梅原猛「反時代的密語 - 日本の伝統とは何か」(朝日新聞2005年5月17日(火)朝刊)

近頃、教育基本法には伝統の尊重ということがうたわれていないので教育基本法憲法改正に先立って改正すべきであると主張する人がいる。その人が伝統というものをどう考えているかはよく分からないが、どうやら教育勅語を日本の伝統に根ざすものと考え、教育勅語の精神にもとづいて道徳教育を行えば日本人は立派な道徳的人間になると思っているらしい。果たして教育勅語が日本の伝統に根ざすものであろうか。
教育勅語にはさまざまな道徳が羅列されているが、その中心道徳は「一旦緩急アレハ義勇公二奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」という言葉に表現されている。いってみれば、戦争が起こればお国のために命を捧(ささ)げてこのすばらしい国を守れというのである。
私は最後の戦中派であるが、大東亜戦争といわれた太平洋戦争中には「天皇のために死ね」という言葉が天からも地からも響いているようであった。この声に従って多くの友人は、無謀に始められ、しかも敗戦が確実になっても軍人たちがなかなかやめようとしなかった戦争に参加し、潔く戦って散っていった。私は好運にも命永らえて帰ってきたが、三百万以上といわれる日本人を空(むな)しく死にいたらしめたこの戦争を心から憎んだ。
(中略)
哲学者、和辻哲郎は戦時中、『尊皇思想とその伝統』という書物を書き、天皇を神とする思想が日本の伝統であることを証明しようとしたが、その証明は成功していない。天皇を神とする思想は『古事記』 『万葉集』にあり、『神皇正統記』などで主張されてはいるが、そのような思想が盛んになったのは江戸中期以後であり、それは倒幕の思想として利用されたにすぎない。
日本はこのような宗教の下で近代国家として発展し、大国となり、十五年戦争に突入し、敗戦の憂き目をみた。このような近代日本をイギリスの哲学者、バートランド・ラッセルは、国の元首が神であることを批判することが許されない日本がどうして近代国家であるかと批判している。
戦後、マッカーサー指令によってこの新しい神道が否定され、昭和天皇は「人間宣言」の詔を出されたが、科学的思考が支配する二十世紀の世界において、天皇がわざわざ「人間である」という詔を出されるのはまことに奇妙なことであると思われる。
(中略)
三島由紀夫はこの人間宣言の詔を否定し、天皇はいつまでも神であるべきだったと考え、小説『英霊の声』を書いたが、私は天皇人間宣言から真の近代日本が始まったと考える。
今上天皇百済武寧王の皿を引く桓武天皇の母、高野新笠に触れて「韓国との縁を感じている」といわれ、「君が代」を歌い日の丸を掲げる運動を嬉々(きき)として務める棋士に「強制になるということではないことが望ましい」と、リベラルな学者でも容易にいえないようなことをおっしゃったことからも、天皇家の人々は大変リベラルで、教育勅語に示される天皇制に逆行することを望んでいらっしやらないのではないかと私は察するものである。
改めて私はいいたい。教育勅語は決して日本の伝統に根ざすものではない。教育勅語を復活させるのは、伝統文化を愛さずもっばら私利を追求する知なき徳なき政治家のいうことを、天皇の命令だといって従わせることになるのではないか。
(後略)

「学校へ帰ろう <不登校問題を考える>」というサイトに「教育基本法改正論者の本音」とのエントリがあった。「教育基本法」「教育勅語」をキーワードにしてググってみると実に種々の意見をみることができる。中にはとんでもない錯誤もあり、暗澹とした気持ちにもなるが、梅原猛の言う通り、教育勅語は決して日本の伝統に根ざしたものではないのは明らかだろう。未だに「女性天皇はどうか」などとしかめっ面をしているような輩がいることでもわかる。天皇がどういうものかを知らずに天のために命を賭せなどと強弁するのであれば、自らがやって見せたらよかろう。それほどの覚悟もないのであれば、わめき散らさずにおとなしくしていることだ。