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MotoGPライダーたちが富沢のアクシデントを悲しむ(The Official MotoGP Website 2010年9月6日(月))

第12戦戦サンマリノリビエラ・ディ・リミニGPの決勝レースが行われたミザノ・ワールド・サーキットは、MotoGPクラスの決勝レース後、富沢祥也の不運な死去を伝えると、パドック中が深い悲しみに包まれ、MotoGPライダーたちがメッセージを送った。


トニ・エリアス
「この瞬間、みんなが悲しみを感じている。昨日、クリニカ・モービルでショーヤと冗談を交えて話したけど、もう僕たちと一緒にいないと考えると、本当に恐ろしい。彼は僕の人生で決して消すことができない跡を残した。」


7年前に開幕戦日本GPの鈴鹿で、加藤大治郎の死去を経験したファウスト・グレシーニ
「今日のレースは、勝利を味わうことが全くできません。ライダーを失うという意味を理解している。彼の家族と彼のチームが今どのような状態にあるのか認識している。」


レプソル・ホンダのダニ・ペドロサ
「気持ちを表す言葉はない。すごく悲しく、恐ろしく、起きてはいけないことだ。彼はすごく楽しく、いつも幸せだった。ライダーとしては、僅か時間でみんなの尊敬を勝ち得た。速く勇敢だった。」


ホルヘ・ロレンソ
「富沢に起きたことの後で、レースのことをあまり話せない。今日彼に起きたことは残念。彼はナイスガイで、ストロングなライダーだった。すごく悲しい。彼の家族と友人たちに申し訳ない。」


バレンティーノ・ロッシ
「こんなに悲しいことが起きてしまうと、全てがゼロになってしまう。リザルトは重要ではない。本当に申し訳ない。彼は非常にストロングなライダーだったけど、何よりもすごく好感で、いつも笑顔だった。まだ若く、この先グレートなキャリアが控えていた。すごく悲しい。」


ケーシー・ストーナー
「1週間前のピーター・レンツのアクシデントのように、呼吸が止まってしまうほどの恐ろしいことだ。彼の走りを見ることが喜びだった。グレートなレースをするところを見たかった。」


ニッキー・ヘイデン
「彼の家族とチームを考えるけど、パドック中がこの悲劇に強烈に打ちのめされた感じだ。結局、僕たちはみんなが兄弟。ビックなタレントとグレートなパーソナリティーを持ったライダーを失った。彼のスタイル、決定力、そして、いつも絶やさない笑顔が好きだった。」



リーディングとデ・アンジェリス、大怪我なし(The Official MotoGP Website 2010年9月6日(月))

富沢の転倒後、接触を回避することができなかったが、幸い大きな負傷からは逃れることができた。
マーク・VDSのスコット・リーディングとJiRのアレックス・デ・アンジェリスは、第12戦戦サンマリノリビエラ・ディ・リミニGPの決勝レースで転倒を喫したが、大きな怪我に見舞われなかった。
トップグループで走行中の12ラップ目、4番手を走行していた富沢祥也が転倒。直ぐ後ろを走っていたリーディングとデ・アンジェリスは、時速200キロを超えるスピードで走っていたことから、目の前で横転した富沢との接触を回避することができず、激突後に激しく転倒を喫した。
17歳の英国人ライダー、リーディングは、背中を裂傷したことから、メディカルセンターで10針縫った。
チームマネージャーのミシェル・バルトメリーは、「スコットの転倒は激しかったことから、背中を切っただけのケガで済んだことに感謝しています」と、説明。
「我々は、レース中のアクシデントにより亡くなった富沢のニュースに、心から深く悲しんでいます。彼は尊敬するライバルであり、パドック中が大変寂しく思います。今、私とチーム全員は、彼の家族と友人たちと一緒にいます。」
地元グランプリに参戦したデ・アンジェリスは、路面に叩きつけられた、大きなケガはなかった。
「ショーヤに起きてしまったことがすごく悲しい。家族をはじめ、彼を愛する全ての人たちに対して申し訳ない。今はこれ以上のことは言えない」と、言葉少なく、サーキットを後にした。



富沢選手父「祥也は素晴らしい夢だった」(スポニチ Annex ニュース 2010年9月8日(水))

5日にイタリアで行われた2輪の世界選手権シリーズ今季第12戦、サンマリノGPのMoto2クラス決勝レース中に事故死した富沢祥也選手(享年19)の個人マネジャーだった上田昇氏(43)が両親の気持ちを明かした。
上田氏は7日付のイタリア紙「コリエレ・デロ・スポルト」に「(富沢選手が)亡くなった直後に父親(42)と電話で話した。“祥也は素晴らしい夢だった”と話していた」とコメント。両親は6日に成田空港を出発し、現地入りしている。



