梅原猛「反時代的密語 - 仏教の道徳」(朝日新聞2005年6月21日(火)朝刊)

梅原猛「反時代的密語 - 仏教の道徳」(朝日新聞2005年6月21日(火)朝刊)

私は現在の日本人の道徳的退廃を深く憂慮するものである。日本人はもう一度、真剣に道徳について考えなければならないと思うが、それには日本人の心情を千年以上の間培ってきた仏教の道徳を想起すべきであろう。仏教の道徳には十善戒と六波羅蜜がある。十善戒はしてはならないこと、六波羅蜜はすべきことの規定である。
ここでは六波羅蜜について語ろう。六波羅蜜とは布施(ふせ)・持戒・忍辱(にんにく)・精進・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)という六つの徳を完成させることである。このうち持戒と禅定と智慧は「戒」すなわち戒律を守り、「定」すなわち瞑想(めいそう)をし、「慧」すなわち智恵を磨く徳であり、釈迦が愛欲を減ぼすために必要な徳として挙げたものである。六波羅蜜は、この戒・定・慧に大乗仏教が新たに布施・忍辱・精進の徳を加えたものであろう。
利他の行を重んじる大乗仏教は布施の徳を第一の徳とする。布施には財施・法施(ほっせ)・無畏施(むいせ)の三種がある。つまり人に物を与える財施のみではなく、今私がここで仏法について語るような、法を与える法施も布施であり、また悩める人の話を聞いてやってその人の不安を取り除く無畏施も布施なのである。大乗仏教の釈迦像は、左手は物を与える形の与願印を、右手は人の不安を取り除く形の施無畏印を結んでいる。それは大乗仏教がいかに布施の徳を重んじているかを示すものである。
私は人間中心主義をとるヨーロッパの哲学者とは違って、動物にも道徳があり、その道徳の根源は親心、母心であると考えている。ときどきテレビで動物の生態が放映されるが、鷲(わし)の親鳥が命がけで獲物を捕らえると、すみやかに巣に帰り、子鳥たちに獲物を食べさせ、子鳥たちがガツガツ食べるのを親鳥が目を細めてみている姿が映し出される。その姿は人間の親が、自分が働いて得たお金でおいしいものを買ってきて子どもたちに食べさせて喜ぶ姿とほとんど変わらない。
鮭は遠い海の果てから故郷の川に帰り、卵を産むと死ぬ。目を大きく開けて死んでいる鮭の姿をみると、心なしか満足げにみえる。鮭は子のためにわが身を布施したのである。動物の種族はこのような布施なくして今日まで生き、永らえることはできなかったろう。
子どもはこのような無償の布施を受けて成長し、自らが子をもうけると、また無償の布施をする身とならねばならない。ここで人間と動物には多少違いが生じる。人間は復雑な社会を構成しているので、わが子に布施を返すとともに社会に布施を返さねはならない。私は、税金というものは義務化された布施であると考える。先ごろ、税金を払わない大金持ちの話が報道されたが、彼はまったく布施をしない人で、仏教の道徳からいっても人間として不適格者であるといわねばならない。
この布施の徳は少なくとも戦前の日本人には深く浸透していたように思われる。私の生母は肺結核にかかったため、私を産めば必ず死ぬといわれたが、あえて私を産み、そしてまもなく死んだ。その母なき私を哀れんで、伯父伯母にあたる養父母は、大人になることはとても難しいといわれた虚弱な私を実の父母同様の愛で育て、私を一人前の大人にした。戦時中、米が盗まれ、義母が「明日食べる米がないがな」と嘆いたのに、養父は「誰か食うでええわい」といい平然としていた。これらの人たちの心には布施の徳が身にしみついていたのであろう。
布施の徳に次いで大乗仏教が重視するのは忍辱の徳であろう。忍辱はただの忍耐ではない。辱めに耐えることである。人生には必ず失敗・挫折があり、辱めにあう。釈迦は一生乞食(こつじき)をしたが、それは一つには、忍辱の徳をやしなうためであったろう。乞食ほど人にさげすまれる人間はいない。法のためにその辱めに耐えるのが僧の務めであると釈迦は考えたのであろう。
日本の多くのすぐれた宗教者、法然親鸞道元などはいずれも少年時代に父あるいは母を亡くした人であるし、行基、泰澄、円空などは婚姻外の子であった。彼らは幼少にして辱めにあうこと多く、その辱めをバネとして彼らの求道精神が激しく燃えたのであろう。私は、日本人がもっとも愛した「忠臣蔵」は忍辱の劇であるとみる。「忠臣蔵」のもっとも感動的な場面の一つは、祇園で遊びほうけている大星由良之助が「犬侍」という罵りを受け、じっと耐える場面であろう。
布施、忍辱とともに大乗仏教が重視するのは精進の徳である。精進というのは努力とは多少意味が違う。それは欲望を抑え、心を整えて一心不乱に仕事に励むことである。戦前の小学校には薪を背負って本を読む二宮尊徳銅像が立てられていた。仏教の説く精進の徳を国家主義が利用したのであるが、その徳が日本をして世界有数の富裕な国にしたといってよかろう。
しかし現在、この三つの徳は衰え、かつて日本人がもっていた美しい心がまさに崩壊しようとしているように思われる。このような徳を取り戻すことが日本の緊急の課題であると私は思う。