前戦では銃後を守れない

つねづね思うことで、これから先も何度も書くこと。


「ただただ『反戦』を叫ぶグロテスク」だとか「自国のみの平和でいいのか」とかいろいろ言う人がいるのだが、よくわからない。
この人たちは一体何を言っているのか、言いたいのか。


戦争の本質とはいったい何か。
言うまでもなく「殺人」と「破壊」に他ならない。
他に、認めることのできる項目を思いついたり目にしたりしたことは、残念ながらまだない。


例えば「目の前で自分の家族や友人が殺されていっても、それでもまだ銃を取らないのか」と問う人がいる。
答えは「否」だ。
「戦争」という手段で解決しないのは明白だ。
個人的復讐ということであれば、ギリギリ理解する余地もないではない。
しかし、その場合でも、対象がその行為に関わった人間の「同胞」になることは決してない。
なぜなら、「同胞」をいくら殺したとしても、決して復讐を遂げることはできないからだ。


銃を持ち、目の前の「敵」を否応なく殺すとき、それは自分と自分の家族、友人を殺すことに他ならない。
前戦にいるとき、どんなに銃後の家族や友人を想っても、彼らを守ることはどのようにしてもできるはずがない。


2月に母が死んでから父と戦時の話も遠慮なくできるようになり、尋ねたことがある。
父は予科練にいてそのまま終戦となったが、終戦直前に、友人の多くは結局のところ自らの命も落とし、銃後の家族も守ることができなかった。
父の「やっぱり、守れないんだよ」の一言は、この上なく重いものとなった。


こうしたことどもに、たとえ多くの人が耳を傾けなくても、もうイヤだとは言わない。