「歌わない自由はない」1999年9月16日、高松市議会で当時の教育長

国家を歌わぬ自由ない(四国新聞社 / 1999年10月4日四国新聞掲載)

先の高松市議会。「入学式や卒業式で、教師や生徒に国歌を歌わない自由はあるのか」―こんな質問に、山口寮弌教育長が「自由はない」と答えた。議会答弁としては異例の率直さだった。これが波紋を広げている。「内心の自由を侵す暴論」「いやいや、公教育の推進者として当然の見解」…。どこまでが指導で、どこからが強制かを含め、簡単には軍配を上げられない難問だ。この発言は、どんな文脈から出てきたのか、真意はどこにあったのか―まず、そんな検証から始めようと、渦中の山口教育長に会った。


真意を聞く 山口寮弌高松市教育長
あいまいさを避ける 教師の姿勢示したかった
―「歌わない自由はない」発言が波紋を広げている。リアクションは予期していたか。
山口 これほどの騒ぎになるとは全く予想していなかった。国歌、国旗について国民の関心が非常に高く、法制化に関して十分論議していないという気持ちの人がまだまだいる、そのことの一つの表れだと思う。
―発言の真意は。山口文部省の学習指導要領は「学校教育でここまではしなくてはいけない」ということをいろいろ明示している。国歌・君が代の指導はその中の一つ。法制化された国歌を指導要領に基づき学校教育の中でどう指導していくか、その姿勢を申し上げた。
―議会答弁は通常ぼかした表現になることが多いが、かなり踏み込んだ印象がある。山口私たちが答弁作成で一番気を使うのは答弁漏れがあってはならないという点。「歌わない自由があるかどうか」と聞かれれば、表現の選択肢として「ある」「ない」でしか答えようがない。あくまでそう聞かれたので、私の考えを申し上げた。
―その後、抗議や取材に対して「強制を意味するものではない」と補足説明している。答弁でそう付言してもよかったのでは。山口公式の場でそういう表現をすることは、かえってあいまいさを残すと思う。
―指導の根拠をはっきりさせ、現場の混乱を回避したかったと。山口根拠というより、指導する際の姿勢、気持ちの持ち方を明確にしたいという強い思いがあった。君が代が国歌として法制化されていない時から、指導要領には「国歌・君が代」と明記されている。この点についていろいろと批判があり、校長らが最も苦慮していた。しかし、今回は法制化されたわけだから、受け止めも変わってくる。教育長として、教育現場への思いを込めた発言だ。
―同じ答弁の中で「法制化によって学校現場での国旗、国歌の取り扱いに変化はない」とも言っている。矛盾しないか。山口法制化が、指導要領に変更を及ぼすものでないから、取り扱いに変化はないという意味合いだ。ただ、(法制化前の)何かもやっとした気持ちの時とは少々変わってくる。しかし、現実には宗教上の理由や保護者の考えから歌わない子供がいることは十分考えられる。その場合、歌わないということだけで問題児扱いしたり、成績評価を悪くしたりはしていないし、今後もしない。その意味でも取り扱いは変わらないと認識している。
―特殊な歴史的背景を持つ君が代を、指導要領の他の項目と同列に扱うことには強い拒否反応があるようだ。山口君が代についてさまざまな批判があるのはよく承知しているが、私は君が代の是非を議論してはいないし、その立場にもない。繰り返しになるが、教育長として指導要領に基づき国歌を子供たちに指導する時の姿勢を言ったものだ。
―どこまでが強制で、どこまでが指導なのか、明りょうな区別は難しい。批判的立場の人たちは指導の名を借りた強制が始まると疑念を募らせている。山口「歌わない子は毎日、居残りさせるのか」「授業も受けさせないで、別室で歌え、歌えとやるのか」と言う人たちがいる。なぜ、そんな極端な発想をするのか理解しにくい。予行演習や音楽の授業の中での指導を私は言っている。あくまで社会常識の範囲内での指導だ。
―国歌に限らず、一律に歌うよう指導したり、覚えさせようとしたりすること自体が、子供の人権を侵害しているとの指摘もある。山口それでは公教育が成り立たない。初めから掛け算の九九は覚えんでええよと言って、掛け算の指導なんてできますか。それと同じ。指導要領が音楽の授業で「国歌・君が代を指導すること」と定めているのは、歌詞や音階、リズムを覚えさせるだけでなく、歌うという前提が当然そこに入っている。「歌わない自由はある」という前提で学校教育での指導はできない。
―初めから指導の埒(らち)外に置くというわけにはいかないと。山口そうだ。確かに、教師側が強制と思っていなくても、それが「子供たちの思い通りでない」場合は強制と受け取られることはよくある。だからといって指導をやめたり、初めから指導しなければ、それは教育の放棄。強制かどうかの受け止めは、最終的には先生の日ごろの指導の心が子供にどう伝わっているか、どれだけ根気よく指導できているかにかかっている。
―現場で特に懸念される状況があるのか。山口最近、中学校で対教師暴力が減っている。これを単純に喜んでいいのかどうか。今まで常識から見て「それはだめ」と指導してきた教師の姿勢が後退していることも考えられる。学校がしっかりした指導理念を持ち、腰を据えない限り、すべての教育活動はやっていけない。
―発言の撤回や訂正を求める声が多いが。山口正式の場で責任と信念を持って発言した答弁。簡単に取り下げられるほど軽いものでない。批判は批判として受けるが、撤回も修正もする気持ちはない。批判の動きばかりが報じられているようだが、「指導の姿勢をはっきり言ったのは好ましい」という賛同や激励もたくさんいただいている。
―国や県から何らかのアプローチは。山口全くない。私から説明に出向く必要もないと考えている。文部省、県教委の見解を逸脱していないし、考えが食い違っているとは思っていない。


