何を説明しているか

発言席 - 「開かれた保守主義」とは - 内閣官房副長官下村博文毎日新聞 2007年2月4日(日)朝刊)

20世紀は「戦争と革命の時代」であったと言われている。21世紀はどのような時代となるのだろうか。01年の9・11同時多発テロは、21世紀が我々の予想もつかない、さまざまな矛盾をはらんだ世紀になるであろうことを予感させるに十分な出来事だった。
こうした視点に立ち、日本の将来を展望するとき、保守主義者はいかなる対応をすべきだろうか。その一つの梃子(てこ)が、安倍晋三首相の示した「開かれた保守主義」であると、私は考えている。
従来、保守主義というと、過去を墨守する考え方と思われてきた。しかし私は、保守主義もまた激動する21世紀に対応し、未来にチャレンジすべきであると考えている。すなわち、保守主義を実践的に「鍛え直す」必要があるのだ。安倍首相はそのことを見据えて、保守主義という言葉の前に「開かれた」という形容を付けたのだと理解している。
「開かれた保守主義」は、空間軸としては世界と国民とに開かれたものとして、時間軸としては未来に開かれたものとして構想されていると考えている。
もちろん、「開かれた保守主義」は保守主義である限り、我が国の歴史・伝統や家族などへの配慮を忘れることはない。未来へのまなざしとともに、過去への配慮をも見据えたものだ。
私の言う歴史や伝統とは、「古い」ものだけを指すのではない。例えば、家族や教育の場などを通して過去から積み上げられ、習得された我々の立ち居振る舞いや言葉遣いだ。一人一人の国民はそれを背負っている。そしてその延長に、国全体の振る舞いがある。その普遍性を、教育などのあらゆる機会を通じて問いただすことが、21世紀の日本の保守主義の使命なのだ。
昨今、近代の合理主義が生み出した西洋文明の限界が明らかになってきたという状況がある。このことは、地球環境の破壊に象徴されている。そして、かつて政治学者のハンティントンが指摘した「文明の衝突」は、昨今の宗教対立に顕著だ。出口の見えないイラク情勢は、融和と強調とをもって解決を図らなければならないだろう。私は、これらの状況を超克する手がかりを、日本の歴史・伝統にさかのぼることで得ることができると考えている。
例えば、我が国の伝統である「和の精神」は、現在の混沌(こんとん)たる世界において求められている「自然との共生」、「人類の共生」への願いと重なり合う。
そして、このように我が国の歴史・伝統の普遍性を問い、それに目を向けつつ、国の将来の在り方を問いかけることが必要だ。「開かれた保守主義」が戦後体制からの脱却を主張する理由は、「戦前が良かった」などというアナクロニズムからではない。むしろ21世紀において、精神的にも豊かで、安心できる国を目指すうえで、何が求められているのかを明らかにするために、戦後体制からの脱却が必要であると考えるのだ。
教育基本法の改正はその糸口だ。更には、憲法改正も必要となる。憲法は国民の、そして国の精神の在り方を規定するものであり、基本的理念だ。
日本の将来を託すことのできる理念を国民の手でつくり上げ、提示することが、憲法改正の狙いの一つだ。
日本の保守政治家は、大きな困難に直面している。いかにして「日本人のこころ」を、生活実感に裏打ちされた「ことば」で、国民に語ることができるか、という困難だ。その意味で、「開かれた保守主義」は、現代の日本が乗り越えていかなければならない未来への「道標(みちしるべ)」であると考える。