渡辺淳一「私と愛国(2) - 核は自分の感性や情念 改めて考える必要ない」(朝日新聞2006年5月25日(木)夕刊)

愛国心とは、自分の身近な家族、恋人への愛情といった基礎的な単位から、住んでいる村や町、そして日本全体への愛へと、ゆっくり広がり、育まれていくものだと思う。特攻隊の隊員も、愛する家族のいるこの国を守りたいと願って逝ったのではないか。
愛国心の核になるのは自身の感性や価値観。私の作品の描写も、たがが外れたように咲き狂う桜、秋の日に葉脈の先まで透ける紅葉など、いずれも日本の風土から生まれたものばかりだ。
愛し合う2人が性愛の頂点で死を選ぶ「失楽園」も、米国では「なぜ結婚しないのか、死んだら無なのに」と言われた。2人が死という絶対のマイナスによって究極の愛を表現したということが、なかなか伝わらない。「心中」という言葉を持つ日本の価値観を改めて意識させられたね。
僕の小学校時代は愛国心がしきりに鼓舞され、「一億総決起」「神国日本」という言葉があふれていた。そこで育ったのはイラク自爆テロみたいな闘争心だけだった。しかも戦争が終わると、今度は「教科書のこのくだりはまずいから墨で塗りつぶせ」と言われた。これでは権力や為政者は信じられなくなる。
愛国心は感性や情念の蓄積だから、こと改めて教えるまでもない。言葉で表現できるものでもない。それに、ワールドカップや野球に熱狂する姿を見ていると、日本人は愛国心が十分すぎるほどあるように感じる。
なのに今、国会では愛国心を言葉でどう表すかを懸命に議論している。この風景、ポイント外れで、いささか滑稽(こっけい)。不気味な時代がやってきたものだ。