MotoGPライダー、富沢祥也選手に哀悼の意(F1-Gate.com 2010年9月7日(火))

MotoGPライダーたちが、第12戦サンマリノGP Moto2クラスのレース中に転倒を喫し、不運にも帰らぬ人となった富沢祥也選手に哀悼の意を表した。


バレンティーノ・ロッシ
「こんなに悲しいことが起きてしまうと、全てがゼロになってしまう。リザルトは重要ではない。本当に残念だ。彼は非常にストロングなライダーだったけど、何よりもすごく好感で、いつも笑顔だった。まだ若く、この先グレートなキャリアが控えていた。すごく悲しい」


ホルヘ・ロレンソ
「富沢に起きたことの後で、レースのことをあまり話せない。今日彼に起きたことは残念。彼はナイスガイで、ストロングなライダーだった。すごく悲しい。彼の家族と友人たちのことを思っている」


ダニ・ペドロサ
「気持ちを表す言葉はない。すごく悲しく、恐ろしく、起きてはいけないことだ。彼はすごく楽しく、いつも幸せだった。ライダーとしては、僅か時間でみんなの尊敬を勝ち得た。速く勇敢だった」


ケーシー・ストーナー
「1週間前のピーター・レンツのアクシデントのように、呼吸が止まってしまうほどの恐ろしいことだ。彼の走りを見ることが喜びだった。グレートなレースをするところを見たかった」


ニッキー・ヘイデン
「彼の家族とチームを考えるけど、パドック中がこの悲劇に強烈に打ちのめされた感じだ。結局、僕たちはみんなが兄弟。ビックなタレントとグレートなパーソナリティーを持ったライダーを失った。彼のスタイル、決定力、そして、いつも絶やさない笑顔が好きだった」


トニ・エリアス
「この瞬間、みんなが悲しみを感じている。昨日、クリニカ・モービルでショーヤと冗談を交えて話したけど、もう僕たちと一緒にいないと考えると、本当に恐ろしい。彼は僕の人生で決して消すことができない跡を残した」


7年前に開幕戦日本GPの鈴鹿加藤大治郎の死去を経験したファウスト・グレシーニ
「今日のレースは、勝利を味わうことが全くできません。ライダーを失うという意味を理解している。彼の家族と彼のチームが今どのような状態にあるのか認識している」



日本GPで 富沢選手追悼セレモニー(スポニチ Annex ニュース 2010年9月7日(火))

5日にイタリアで行われた2輪の世界選手権シリーズ今季第12戦、サンマリノGPのMoto2クラス決勝レース中に事故死した富沢祥也選手(享年19)の追悼セレモニーが、第14戦日本GP(決勝10月3日、栃木・ツインリンクもてぎ)で行われることになった。
ツインリンクもてぎを運営するモビリティランドが、レース前の黙とうや献花台の設置などを検討していることを明かした。同クラスにエンジンを供給しているホンダレーシングカンパニー(HRC)の中本副社長は「チャレンジングスピリットあふれる有望なライダーを失ったことは大変残念に思います」とコメントを発表。富沢選手の両親は6日に成田空港からイタリアへ出発した。



富沢さんこれからなのに − レース中事故死 匝瑳高時代の恩師ら絶句(読売新聞 2010年9月7日(火))

旭市出身のオートバイレーサー富沢祥也選手(19)が、イタリアでの世界選手権シリーズのレース中の事故で亡くなった。将来を期待された選手のあまりにも突然の悲報に、地元の関係者は言葉を詰まらせた。
富沢選手は4歳でレース活動を始め、ポケバイやミニバイクを経て、2006年に全日本選手権の125ccクラスにデビュー。08年には同250ccクラスでシリーズ総合2位となり、09年から世界に挑戦。4月の今季開幕戦のカタール・グランプリではモト2クラスで優勝した。
「まだまだ、これからだったのに……」。富沢選手の母校・匝瑳高校で2、3年時に学級担任だった教諭の成川賢一さん(43)は、教え子の早すぎる死を悲しんだ。世界をにらみ、英語を勉強しようと、英語科に入学した富沢選手。学業とレースを両立させ、「だれからも好かれる明るい生徒だった」。
卒業後も、サーキット場ツインリンクもてぎ」(栃木県)でのレースに招いてくれたり、今年4月に母校を訪れた際、英語科の1年生に高校時代の話をしてくれたりしたという。成川さんは「公道を走るのは怖いと話していたので、かえって安全だと思っていた。まさかこんな結果になるとは」と肩を落としていた。
富沢選手の世界挑戦を地元有志と応援するTシャツを作り、資金面で支援した旭市の「関モータース」店長関邦治さん(42)は「まさかという感じ。言葉ではうまく言えない」とショックを隠せない。「日本人として日の丸をしょっての世界でのレース。プレッシャーとも戦っていたのだろう。本当に残念」と話した。



