59年目「慰霊の日」(2)

沖縄「慰霊の日」新たに刻銘672人…首相ら参列(YOMIURI ON-LINE)

沖縄は23日、「慰霊の日」を迎えた。

太平洋戦争末期の沖縄戦終結から59年。最後の激戦地となった沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園では「沖縄全戦没者追悼式」(県主催)が開かれ、稲嶺恵一知事は平和宣言で、米軍基地問題について「基地の整理縮小や日米地位協定の見直しは、国民1人1人が自らの問題として取り組む必要がある」と訴えた。

遺族らは早朝から公園入りし、園内にある戦没者の名前を刻んだ「平和の礎(いしじ)」に花を供え、手を合わせた。礎には今年新たに、遺族側から申請があった戦艦大和の沖縄水上特攻の戦死者ら672人が追加刻銘され、刻銘者総数は23万9092人になった。

式典には、遺族ら7140人が参列し、参列者全員が正午から1分間、黙とうをささげた。

3度目の出席となった小泉首相は、園内の国立沖縄戦没者墓苑で献花した後、式典に参列し、「私たちはこの歴史を後世に語り伝えるとともに、2度と悲惨な戦争を起こしてはならない責務を負っています」とあいさつした。

差別と偏見のため、まとまって参列する機会のなかったハンセン病回復者も、県内2つの国立療養所から計12人が出席した。

平和の誓い世界へ 追悼式に7140人(琉球新報

沖縄戦で亡くなった犠牲者のみ霊を慰める「沖縄全戦没者追悼式」(県主催)が23日、糸満市摩文仁平和祈念公園で行われた。イラクへの自衛隊派遣、有事七法案の成立など、日本が戦争に巻き込まれる懸念が高まる中で迎えた「慰霊の日」。参列者約7140人が哀悼をささげた。2年ぶりに出席した小泉純一郎首相はあいさつの中で、米軍施設・区域が集中する沖縄の現状について「県民の負担軽減に向けて誠心誠意努力していきたい」と述べた。

今年は平和の礎に、ハンセン病療養所で亡くなった111人が追加刻銘され、同療養所・沖縄愛楽園(名護市)と宮古南静園(平良市)からも関係者が参列した。

伊良皆高吉県議会議長が「二度と悲惨な歴史が繰り返されないよう、恒久平和の構築に努めることは私たちの責務」と決意を示した後、正午の時報に合わせ、全員が黙とうした。

県遺族連合会の座喜味和則会長は「世界各地で紛争は絶えず激化している。二度と悲惨な歴史を繰り返さぬよう平和を希求する『沖縄の心』を発信し続ける」と追悼の言葉を述べた。

小泉首相、茂木敏光沖縄担当相、坂口力厚労相ら招待者35人が献花した後、稲嶺恵一知事が「沖縄が恒久平和の発信拠点となるよう、県民の総力を傾注する」と平和宣言した。続いて、首里高校3年の金城実倫(さねのり)君が戦時中に住民が置かれた状況と平和の尊さを込めた「平和の詩」を読み上げた。

小泉首相は「私たちは悲惨を極めた戦いの歴史を後世に伝えるとともに、平和を守り、二度と悲惨な戦争を起こしてはならない責務を負っている」と誓った。

早朝、糸満小学校を出発した県遺族連合会などの平和行進団約800人も同式に参列。式終了後、一般参列者が次々と焼香し、犠牲者のめい福を祈った。

◇首相、2年ぶり参列
小泉純一郎首相は23日午前、那覇空港に到着。国立沖縄戦没者墓苑で献花をした後、2年ぶりに沖縄全戦没者追悼式に参列した。小泉首相の参列は、就任以来3度目。来県は通算5度目。

首相は追悼式終了後、記者団の質問に答え、米軍普天間飛行場辺野古沖移設に向けたボーリング調査が反対運動で計画通り進んでいないことについて「地域住民の皆さんとよく話し合っていきたい」と述べた。地位協定見直しには「運用改善で対応していくように努めたい」と述べ、否定的な見解を示した。

