59年目「慰霊の日」

沖縄、慰霊の日 摩文仁で追悼式 小泉首相も出席(asahi.com

沖縄は23日、太平洋戦争の沖縄戦で亡くなった犠牲者を悼む「慰霊の日」を迎えた。激戦地だった本島南部の糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園では、県主催の沖縄全戦没者追悼式があり、7140人が参列。小泉首相も2年ぶりに出席し、「私たちは、将来にわたって平和を守り、二度と悲惨な戦争を起こしてはならない責務を負っている」と述べた。正午には県内各地でサイレンが鳴り、黙祷(もくとう)がささげられた。

沖縄の地上戦では多くの住民が犠牲になり、59年前のこの日、日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる。

小泉首相の追悼式出席は3回目。あいさつで首相は在日米軍基地が沖縄に集中していることに触れ、「県民生活に大きな負担になっている。負担軽減に向けて誠心誠意努力する」と述べた。イラクへの自衛隊派遣や多国籍軍への参加については言及しなかった。

追悼式に先立ち、首相は約18万人の遺骨が納められた摩文仁の丘の国立戦没者墓苑を訪れ、献花した。

稲嶺恵一知事は「平和宣言」で、国際紛争やテロで多くの人が命を落としている現実に触れながら、「民族や宗教などの違いを乗り越え、寛容の心をもって互いの立場を尊重しあい、相互理解に努めなければならない」と呼びかけた。

沖縄の基地問題については「国の安全保障のあり方の問題だ」としたうえで、「基地の整理縮小や日米地位協定の見直しは、国民一人ひとりが自らの問題として取り組む必要がある」と訴えた。

戦没者の名を刻む同公園の「平和の礎(いしじ)」には今年、新たにハンセン病患者111人、戦艦大和の乗組員177人を含む国内外672人の名前が刻銘され、総数は23万9092人になった。

沖縄戦慰霊の日:47回目の県主催の追悼式 沖縄・糸満(MSN-Mainichi INTERACTIVE)
戦艦大和の死者ら185人、沖縄「平和の礎」に刻銘(YOMIURI ON-LINE)
悲惨な地上戦から59年…沖縄「慰霊の日」(Sankei Web)
きょう慰霊の日 恒久平和へ誓い新た(琉球新報

きょう23日は「慰霊の日」。一般住民を巻き込み、多くの尊い命や財産、文化遺産を奪った沖縄戦から59年が経過した。糸満市摩文仁平和祈念公園では、午前11時50分から県主催の「沖縄全戦没者追悼式」が行われ、戦没者のみ霊を慰めるとともに沖縄から恒久平和を発信する。

追悼式には小泉純一郎首相が2年ぶりに出席。茂木敏充沖縄担当相、坂口力厚労相らも参列する。

正午の黙とうの後、稲嶺恵一知事が平和宣言を読み上げ、首里高校3年の金城実倫(さねのり)君が「平和の詩」を朗読する。

この日は「島守の塔慰霊祭」「南洋群島戦没者並びに開拓殉難者慰霊祭」など各団体主催の慰霊祭も一斉に行われる。

イラク多国籍軍への自衛隊参加問題をはじめ14日には有事関連七法が成立するなど、日本を取り巻く環境が大きく変わる中、改めて平和の尊さを考える1日となりそうだ。

戦争体験者が減り、遺族の高齢化による沖縄戦の風化が進む中、若い世代への戦争体験の継承も課題となっている。

◇厳かに前夜祭/平和祈念堂 組踊も奉納/糸満市
糸満】「慰霊の日」を前に22日夜、2004年度沖縄全戦没者追悼式前夜祭(主催・沖縄協会)が糸満市の沖縄平和祈念堂で開かれた。県遺族連合会や日本遺族会の会員ら約300人が出席し、戦没者のみ霊を慰めるとともに平和への誓いを新たにした。

式典では、遺族の代表者による献火や献鐘が行われる中、出席者一同が黙とうをささげた。

琉球古典音楽6団体と琉球箏曲2団体による「瓦屋節」「金武節」「辺野喜節」が演奏され、色鮮やかな衣装で琉球舞踊、組踊が奉納された。

主催者を代表して小玉正任沖縄協会会長は「現在の平和な生活が、幾多の尊い犠牲の上に築かれたことを決して忘れてはならない。沖縄平和祈念堂から全世界の人々に恒久平和の実現を訴え続けていくことを誓う」と鎮魂の言葉を述べた。

◇知事談話 要旨
「慰霊の日」を迎えるに当たり、全戦没者のみ霊に対し謹んで哀悼のまことをささげる。

戦争の悲惨さと、幾多の犠牲があったことをあらためて心に刻み、その教訓を次の世代に語り継ぐとともに、世界の恒久平和の確立に努めることが、わたしたちに課せられた重大な責務だ。

県民には「慰霊の日」の趣旨をくみとり、共に戦没者を追悼し、平和を誓う日としていただきたい。家庭や職場で、正午の時報に合わせて戦没された方々のみ霊に対し1分間の黙とうをささげるようお願いする。

戦場の記憶いまだ鮮明 なお進まぬ戦後処理(琉球新報

沖縄は23日、戦後59年の慰霊の日を迎えた。イラク多国籍軍への自衛隊参加決定や憲法改正論議が高まる中、激しい地上戦を体験した遺族らは複雑な思いで追悼式を迎える。59年経た今も、旧軍飛行場所有権回復や遭難船舶犠牲者への補償などは解決せず、沖縄の地には戦没者の遺骨が横たわり不発弾が眠る。平和の礎(いしじ)には追加刻銘としては過去2番目に多い名前が刻まれ、追悼の気持ちを思い起こさせる。戦後処理の現状と課題をまとめた。

