「愛国心」について少し考えてみた

昨今、スポーツの応援と絡めて語られる機会の多い「愛国心」。そのスポーツを応援する際に「自然に沸き上がってくる感情」の源泉は何か、についてごく簡単に考えてみた。
ごくごく簡単に言えば、「身近な人が頑張っているのを見て応援したくなった」と言うことに尽きるんじゃなかろうか。
「身近」というのは、例えばそのスポーツが好きでも嫌いでも見聞きする機会が多いという場合(相撲・柔道・野球・サッカーなど)もあるだろうし、一般的にはよく知られていないけれどそのスポーツが好きで、そのスポーツで活躍している人たちがどんなに努力しているかなどについて知っているというような場合(フェンシングとかカヌーとか?)もあるだろうし、知っている人が何かのスポーツで活躍している場合(親戚・ご近所・同僚・宿飯を共にしたことがあるなど)もあるだろう。日本人があまり活躍しない/できないようなスポーツの場合は外国人選手でも応援するわけだし、新潟県十日町市のように「どちらも応援しなくちゃ」ということだってあり得ることだ。
つまりはその選手やチームに「肩入れ」する理由があるから応援するのであって、それが「人間が成長していくにつれて自然に身についていく」こともないし、肩入れする理由がなければ「心の内側から沸き上がる」こともない。決してない。
自身を振り返ってみると、父の職業上の理由により生地から何ヶ所かの地を転々としたために、どこの土地にも郷愁がある反面、強烈な愛着は持っていない。これから先、幸いにも郷愁も愛着もその土着の人々と共に持てるようなこともあるかもしれないが、今は残念ながら、ない。
そんなこととは関係なく、スポーツだけでなく種々の分野で自分の好みの人々に肩入れし応援したり好きこのんで批評のまねごとをしてみたりするのだ。
どうもこの「スポーツを応援する」ことと「愛国心」を対比して「わかりやすい例」のように提示されることに、かなりの疑念を持っている。