◇平和宣言要旨
沖縄は、第二次世界大戦で、住民を巻き込んだ過酷な地上戦の場となり、20万人余の貴い命が失われ掛け替えのない多くの文化遺産が破壊された。家族など愛する人々を失った悲しみは戦後59年がたった今も癒えない。戦後の米軍統治下から現在に至るもなお、米軍基地の過重な負担を強いられている。

沖縄の基地問題は国民全体にかかわる重要課題。基地の整理縮小や地位協定の見直しは国民一人ひとりが自らの問題として取り組む必要がある。

世界では、地域紛争やテロ、貧困などにより多くの人が命を落としたり、人間としての尊厳が蹂躙(じゅうりん)されるなど深刻な問題が存在している。

慰霊の日に当たり、戦没者のみ霊に心から哀悼の誠をささげるとともに、沖縄が恒久平和の発信拠点となるよう、県民の総力を傾注していく決意をここに宣言する。

2004年6月23日

沖縄県知事 稲嶺恵一

戦没者追悼式 鎮魂 平和 祈り深く(琉球新報

「また会いに来たよ」。慰霊の日の23日午前、沖縄戦の犠牲者が刻銘された平和の礎には、早朝から遺族が訪れ、戦争で引き裂かれた家族と“対面”した。強烈な日差しの下、遺族は家族の名前を見つけると、「暑かったでしょう」と刻銘板に水をささげ、渇きを癒やした。沖縄戦から59年。遺族も老いてきたが、「あの戦だけは忘れられない」と壮絶な記憶を焼き付けたまま戦後を生きた。今年はハンセン病療養所の戦没者111人が刻銘。県に要望し続けた入所者らは「やっと人間として認められた」と喜んだ。

那覇市松川に住む與那嶺清一さん(76)は毎年、戦死した父親と弟、祖父母を弔うために夫婦で礎を訪れる。父親の繁さんは牛島中将がいた部隊に所属していた。清一さんは学校から軍属として直接召集され、家にも帰れず本や衣類も軍から家に届けられた。北部に配属され、南部の本隊と合流しなかったために生き残れたという。礎の前に座り、花や線香を供えた清一さんは「みんなのおかげで自分たちが元気でいられる。生きている自分たちが弔ってあげないと」と語った。

那覇市識名の平野キヨさん(82)は戦争中、南洋群島にいた。そこで3歳と3カ月の子ども2人を亡くした。本島にいて戦死した弟2人、祖母やいとこたちも礎にまつられている。現役兵だった弟はどこで亡くなったか分からず、遺骨もない。ごちそうを礎の前に供え、ひざをついて手を合わせた。

平野さんは「何を話していいか分からない。ただ忘れてないよ、と声を掛ける。ここに来ると涙がでる」とうつむき、ほおをぬぐった。

浦添市の金城幸松さん(70)は、19歳で亡くなった兄幸太郎さんの名が刻まれた刻銘板をじっと見詰めていた。「兄は防衛隊に取られ、首里で亡くなったと聞いているが、どこかも分からない」。戦後、亡父は兄が亡くなったと思われる首里に行き、遺骨代わりの石を拾って墓に納めたという。

◇肉親の姿思い涙ぬぐう/魂魄の塔
身元の分からない遺骨を多くまつった糸満市摩文仁の魂魄(こんぱく)の塔には23日、戦争で家族と生き別れになった人らが朝から足を運び、どこで最期を迎えたか分からない身内の顔を思い浮かべるなどしながら、線香と花を手向け、静かに手を合わせた。

古堅トミさん(83)=那覇市=は弟2人を戦争で亡くした。「下の弟はまだ17歳で防衛隊に取られた。なんでこんな若い人まで戦わなければなかったのか。毎年この塔に来ると弟たちの顔を思い出し、涙が出てくる」と話した。

