大江健三郎「伝える言葉 - 読みなおし続ける - 自分の命生かす共生を」(朝日新聞2004年11月16日(火)朝刊)

あらしのよるに』について言及があったので。

(前略)
その上で、『あらしのよるに』のしめくくりが、友達のために命を投げ出すというシーンであることに、他の書き方はないだろうか、と思いました。そこを踏みとどまって、苦しい旅をするヤギとオオカミとともに、ふたり生きての行く末を考えてもらいたい。その方法をどうしても考えつかないなら、子供の(大人になっても読みなおし続ける)読み手に、考えてゆくバトンを渡す。そんな書き方もあるのじゃないでしょうか?
それというのも、「いのちを かけても いいと おもえる ともだち」という<美しい言葉>*1は、使われ方で<むごい>*2強制をもたらすからです。「ともだち」を「家族」「国」「世界」と置き換えてみてください。
この二月、自民党民主党議員連盟教育基本法改正促進委員会」の設立にあたって、西村真悟衆院議員が、「国のために命を投げ出してもかまわない日本人を生み出す。お国のためにささげた人があって、今ここに祖国があるということを子供達に教える。これに尽きる」と挨拶しました。
自分の命を差し出す覚悟の発言、というのじゃない。ひとに命を投げ出せ・ささげろという、それも子供にいう。子供たちにいえ、と教師に強いる法律を作ろうとする。この議員の倫理感覚の鈍さにあらためてウンザリしますが、私は自分の命についても、それを生かす道から、一緒に生きることを考え始めたいと思います。自分が生きることを考えない共生は、それこそ矛盾です。

物語としてのあのラストについては結局何も書いていなかったが、ひとりで残ってしまうメイのやりきれなさとか、やはりふたりで生き残ったらガブは菜食するしかないのだろうかとか、そんなことを思っていたのだと思う。
そしてここでまたそのラストを思い出しつつ読んだのだが、確かに、このキナ臭さを嗅ぎつつ考えると、作者である木村氏はどう思うかわからないが、この大江健三郎の意見にはおおいに同意するところである。


腰抜けといわれようと平和ボケといわれようと、私は妻と子供と犬を含めた家族と、友人とその他大勢の人たちと一緒に生きていきたい。

*1:原文では傍点

*2:原文では傍点