加藤周一「夕陽妄語 − 『孫子』再訪」(朝日新聞2005年11月22日(月)夕刊)

加藤周一夕陽妄語 − 『孫子』再訪」(朝日新聞2005年11月22日(月)夕刊)

その頃(一九三八年)、東京の巷(ちまた)には軍歌があふれていた。そこで石川淳は小説「マルスの歌」を書いて戦争を批判したが、軍国日本の検閲は、「反戦思想を理由としてその本の刊行を禁じた。今(二〇〇五年)の東京にはまだ軍歌が流れているわけではない。しかし国会では、いくさを知らない政治家たちのマルス賛美の声がにぎやかである。検閲や「発禁」はまだない。しかし大衆報道機関における批判的言論はすでに急減して今日に至る。私は昔を思い出した。国内では「国家総動員法」を公布し、国外に向かっては近衛首相が「東亜新株序」の建設を声明した日本を。そこから真珠湾までの道は速くなかった。
どこで道を誤ったのだろうか。なぜ破滅に向かって進み、なぜその方角を変えることができなかったのだろうか。私はまたこの国の現状がなぜ過去を二度くり返すことのできない方角へ進まないのか、ということを考えた。すると、その時、中国の兵法の古典『孫子』の著者に会って、彼ならば日本国の現状をどう見るだろうかを聞いてみたくなった。
そうは言っても相手はおよそ二五〇〇年ほど前の人物である。有能な霊媒でも仲介はむずかしかろう。参籠してまどろめば、夢の中にその神社仏閣の本尊があらわれることはあるが、何処(どこ)の本尊でもない孫子の出現は期待できない。すなわち沖縄の巫(かんなぎ)、「ゆた」にも頼らず、近所の神社仏閣にも参籠せず、しかし、私はふと書斎の夢の中で、孫先生にあった。さすがに人品卑しからず、直ちにそれとわかったのではあるが、さてどちらの孫先生か。名は武かひん(「月」+「賓」)か。
「どちらでもよかろう」とご本人はいった。
しかし、孫武春秋時代、孫ひん(「月」+「賓」)は戦国時代の人で、二人の間には一五〇年ほどの隔たりがある。
「生者にとっては長い年月だが、死者にとっては短いよ」と孫先生はいった、「現に二五〇〇年以上の隔たりを超えて、東シナ海の境界線にもこだわらず、あなたと話しに来ているではないか」。
私はかねてから中国の古典に事態を誇張し、一般化する傾向があることに、いくらか違和感をもっていた。『孫子』も開巻いきなり「兵とは国の大事なり、死生の地、存亡の道…:」で始まっている。それは一般論だ。話はもっと具体的な、それも最近の、いくさのことから始めたい。現にわが自衛隊は、イラクの戦地にいて、しかも政府はその駐留の延長を決めたばかりである。
孫先生は「イラクの戦争は失敗だ。失敗した戦争への参加は政策の失敗である」と断言した。なぜか。戦争は短いほどよいからである。「兵は拙速なるを聞くも、未(いま)だ巧久なるを睹(み)ざるなり」「夫(そ)れ兵久しくして国の利する者は、未だこれ有らざるなり」。イラク戦然(しか)り。ベトナム戦争然り。なにも春秋戦国の昔に限らない。またヒトラーの東部戦線然り、日本の一五年戦争然り。同盟国が電撃戦に失敗したとき、過ちを改めるのに協力すれば賢策、過ちを支持して派兵すれば愚策である……。
「春秋に義戦無し」ですか、と私はいった。
「いや、それは孟子だ」と孫先生は応じた、「孟子は王道を論じ、私は覇道を論じる」。
覇道は戦争の義か不義かを問わない。国にとっての利か不利かを問う。利と不利との極端な場合が存亡である。利と不利を計り、存亡を決めるのに必要な条件が五つある。すなわち、道、天、地、将、法。
その第一、「道」とは何か。必ずしも正義ではない。「道とは、民をして上と意を同じくせしむる者なり」と『孫子』にもいう。「民」は兵士、さらには人民、「上」は将軍、軍隊、さらには国と政府であろう。これは毛沢東の有名な比喩(ひゆ)、「ゲリラは人民の海に泳ぐ魚である」にも通じるだろう。いくさの勝敗、ゲリラによる抵抗と侵略軍の成功、不成功を決めるのは、火力の優劣ではなく、極めてしばしば、ゲリラに対する人民の支持如何(いかん)である。
「彼れを知りて己(おの)れを知れば、百戦して殆(あや)うからず」。「彼れ」の何を知るのか。『孫子』の議論の導くところに従えば、「彼れ」、すなわち敵方のすべてである、−戦いの目標から兵力の配置まで、戦場の地形から天候まで。その中でも殊に重要なのは、相手方の抵抗が組織的な軍隊によるのか、ゲリラによるのか。後者の場合には、ゲリラがどの程度まで人民の支持を得ているかを知ることであろう。そこで戦える戦争と戦えない戦争を分けることができる。あるいは、短期決戦が可能か不可能かを認知することができる。すなわち「百戦して殆うからず」。
その上で『孫子』が「百戦百勝は善の善なる者に非(あら)ざるなり」といい、「善の善なる者」は「戦わずして人の兵を属する」ことだというのは、ほとんど反戦主義の主張ではなかろうか。
「いや、そんなことはない」と孫先生はいった、「春秋戦国時代の経験をふまえての条件つき反戦主義だ。バカな戦争はするな。条件が整えばやむをえざる戦争は否定しない」。戦争をするかしないかを決めるのは自他についての情報である。情報の必要を強調し、情報を集める手段としての「間」(スパイ)についての一篇(ぺん)を設けて議論したのは『孫子』である。戦争論としての先見の明は認めざるをえない。
私の言葉に孫先生は微笑して、「先見の明はいくらかあるだろう。西洋ではクラウゼヴィッツの方が有名だが」と呟(つぶや)いた。そして静かに明主と良将についての一節をみずから引用した。
「利に非ざれば動かず、得るに非ざれば用いず、危うきに非ざれば戦わず。主は怒りを以(もっ)て師を興こすべからず。将は綋(いきどお)りを以て戦いを致すべからず。利に合えば而(すなわ)ち動き、利に合わざれば而ち止まる。怒りは復(ま)た喜ぶべく、綋りは復た悦(よろこ)ぶべきも、亡国は復た存すべからず、死者は復た生くべからず。……」
私は古代中国からの訪問者の議論の理路整然たることに、あらためて感心した。兵事の著者は、戦術を説くばかりでなく、軽々しく師を興すべからざることを力説して、実に説得的であった。
見事な条件付き平和主義者。しかし、夢覚めて後、私の耳に残って去らなかったのは、「死者は復た生くべからず」の一句である。この一句は、歴史と国境を超えて、私を無条件の平和主義の方へ限りなく近づける。人の命よりも高い価値は、この世にない。