公式発言の要旨(9月16日、高松市議会、岩崎順子議員の一般質問)
―日の丸、君が代の法制化によって、学校現場の国旗・国歌の取り扱いはどのように変わるか。
山口教育長 法制化は現行の学習指導要領に変更を及ぼすとは理解していないので、国旗・国歌の取り扱いに変化はない。
―入学・卒業式で起立・斉唱しない教師、保護者、生徒がいたらどうするか。それぞれに歌わない自由はあるのか。山口 学習指導要領に基づき、教育活動に直接かかわる教師・生徒は、起立・斉唱するよう指導する必要がある。歌わない自由があるかどうかについては、教師と生徒は学習指導要領により、指導することになっており、歌わない自由はないと考える。保護者は個人の自由だ。
憲法99条に「公務員は憲法を尊重し、擁護する義務がある」とある。公教育での国歌・国旗の強制は、憲法19条「思想・信条および良心の自由」の擁護義務に反しないか。山口 法制化は国民に新たな義務を課すものではないことから、取り扱いについても強制されるものではなく、従って憲法に反するとは理解していない。
―音楽教師が伴奏を拒否したら罰則規定があるか。山口 職務命令として命じられた際、拒否した場合には、罰則規定はある。


(注)学習指導要領中の国歌・国旗の取り扱い
【小・中特別活動編】  入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする。
【小学校音楽編】  国歌「君が代」は、各学年を通じ、児童の発達段階に即して指導すること。


私はこう思う
内心の自由侵さず   高橋正俊・香川大副学長(憲法
国旗・国歌法には罰則などの強制はないが、公的な意味があるのは明らか。指導要領は、この意味を読み込んで理解されることになる。従って、教育長が公教育の場で、生徒に「国歌を歌わない自由がある」とは言えないだろう。強制かどうかは、場所や状況など総合的に判断する必要がある。国歌斉唱が教育的指導に限られるものとすれば、「思想・良心の自由」を侵すとまでは言えない。


問題ある指導要領  池端忠司・香川大法学部助教授(憲法・情報法)
仮に、国歌がさまざまな歴史的背景を持つ君が代でなくても、それを学校教育の場で強制的に歌わせることは内心の自由に立ち入るものだ。憲法が保障している「思想、良心の自由」が何よりも優先されなければならない。その意味で入学式、卒業式など儀式の場はもちろん、音楽の授業でも国歌を指導するよう明記している現行の学習指導要領の内容そのものに問題がある。


言葉だけ一人歩き  善生昌弘・県教職員連盟(香教連)委員長
言葉の問題だけが一人歩きして、政治問題になってしまった気がする。教育長発言は、文部省や県教育長とも考え方は同じで、特に問題はないと考える。どうしても歌えない場合は仕方がないが、最初から指導しないわけにはいかない。根気強く指導するのは、強制ではない。これまで県内では特に問題はなかったが、指導に差が出ないように教育現場で共通理解を図ることが大切だ。