レースディレクションが富沢の事故について説明(The Official MotoGP Website 2010年9月5日(日))

レースディレクションの関係者たちが、共同会見を開き、それぞれの視点からアクシデントに関して説明した。
レースディレクションは5日、第12戦戦サンマリノリビエラ・ディ・リミニGPのMotoGPクラス決勝レース後、プレスカンファレンスを行い、アクシデントにより死去した富沢祥也に関して、状況を説明した。
ミサノ・ワールド・サーキットのプレスカンファレンスルームには、レースディレクターのポール・バトラー、FIM代表のクロード・ダニス、ライダー代表のフランコ・ウンチーニ、ドルナ代表のハビエル・アロンソ、メディカルディレクターのクラウディオ・マッキアゴデナが出席。それそれの立場から状況を説明した。


クラウディオ・マッキアゴデナ
「3人のライダーたちが転倒し、その結果重症を負った非常にシリアスなアクシデントに関して話しをしたいです。アレックス・デ・アンジェリスは自分の足で立ち上がり、スコット・リーディングには問題がありませんでした。そして、3人目となる富沢祥也は非常に重症でした。」
「最初の考えは、もし、可能ならば、直ぐにレースをストップすることでした。危険だったからです。しかし、担架が直ぐに到着し、ライダーをトラックから運び出した時、医師としての決断は、救急車の介入が遅れると、私の仕事に役立たないことから、赤旗の提示することをレースディレクションに要求しないことでした。プロテクターの後ろには、呼吸器を備えた救急車があり、直ぐに全ての集中治療を始めました。赤旗を要求しなかったのは必要がなかったからです。」
「その後、ライダーはメディカルセンターに到着しました。数人から、移動が遅れた理由を質問されましたが、集中治療はトラックのプロテクターの後ろで直ぐに始めました。腕を骨折した場合には、救急車はタクシーのように、ライダーを素早く動かすことに役立ちます。ここで非常に重要なのは、2人の医師と人口呼吸器です。」
「メディカルセンターに到着した時には、彼は危篤状態で、集中治療を継続しました。沢山の医師が治療に尽くしましたが、状況は危険でであることから、人口呼吸の試みを続けました。スキャナーで腹部の外傷を検査しました。頭部と胸部も状況は非常に深刻でした。」
「心外傷に苦しみ、最善の選択は、リッチーネの病院に移動することでした。非常に近いからです。呼吸プロセスを継続するために、2人の医師が救急車に乗り込みました。もし、ヘリコプターで移動していれば、それが不可能でした。病院に到着し、約10分間治療を続けましたが、最終的に富沢の状況を回復させることができませんでした。」


ポール・バトラー
「最初に、富沢の家族と友人たち、そして、チームに我々の哀悼の意を表すことを言わなければいけません。マッキアゴデナ医師は、状況を非常に明白に説明してくれました。私の仕事は、私が受けるアドバイスを基に、赤旗を提示するかしないかを決断することです。」
「メディカの介入は非常に早く、効果的でした。アクシデントのポイントには、多くのメディカルサービス、つまり、数台の救急車と沢山の医師たちが控えていました。そして、トラック上の他のライダーたちの安全性を確認しなければいけません。マーシャルたちの介入は非常に迅速でしたから、他のライダーたちに危険はありませんでした。転倒したバイクと破損した部品は、素早く回収されたことから、赤旗を提示する理由はありませんでした。」


クロード・ダニス
「私はポール・バトラーの発言を確証したいです。一緒に相談した後、レースをストップさせる必要はないと思いました。次の周回でライダーたちがそのポイントを通過するときには、全てがOKだと思われたからです。そして、そうなりました。もちろん、今日は我々全員にとって大変悲しい日となりました。FIMを代表して、富沢の家族、チーム、友人たちに深く哀悼の意を表したいです。このようなことは、度々起きてしまいます。」


