になったのではないかを論じるべきではないかと話している。
ヴァレンティーノ・ロッシ選手からも、
「レッドフラッグは必要だっただろう。モト2は参加選手が多過ぎるのではないだろうか。」とのコメントが出された。
一方、ミザノサーキットの医療責任者であるクラウディオ・マッキアゴデーナ医師は、次のように話している。
「たとえレッドフラッグが振られても、医師としての見地からすれば、なにも変わらなかったでしょう。むしろ、搬送措置に遅れが生じたと思われますが。蘇生措置は救急車内で開始されてます。医師として、これらの措置になんら遅延はなかったと言えます。繰り返しますが、レッドフラッグが振られていたなら措置に遅れが生じていたでしょう。」
また、先週8月29日には13才の少年ライダー、ピーター・レンツ君がインディアナポリスで、レース中の事故が原因で亡くなっているため、今後、パドック関係者は考慮していかなければならない。
富沢選手の訃報は、バイクファンらの記憶にもう1人の日本人ライダーを呼び覚ました。2003年、レース中の事故で亡くなった加藤大治郎選手だ。
そして、『9月5日』と言う日付がミザノサーキットにとって、また悲劇の代名詞となってしまった。
1993年の同日、アメリカ人ライダーのウェイン・レイニー選手がレース中に転倒、下半身不随となっているのだ。



富沢祥也、不運の事故死(The Official MotoGP Website 2010年9月5日(日))

優勝争い中に転倒を喫した富沢が、サーキットの近郊の病院に運ばれ、救急治療を受けたが、不運にも帰らぬ人となった。
テクノマグ‐CIPの富沢祥也は5日、第12戦戦サンマリノリビエラ・ディ・リミニGPの決勝レースで転倒。頭部、胸部、腹部を負傷したことから、サーキットのメディカルセンターで人工呼吸を行い、サーキット近郊のリッチョーネ市内の病院に、2人の医師の治療を受けながら、(ヘリコプターでは適切なサポートができないことから)救急車で転院され、緊急治療を試みたが、14時20分に死亡が確認された。
MotoGPファミリーは、富沢の家族、そして彼の友人たちに心から哀悼の意を表明します。