「立憲主義」の危機

id:sava95さん経由で知った記事。ありがとうございます。東京新聞はいつもながらよい記事を載せるのだなぁ。


社説「終戦の日に考える 平和主義は百年の公約(東京新聞 / 2006年8月15日)

(前略)
慶応大学の小林節法学部教授といえば改憲派の代表的論客として知られてきました。政党、経済団体、マスコミのブレーンを務め、世論づくりに重要な役割を果たしてきましたが、最近になって、その改憲論を棚上げ、改憲阻止へと方向転換してしまいました。転向の理由を聞かないわけにはいきません。
(中略)
小林教授の立場は、(侵略は禁止だが)自衛権、自衛戦力保持明記で学界では少数派。このような考えで憲法を明確に書き直すべきだとの自称「護憲的改憲派」で、海外派遣を順次解禁した政府解釈を「政府が最高法について嘘(うそ)をつくことこそ害悪」との考えです。
(中略)
小林教授の「憲法改正私案」公表が九二年、講師を務めた読売新聞の憲法改正試案が九四年、自民党憲法調査会の勉強会への参加となっていきました。しかし、この権力サークル内での活動と若手議員たちとの接触体験が統治する権力側への不信となっていきました。
(中略)
苦労知らずの二世、三世議員。決定的だったのは、根幹の憲法観をめぐるその姿勢にありました。
憲法は権力を縛るもの」−。この立憲主義こそ近代憲法の原理原則であり、人類が歴史から学び、たどりついた英知でもありました。
人間は不完全な存在で、内に無限の欲望をもちます。個人の能力を超えた権力を与えられた政治家、公務員は暴走し、国民を苦しめます。それゆえに権力にたがを嵌(は)める立憲主義は、小林教授にとって「人間の本質に根ざした真理」であり「統治者が身につけるべき常識」でした。
ところが、権力に近い世襲議員たちの憲法観は、憲法をつかって国民を縛ろうというものでした。「国を愛せ」「家庭を大切に」と道徳にまで介入しようとするその“新しい憲法観”は、その実、明治憲法への逆行でした。
(中略)
立憲主義の本質をわきまえない政治権力ほど恐ろしいものはありません。自分たちは安全地帯にいながらの歯止めなき海外派兵ともなるでしょう。
(後略)



国民を縛る憲法を手に入れた権力はヨダレが垂れるほど魅力的だ。権力闘争も熾烈になり、手に入れた者の暴走がどんどんエスカレートする可能性は拭えない。天皇すら口を差し挟めない状態だった*1過去を振り返るがよい。
すでに軽々しく権力批判を口にすることができないような雰囲気がないか。一方の口は開きっぱなし、一方の口には押さえようとする手が殺到する。昨日の参拝前の「反対する団体」の映像が短時間映った。「全学連」のヘルメットをかぶりマイクロバスから降りようとするのを警官が阻止しようとし、その背越し頭越しに傘やら棒やらでヘルメットを殴打するのを止める者のいない状態。
「日本人なら当然」という言葉の裏に何が潜んでいるか、よく意識し考える。忘れないようにしよう。

*1:異論は多々ある