山里全武さん(74)=同=は戦争では弟を亡くしたが、最期の場所は「島尻のどこかとしか分からない」。北部の山で食料を持って避難小屋に逃げ込もうとした時、日本兵が自分たち家族に向けて銃を発砲したことが今でも忘れられない。有事法制化や自衛隊イラク派遣などの動きには強い懸念を持っているといい、「もうだれも戦争で命を落とさない平和な世の中になってほしい」と願いを語った。

◇「生きた証し刻まれた」/ハンセン病元患者
今年、平和の礎に新たに刻銘されたのは672人。このうち111人がハンセン病療養所での戦没者だ。23日午前、国立療養所沖縄愛楽園(名護市)と宮古南静園(平良市)の入所者らが糸満市の平和の礎を訪れ、新たに刻銘された仲間の名前に花をささげ、黙とうした。その後、両園自治会は「ハンセン病患者の生きた証しの扉が開かれた」との声明文を読み上げた。

沖縄戦時、両園では計約450人が爆撃やマラリア、栄養失調、壕掘りによる傷の悪化などで犠牲となった。入所者らは以前から県に礎への刻銘を要望していたが、遺族の申請に限るという条件がネックとなっていた。今回、県が条件を緩和したため、刻銘が実現した。

午前10時半すぎ、両園の入所者らは追加刻銘された名前を確認。愛楽園自治会の迎里竹志副会長(71)と南静園自治会の宮里光雄会長(69)らが献花し、黙とうした。

55人が刻まれた愛楽園自治会からは入所者10人が参加。元患者の金城幸子さん(62)=具志川市=は「きょうは(戦没者が)人間だったことが認められた日だ。裁判で勝った時と同じぐらいうれしい。今後1人残らず刻銘されてこそ人権が回復される。ほかの遺族も勇気を持って名乗り出てほしい」と呼び掛けた。

56人が刻銘された南静園の宮里会長は「同じ県民として扱ってもらい、心から喜んでいる。人間回復の1つとなった。亡くなった方々も心の平安が得られたと思う」と静かに話した。

◇戦の愚かさ後世に/平和への道踏みしめ
糸満】平和を願い一歩一歩―。「慰霊の日」の23日午前、県遺族連合会と日本遺族会主催の第43回平和祈願大会が糸満市糸満小学校運動場で開かれ、県内外から約千人の遺族らが集まった。梅雨明けを告げる強い日差しの中、参加者は黙とうで戦没者のみ霊を慰め、恒久平和の思いを胸に同市摩文仁平和祈念公園まで約10キロの道のりを歩んだ。

大会で遺族らは「世界に再び戦争を引き起こす一切の行為をやめさせること」「非核三原則を順守すること」などを政府に求める「6・23慰霊の日平和アピール」を高らかに宣言し、世界平和への思いを再確認した。

あいさつで座喜味和則県遺族連合会長は「戦没者らが歩いたであろう道を一歩一歩踏みしめ、真の平和が訪れること祈願する」と願い、日本遺族会長の古賀誠衆議院議員は「戦争の惨禍や多大な犠牲があったことを心に刻み、慰霊行進を通じてわが国はもとより、世界の国々に平和を発信したい」と参加者に呼び掛けた。

沖縄戦で戦死した父親をしのびながら毎年参加する浦添市の与座盛一さん(59)は、「戦争は無慈悲で残酷なものということを子や孫たちに伝えないといけない。若い人たちももっと平和行進に参加してほしい」と語った。夫を失った大里村の新垣千代さん(82)は「疎開先に届けられた十・十空襲の様子をつづった手紙を最後に、夫との連絡が途絶えた。当時を思い出すととてもつらい。イラク戦争などをテレビで見ると、将来がとても心配だ」と世界の現状を憂い、平和な世界を祈った。