答弁の取り消しを  高井和雄・県教職員組合(香教組)委員長
山口教育長の発言は、文部大臣や県教育長の見解を逸脱している。「内心の自由」を保障した憲法子どもの権利条約の精神が分かっていないのではないか。「自由はない」が「強制はしない」というのは、矛盾した発言。公的立場の人が、誤解を招くようなことを言うべきではなかった。教育現場に大きなプレッシャーを与えるものとなっており、勇気を持って答弁を撤回してほしい。


率直な思いの表明  東原岩男・県教育会副会長
子どもの権利条約」は、子供の思想・良心の自由などを権利として認めてはいるが、年齢や成熟度にふさわしい考慮が払われるものとしている。公立学校の教師は、自己の思想・信条は別として、子供の発達段階や個人に即して誠実に指導し、その職責を果たしてほしい。子供たちも真摯(しんし)に学んでほしい。山口教育長は、そうした思いを率直に表明したかったのではないか。


子供が選択すべき  松下良樹・日教組香川委員長
子供には「内心の自由」があり、君が代の歴史や意味を教えた上で、歌うか歌わないかは子供自身の選択である。教育長の発言は、強制とも受け取れる不適切な表現だ。真意をただした結果、「歌わない児童・生徒がいれば事実として認め、強制はしない」とのことなので、子供の側にとっては「歌わない自由はある」と解釈した。今後、教育現場で指導の在り方を議論する必要があるだろう。


発言は理解できる  上枝秀則・高松市PTA連絡協議会会長
あいまいな答弁では教育現場を混乱させると思ったのではないか。教育長の立場からすれば、理解できる発言だ。「強制はしない」と言っているのに、受け取る側が言葉じりをとらえて問題にしている。新聞報道だけでは誤解を受ける恐れがある。反対の声ばかりが大きいが、みんな本当にそう思っているのだろうか。少数意見も大事だが、一部の声だけが増幅されているような印象を受ける。


強制せずは欺まん  稲角尚子香川・PTA問題ネットワーク世話人
思想、良心の自由を保障している憲法子どもの権利条約に明らかに違背した発言。強制はしないと説明しているが、これは欺まんだ。教師対生徒という力関係が厳然として存在する中で、「歌いなさい」と言われた子供が「歌いたくない」と言える状況が今の学校にはない。今回の発言は、子供の意思を無視し力づくで押しつけようとする教師を元気づける役割しか持たない。


取材を終えて 指導、強制ですれ違い
「この問題は、本当に難しい」。山口教育長のインタビューと周辺の賛否の声の取材を終え、追跡班の心に残ったのは、正直、そんな気持ちだった。
「指導する際の学校の姿勢、気持ちの持ち方について、問われ方に沿い、率直に述べただけ。子供たちに強制する考えはない」
「自由はない」発言の真意について、山口教育長のインタビュー内容を要約すれば、こうなる。子供たちへの強制の懸念は、当のご本人が否定しているのだから、それで終わりかというとそうではない。
山口発言とそれを批判する側の間には、次元の異なる幾つもの論点が、モザイク様に組み合わさっているのだ。例えば、「学習指導要領は、憲法教育基本法を踏まえている」に対し、「その指導要領こそ問題」とする論がある。
さらに、指導と強制の境界についても、「一定のことを教えるのが強制というなら、公教育は成り立たない」という言い方があれば「粘り強い指導とは、強制ではないか」「子供が強制と感じれば強制」との反論もある。
この対立は、広げていけば、歴史観から教育観、社会観まで異なるもので、少なくとも短時間では埋めようもなく、接点を探った追跡班の疲労感の大きな原因となった。
ただ、教育長インタビューで一つ明らかになったのは、思い切った発言の動機が、教育現場の指導力減退に対する指揮官としての強い危機感だという点だ。
例示したのは、中学校における対教師暴力の減少。結構なことのように見えて、内実は教師が腰を引き、衝突を恐れ、避けているためではないかという懸念を教育長自身が持っていることを示したのだ。
素直に受け止めれば、止めどない価値観の多様化の中での“強い教師像”の希求。が、教育現場の“悲鳴”とも聞こえた。
いずれにせよ、その発言が新たな論議の種になったとしても、自身があいまいさに逃げ込む限り、問題の解決につながらないとの固い信念が伝わるインタビューだった。


大西正明、泉川誉夫、山下淳二が担当しました。(1999年10月4日四国新聞掲載)