大江健三郎「伝える言葉 - 未来への未練 - 老人はなぜ悲しげなのか」(朝日新聞2005年1月25日(火)朝刊)

(前略)
将来、こういうことをやりたい、と思っている。逆に、こういうことが起こってはならない、起こりそうなら、体を張ってもとどめたい、と考えている。それが、やりたいことはできず、起こってはならないことが起こりつつある。その将来が、無念でならない。未来にかけて、未練がある……
私は子供のころ、老人はたいてい悲しい顔をしている、と気になり出しました。
(中略)
そしていま、あれは「未来への未練」の表情だったのだ、と気が付きます。かれらは、敗戦の窮境から出発し、不戦の覚悟と民主主義に立つ再生をめざして、それをなしとげた人たちでした。しかもこの国の進み行きのなかに、全面的な逆転の契機がひそんでいることを、ひしひし感じている人たちでもありました。
渡辺一夫さんは、「人間らしくあること」の思想化といっていいユマニスムを、日本の文化に根づかせようとした温厚な大学者ですが、怒りとも悲しみともつかぬものの激発する声で、−また、始まった! と嘆かれることがありました。それは青年時から十五年戦争破局にいたるまでを見届けられた、「後戻りできない道」の方へ、政治指導者が立ち戻る気配を感じてのことです。
今年初めの新聞で見る、自民党有力議員たちの、また奥田トヨタ会長ら経団連の、ともに元気の良い憲法九条改正への提言が、そして市民社会のなかにとくに中国に対抗して高まるナショナリズムの気分が直接に、−また、始まった! を思い出させます。
元気の良い勢力は、あと五年を、企ての目安としているようです。それを「後戻りできない道」に踏み込む五年とさせないように、もう嘆くこともできない人らの「未来への未練」を、伝え続けたいと思います。

渦中のNHKでも、憲法改正に関する、視聴者を巻き込んだ番組を放送している。どういう意図なのかはわからないが、これが例のキナ臭い動きと連動するものなのであれば、うんざりだ。歴史は駆け足で検証もせず動きに繋がりそうなトピックだけピックアップして驚いてみせる。「なぜ、こんなことになったのか」と問いかけるように見せかけ、世論調査の結果もショッキングな比率だけクローズアップして論調の背景に埋め込む。
これがそのうち民法へも波及してくるのだろうか。街頭インタビューを適当に繋げて流れを作り、こまめに「反対分子」を排除し何事かをいいにくくする。


そんな方向へ向かっているのなら、これは本当に恐ろしいことだ。