時流自論『「愛国心」と「愛民心」』藤原新也(朝日新聞2006年1月23日(月)朝刊)

時流自論『「愛国心」と「愛民心」』藤原新也朝日新聞2006年1月23日(月)朝刊)

「最近はこうして街を走っていても門松をみかけませんなあ。日の丸もない。日本の伝統を守る気持ちも愛国心も、地に落ちたもんですよ」
タクシーで都内を走っていると、年配の運転手から正月早々なげきの言葉が出た。あらためて車窓の向こうに過ぎゆく街を眺めると、確かに走っていた20分間のうちに日の丸は何本か見たが、門松は一度も見ない。
こうした国民の伝統文化や「日本」という国家への帰属意識が退行する風潮の中、さる政治評論家は口角泡を飛はしながら「愛国心のないものは日本を出ていけ!」とテレビで捨て言葉を吐き、石原・東京都知事は学校行事に教員への処分をふくめた生徒への「日の丸」「君が代」の忠誠を促し、永世棋聖米長邦雄氏は園遊会天皇に「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と進言し、小泉首相は逆風の中を靖国参拝強行と、ここのところ右傾化の遠心力が勢いを増している。そういった世相の中、「日の丸」「君が代」は戦争のはじまり!と、左側の思想も遠心力が働いて双方がエキセントリックになっていく。
しかし、熱くなっているのは大人や老人だけで、私は平成の日本人、とりわけ若者らはかつての時代のように愛国心に燃えるようなことはない、と思っている。
これまで世界数十カ国を巡って、それぞれの国家と国民の関係を肌で感じてきたが、多民族で成り立つアメリカという特殊な国は別として、愛国心の強い国にはひとつの傾向がある。それは家族や親類縁者、そして近隣のきずなが強いということである。つまり愛国心とはとりとめのない抽象思考の中から生まれるものではなく、親が子を愛し、子が親を愛し、兄弟が兄弟を愛し、隣人が隣人を愛すという、きわめて身近な愛情の相互補完の土壌の中において芽吹くものなのである。
国家はヒトの集団によって構成されていることは言うまでもないが、その集団の最小単位とは家族である。そして、その家族は町内という集団に帰属し、町は市や県に帰属し、その先に国家という大集団が成立するわけだ。したがって、仮にその最小の基本単位が脆弱化(ぜいじゃくか)している国の国民が愛国心が強いということはあり得ない。
そういう意味では家族崩壊がはじまってはや四半世紀、昨今では崩壊は幼児虐待にまで深化し、それを監視すべき施設も通り一遍の訪問で幼児を見殺しにするようなことの起こるこの国。あるいはまた、少女がタリウムで母親を殺そうとするこの国。隣近所がすでに機能しなくなっているこの国。そのように家族や隣近所の土壌が痩せ細っているこの国において、仮に年寄りが若者に愛国心を求めるとするなら、それはないものねだりにすぎない。
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それから、愛国心を掲げる人たちは愛とは他者との相互関係において成り立つという基本的なことをも忘れている。愛国心、つまり「民が国を愛する」ということはすなわち「国が民を愛する」ということと相応の関係であらねはならないわけである。親子の関係になぞらえれば、親(国家)が子を愛するからこそ子(国民)は親を愛する。仮に「愛国心」という言葉があるなら、それに相応した「愛民心」という言葉とその行いがあってしかるべきなのだ。
しかし、この平成の世にあって、他の国の人から、お前の国にはその「愛民心」があるか、と問われれば、私にはどうも自信をもってイエスと答えることができない。というより近年の国の行いを思い起こしてみるに、国家は逆に民を欺いているのではないかとの感すらある。
社会保険庁は国民の生命線である年金保険を湯水のごとく無駄遣いする。「儲ける!」の〝標語〟のもとに百余人もの国民を殺したJR宝塚線脱線事故の事例をよそに「民営化はうまく行っている」と遺族の神経を逆なでするような発言をする政治家がいたり、国民が一生の買い物である住居から追い出されるという前代未聞の出来事がどうやら官民一体となったごまかしの産物の様相を呈していたり、と「愛民心」どころか「棄民心」という造語まで生まれてもよさそうな世相ではないか。
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若者のことで言えば、昨今フリーターが俎上(そじょう)にのぼり非難されることがしばしばあるが、今日の日本の若者の劣悪な労働環境こそが彼らを生んでいる側面がある。指先ひとつで一部のIT長者が生まれる半面、多くの若者は派遣社員とか契約社員というこのわけのわからない「使い捨て雇用システム」の中でもがいている。
まじめな労働を提供して国家に寄与しながら身分を保障されないこの使い捨てシステムは労働基準法違反であると私は個人的に思っているが、そういう基本的生存権の剥奪(はくだつ)が平気でまかり通っている国なのである。また今を保障されない若者が未来の保障に向かって年金を納めようとする道理がない。
このような国の長が、国民や若者に向かって「愛国心」を持てというのは虫の良すぎる話。
〝おれを愛せ〟というなら、その前に果たして自分の顔が愛されるにふさわしい顔をしているのかどうか、その人相をとくと鏡で見なければならない。