大江健三郎「伝える言葉 - 「知る」と「わかる」 - 反復し「さとる」足場に」(朝日新聞2005年11月8日(火)朝刊)

大江健三郎「伝える言葉 - 「知る」と「わかる」 - 反復し「さとる」足場に」(朝日新聞2005年11月8日(火)朝刊)

宮城の高校の十周年記念の催しに話しに行きました。少子化が進むなかで新設された公立高校ということに関心をひかれたのと、依頼の封筒に、校長先生と二年生の女子生徒の手紙が入っていたのに好意を持ちました。
生徒は、「知る」ことより「わかる」ことへの手がかりになる講を聞きたい、と書いていました。私は、「知る」と「わかる」と自分がどのように区別して使っているか、ふりかえることから準備を始めました。
こういう時、私は和英や和仏の辞書を参考にします。また、柳田国男はどうか、を見ます。柳田の全集の索引には「尻」の例、「若」の例は多いけれど、両語ともありませんでした。柳田が、「まなぶ」から「おぼえる」へと深めてゆく、意味の読み取りと並べてみることにしました。
「知る」から「わかる」と進むことで、知識は自分で使いこなせるものとなります。そして柳田は「おぼえる」の次に「さとる」を置きますが、私は「わかる」の先にも「さとる」があるように思います。それは知ったことを自分で使えるようにすることから、すっかり新しい発想に至ることです。
私はこうした話を糸口にしたのですが、それはこのところテレビ番組の「知る」ことを軸にしたクイズが若い視聴者から年配の人たちまでをとらえていると感じるからです。私自身、家族の脇から答えてみて、国語知識の穴ぼこに気が付いたりしました。
テレビでは、この前まで「ウンチク」のブームでしたし、しばらく前は、次つぎ多方面な知識を示してゆくクイズの解答者に、私は大食家の競い合いと同様、驚異を感じたものでした。しかし、こういう互いに脈絡のない知識の蓄積よりは、「わかる」「さとる」へとつないでゆくことに教育があるだろう、とも感じていたのです。
「知る」ことに始まり、「わかる」ことでしっかり身につけ、様ざまな事象について考えることを言葉にする。表現する・主張する・代弁する、これらをE・W・サイードはひとまとめにrepresentという英語で表して、そうした個人こそ社会の役に立つ知識人だと定義しました。私はテレビのクイズ番組が養成しているのは、むしろ豆知識・人じゃないかと思います。
しかし、まず「知る」ことは大切です。私は「九条の会」に加わって、時おり地方の集会に話をしに行きますが、その行き帰りに、一冊は憲法についての本を読むことにしています。それも名前は知っているが読んだことのなかった学者の、また新しい研究者の本を選びます。それは自分が「わかる」こととしてきた、固定観念を揺さぶるためです。
なかでも古関彰一著『「平和国家」日本の再検討』(岩波書店)は、じつにめざましい本でした。
私は少年時に新しい憲法を受けとめ、前文や9条、そして基本的人権についての記述を、いわば個人的な倫理の規範として生きてきました。しかし古関氏が、とくに9条の成立を、東京裁判天皇に及ぶことを防ぐために連合軍総司令官マッカーサーがリードした政治的工作によるとし、加えて沖縄を切り離して基地とすることで軍事的にも本土の非武装化が可能と判断した、とする論証に説得されました。
これまでも、それを考えなかったのではありません。この方向づけが根本にあり、そこからオーストラリア、ニュージーランド、フィリピンそして中国など被害国への、日本の戦争責任はあいまいとなり、単独講和から日米安保条約に向けてはさらに、これらの国々との個別の平和条約より日米間を優先させる結果となって、いま現在のアジアの難しい事態がある……
さらに私は、日米間の軍事的指揮権、事前協議非核三原則を始めとする密約の、なお私らの知らぬ細部があるらしいことにギクリとします。しかもなお、私は、この六十年の来し方において、憲法の果たした役割について、自分としての確信を新たにするのです。
あらためて、憲法の文体、用語がよく選ばれていることに感銘します。自民党の新憲法草案の前文にある「気概」という言葉を見てください。これを外国人に説明するとして、spiritと訳すことは可能でしょうが、普通の日本人がそれを「気概」と訳し戻すでしょうか?こういうズレのある言葉が、教室にもたらす渋滞を思います。そこでは、ナショナリズムの底意もあらわな指導が可能です。
さて古関氏の本の結びはこうです。《平和を守るために国家の権力行使を阻止するのみならず個人の人権主張、「恐怖と欠乏」を除去するための活動をいかに憲法で保障することによって国の安全を確保するのかを議論しなければならない。時代はむしろ軍事力によって安全を確保できる時代ではないのだから。》
私は高校で政治的な話はしませんが、将来「さとる」ための手がかりとしてなら、この本をすすめておきたいと思いました。