◇不発弾/見えぬつめ跡2500トン/かさむ処理費10倍に
那覇市浦添市などは2002年度から不発弾の周囲を掘削して6メートルほどの鉄製の強固な防護壁で囲み処理する手法を取り入れている。避難範囲が縮まり住民生活への影響も抑えられるが、従来の手法に比べ10倍の処理費がかかる。不発弾処理経費の50%は特別交付金で還付されるが残りは市町村負担。増える負担に県は、戦後処理の一環として全額国負担にするよう求めているが、進展はない。

今年4月25日に那覇市首里大名町で行われた強固防護壁による不発弾処理では避難半径を260メートルから106メートル、避難対象者も1900人から780人と約4割に抑えられた。一方で従来手法なら約10万円で済んだ費用は約90万円と9倍に。

那覇市の03年の処理費は535万円。強固防護壁による処理費がかさみ、前年度の4・3倍に膨らんでいる。

2003年度に県内で処理された不発弾は25トン。復帰後では1425トンが処理された。しかしいまだに2500トンの不発弾が埋まっていると推計されており、すべてを処理するには60年はかかるとみられている。

◇戦時遭難船/遺族補償の動き鈍く
太平洋戦争中に米潜水艦の魚雷を受けて沈没した学童疎開船「対馬丸」の悲劇を伝える対馬丸記念館那覇市若狭に完成した。犠牲になった1418人の名を刻銘し、ランドセルなどの遺品や遺影、証言VTRなどを展示する。8月22日に開館する予定。同館は遺族会が求めていた船体引き揚げに代わる慰謝事業として国が総工費2億3000万円で建設した。

沖縄戦で陸上の戦闘参加者には援護措置がなされたのに対し、船舶の犠牲者には遺族補償もない。今に残る戦後処理問題の一つだ。

米軍の攻撃で沈没した嘉義丸、湖南丸などの戦時遭難船舶遺族会は結成20年を迎えた。「遺族が高齢化する中、1日も早く問題解決を」と国に遺族補償と遺骨収集などを求めているが、国に補償に向けた目立った動きはない。

◇遺骨収集/戦争体験者減り場所特定困難に
沖縄戦戦没者の遺骨収集作業は戦後すぐ、住民によって各地で始まった。国による遺骨収集は1956年から日本政府の委託で琉球政府が実施。復帰の72年に厚生省(当時)の事業になった。個人やボランティア団体の収集作業も続いている。

しかし、遺骨収集を行う場所は住民の証言が頼り。戦争体験者が減る中で、収集も難しくなっているのが現状だ。

2003年度までに収集された遺骨の数は18万3590柱となっている。

沖縄戦では20万人以上が犠牲になっており、県は遺骨収集の対象となる18万8136柱のうち4546柱が未収集のまま残っていると推測している。

今年は国が2月に名護市、中城村西原町で遺骨収集を実施。民間の収集分と合わせ133柱を国立沖縄戦没者墓苑に納骨した。

◇旧軍飛行場/意向一本化難航か/地主会 個人補償の声根強く
戦前、日本軍に接収された飛行場用地の所有権回復を旧地主が求めている旧軍飛行場用地問題は今年4月、学識経験者らによる検討委員会が、個人補償ではなく法人化による団体補償を国に求めるべきだとする報告書を示した。

これを受け、県は報告書の結論を9地主会に説明するなどの作業を進めているが、地主会の中には個人補償を求める声も根強い。

県は本年度中に沖縄振興計画に基づく戦後処理策を国に求めたい考えだが、その前提となる地主会の意向の一本化には厳しい環境が横たわっている。

検討委員会は報告書で「旧軍飛行場の設置とその後の経過や現状は飛行場ごとに異なっているため、統一的な処理は現実的でなく、個々の飛行場に応じた団体補償がなされるべきであり、条件が整った市町村から順次事業化すべきだ」との方針を示した。具体的には旧地主への慰謝を前提に地域振興に寄与する事業の推進を挙げ、旧地主や所在市町村を主体とする法人を設立し、国からの補助金を受け入れ、老人福祉や福利厚生など幅広い事業の展開を想定している。

県は同報告書の概要を9地主会のほか、内閣府財務省にも説明した。その後に関係6市町村で組織する市町村連絡会議の幹事会を開催し、現在は関係市町村が地元地主会の意向を確認している。今月中に連絡会議を開き、国に求める戦後処理策の一定の方向性を詰める考えだ。

県基地対策室は「検討委員会から一定の方向性が示されたが、問題解決には地主会の理解がどう得られるかにかかる。地主会ごとの経緯からさまざまな意見があることは承知しているが、解決には各地主会、市町村、県の連携が必要だ」と話している。

◇平和の礎/刻銘 前年度の4倍/多い遺族や関係者の要望
「平和の礎(いしじ)」の本年度の追加刻銘は672人と前年度の4倍に増えた。これは県が遺族や関係団体の要望に応えて昨年から平和の礎に刻銘する戦没者の対象を広げ、申請要件も緩和したため。戦後59年が過ぎても、犠牲者の名を刻み供養したいという遺族や関係者の要望が多いことが浮き彫りになった。

対象拡大により、県内では「遺族の申請に限る」との要件で阻まれていたハンセン病療養所・沖縄愛楽園、宮古南静園で亡くなった111人が刻銘された。戦争マラリアなどで戦後1年以内に死亡した人も対象になった。

県外では沖縄へ向かう途中撃沈された富山丸や戦艦大和などの戦没者も加えられた。

礎の23日現在の刻銘者は23万9092人。