フランコ・ウンチーニ
「私たちは彼の家族、友人たち、チームの直ぐそばにいます。全員が彼を近くに感じています。起きたことは、安全面に関して確認すべきことはないと言うことができます。このような負傷は、不運にも、どんな時にでも起きてしまいます。現時点でのテクノロジーでは、この問題を解決するのは非常に難しいですが、このようなアクシデントの際にダメージが少なくなるように、将来に向けて働いています。」


ハビエル・アロンソ
「今日、我々はエクセレントな人を亡くしました。もちろん、グッドなライダーですが、それ以前にエクセレントな人物で、大変申し訳ないです。家族、もちろん、チームを大変申し訳なく思います。ただちょっとしたことをハッキリさせたいです。公式発表の前に、死亡したというニュースが流れたことです。私たちは、最初に家族に知らせたかったです。家族に連絡が入ったということを受け、発表しました。」



富沢祥也、12日に帰国(The Official MotoGP Website 2010年9月10日(金))

帰国のスケジュールがようやく決定。悲劇のアクシデントから7日後、日本に到着するすることとなった。
第12戦戦サンマリノリビエラ・ディ・リミニGPのMoto2クラス決勝レースで転倒死したテクノマグ‐CIPの富沢祥也が、12日に帰国することが決定した。
MotoGPクラスの決勝レース終了後、日本人ライダーたちは揃って、富沢が緊急治療のために搬入されたリッチョーネ市内の病院を訪問。6日の夜には、父・輝之さん、母・有希子さんが日本からボローニャのボルゴ・バニゴーレ空港に到着し、直接病院を訪れていた。
ここ数日間、チームと家族は、地元警察の現場検証や検死、書類上の帰国手続きに追われていたが、9日の午後、11日にイタリア・ローマのチャンピーノ空港を出発することが決まった。
ご両親は、1日早く10日に出発。お葬式の準備を進め、12日に遺体が到着する成田国際空港に迎えに行く。



オートバイ:旭出身でレース中事故死の19歳、富沢選手 地元衝撃 /千葉(毎日新聞 2010年9月8日(水))

◇「悲運としかいいようがない」−−成田空港で出発見送る記者に笑顔
旭市出身のオートバイレーサー富沢祥也さん(19)が、イタリアで5日に行われたグランプリ(GP)モト2クラス(600CC)の決勝レース中の事故で亡くなった。県立匝瑳高を昨年春に卒業。「世界で活躍を」との期待を担い、疾走してきた若者の突然の悲報に地元は大きなショックを受けた。
富沢さんは4歳のころからポケットバイクに親しみ、小・中学時代にミニバイクレースでめきめき上達した。高1の06年には全日本選手権125CC級にデビュー。08年、同250CC級で総合2位となり、高校卒業後、単身渡仏。4月の開幕戦カタールGPで念願の初優勝を飾り、世界各地を転戦し、イタリアで12戦目だった。
「まさにこれからなのに……悲運としかいいようがない」。匝瑳高で担任だった成川賢一教諭(43)は早すぎる死を悼んだ。「学業と両立させ、世界に行きたい」。レースは土日のみで勉強熱心。笑顔が絶えず、誰とでも仲良くなる子だった。「先生、公道の方がレース場より怖いよ」。高3で免許を取得した時にはそう言っていたという。今年4月と6月の帰国時も学校を訪れ、近況報告した。
記者は千葉県版の連載企画「あした輝く」で取り上げようと、7月の帰国時、旭市内でインタビューした。「マシンやコースの事前チェックも重要。レースは先の先までイメージし、他のバイクが止まって見えるくらい全神経を集中する」。極限の世界を、そう説明してくれた。
「パスタとか毎日おいしい」と生活を楽しみながらも「一戦ずつ上に。負ける訳がないと思うほど、努力したい」。そして「モータースポーツをもっと盛り上げたい」。強じんな意志を感じさせる青年だった。
成田国際空港で出発を見送った。「頑張って」「はい」。その笑顔が今も脳裏に焼き付いて離れない。合掌。【武田良敬】



富沢選手の事故死をイタリア検察が捜査(サンケイスポーツ 2010年9月9日(木))

【ローマ7日】5日の二輪ロードレース世界選手権サンマリノGPのMoto2決勝で起きた富沢祥也選手(享年19、スッター・ホンダ)の事故死について、イタリア・リミニの検察庁が捜査を開始したことが7日、わかった。同国のANSA通信によると、サーキットやレース運営の関係者が過失致死罪に問われる可能性もあるという。
事故直後、レースを中断しなかったことが問題視されている。イタリアではF1の94年サンマリノGPでアイルトン・セナ氏が事故死した際も、所属していたウィリアムズの関係者を過失致死の疑いで10年以上調査したことがある。