東京新聞 - 教育の原点「基本法改正を検証する」

基本法改正を検証する<1>「焦土からの情熱」(東京新聞 / 2006年6月2日)

インターネットの審議中継に、質問する議員の後ろで大あくびする女性議員が映し出された。五月二十四日、与野党教育基本法改正案の本格審議が始まった衆院特別委員会。後方では、二人の男性議員が身を寄せて長々と話し込んでいる。
NHKの中継がない同月二十七日以降の審議では、空席も目立った。
戦後六十年余。日本の復興を陰で支えた「教育の根本」は今、熱意と倦怠(けんたい)感が奇妙に同居する中で、初めての改正に向けた審議が進む。一九四七(昭和二十二)年三月、基本法が上程された最後の帝国議会の時とは似ても似つかぬ光景である。

「がらんとした空き家のような校舍の中で教育が実施されておる」「実に慨嘆にたえない」
四七年三月十九日。教育基本法とセットになる学校教育法案を審議する衆院教育基本法案委員会で、日本社会党の永井勝次郎が、文部省(現・文部科学省)を追及していた。
学校教育局長日高第四郎が答弁に立った。
「敗戦の結果ではありますけれども、日本を復興させるものは、戦争にも責任のある私どもの力というよりは、何も知らなかった若い人たちの力によって、日本は再びこの情けない状態を」
ここまで話すと、後が続かない。日高は目に涙を浮かべ、おえつを漏らしていた。委員会室は水を打ったように静まり、日高の回復を待つ。皆、もらい泣きしていた。
数分後、ようやく気を取り直した日高は「盛り返さなければならないと思っております。私どもとしては、教育に唯一の望みをかけておりますので万難を排して、喜んで踏み台になっていきたい」「日本を昔の、あるいはそれ以上のいい国家に仕立て上げるようにいたしたい」と続けた。
日高の下で学校教育法を立案した元東宮大夫安嶋弥=ひさし=(83)は、「日高さんは情熱家。純粋ないい人で、信念に燃えていた」と振り返る。
焦土からの復興。そのために何としても義務教育の三年延長を果たしたい−。それは、国民の多くの願いであり、政治家も官僚も一緒だった。
九年間の義務教育を盛り込んだ教育基本法案と学校教育法案は同月末に可決され、即施行された。

占領下の日本。教育関連の法令は、事前にGHQの民間情報教育局(CIE)に翻訳して渡さねばならなかった。文部省の担当者は「敗戦道路」と呼んだ通りを抜けて、日比谷の放送会館にあったCIEまでよく足を運んだ。「われわれは食うものもなく寒さに震えていたのに、CIEに行くと暖房が効いて、コーヒーのいい香りが漂ってきてね。負けたんだなと…」と安嶋は振り返る。
だが、こと基本法に関してはCIE主導で制定されたのではない。
「CIEは基本法については積極的ではなかったと思う。日本側の発想だった」と安嶋は言う。「教育勅語の影響があまりに強烈だったから、それを打ち消すにはどうしたらいいかとね」
発案者は、当時の文相で後に最高裁長官となる田中耕太郎だった。
「教育の重要性にかんがみ、少なくとも学校教育の根本だけでも議会の協賛を経るのが民主的態度と考え、その立案の準備に着手している」
四六年六月二十七日、新憲法を審議する衆院本会議で、田中は基本法の制定に言及。同年八月、首相吉田茂直属の機関として教育刷新委員会が設けられた。田中の前に文相だった安倍能成(よししげ)、東京帝大総長南原繁、旧制一高校長天野貞祐、後の首相芦田均−。そうそうたる委員が並ぶ。ここで基本法の原案は練られた。
委員会とCIE、文部省との三者で、ステアリング・コミッティーという連絡委員会が設けられた。安嶋によると「議運のようなもの」という。詳しい議事録は残されていないが、東京都文京区の野間教育研究所に、各回の議事概要を筆写した秘密資料があった。
それによると、文部省側の主な説明役は、日高だった。基本法が国会に上程された際の連絡委では「非常に困難があったが通過するものと期待している」と説明。CIE教育課長のオアが「文部省のお骨折りに感謝する」と応じた。
根幹部分で、CIEが修正を指示した形跡は残されていなかった。
「『ダメだと言うと、(CIEは)無理にやれとは言わなかった』『押しつけとか米服従とかいうのとは違う』とよく言っていました」。日高の二女小宮山そよ子(79)は話す。
「多くの人は、アメリカ人におしつけられたものであると、考えているように思われます」「わたくしは、当時現場にいたもののひとりとして、誤解であることを知っていただきたい」と、日高本人も後に記した。「日本人の魂がはいっていないとすれば、それは日本人の気概が足りなかった責任であり、よくできているのならば、それは日本人の貢献であります」(文中敬称略)
改正に向けた審議が始まった教育基本法。その制定の歴史を振り返り、改正論の根拠とされている「事実」を検証する。(この企画は、加古陽治、片山夏子、高橋治子が担当します)
<メモ>教育刷新委員会
占領下の日本で教育改革を進める中心となった首相直属の機関。1946年8月に38人の委員が任命された。当時の日本を代表する知識人が集まり、教育基本法や義務教育6・3制の枠組みを作った。委員の多くは同年春に来日した米国教育使節団に協力した「日本教育家の委員会」から選ばれた。GHQは刷新委の議論に干渉しなかったが、連絡委員会を通じて、間接的に運営をコントロールした。刷新委は35回の建議を出した後、中央教育審議会に引き継がれた。



基本法改正を検証する<2>「ある議員の反論」(東京新聞 / 2006年6月3日)

「法案じゃなくて、説法ではないかと私は思います。説教ではないかと」
一九四七(昭和二十二)年三月十九日、教育基本法案を審議する最後の帝国議会貴族院本会議の壇上で、元北海道庁長官(今の道知事)沢田牛麿は、厳しい調子で法案を批判した。
「倫理の講義や国民の心得などということをいちいち法律で規定する必要はなかろうと思います」「こういう説法をしなければ日本人が教育について分からぬということならば、それはあまりに日本人を侮辱した言葉である」
内閣改造で首相吉田茂に更迭された田中耕太郎(後の最高裁長官)に代わった文相高橋誠一郎が答弁に立った。
教育勅語の奉読が廃されておりまする際、(略)国民のかなり大きな部分におきましては、思想混迷を来しており…」「法律の形をもって教育の本来の目的その他を規定することは、極めて必要なこと」
戦争直後の混乱下にある過渡期には、戦前に絶対的な存在だった教育勅語の空白を埋める新たな「教育憲章」が必要だ−。それが高橋の答えだった。

国家が法律で国民の内心に介入することには、沢田に限らず、今も多くの批判がある。にもかかわらず与野党の改正案にはいずれも、いわゆる「愛国心」に関連する項目をはじめ、現行法以上に内心にかかわる徳目が増えている。
戦後教育史に詳しい武蔵野大助教貝塚茂樹(42)も「法律で道徳を規定していいのか」と疑問を呈する。「(改正論議で)当然のことのようになっていることが怖い。法律によって内心の問題に入り込むことだから、本当にそれでいいのかどうか、根本的に議論しなくちゃいけなかった」
学校教育法の立案に携わった元東宮大夫安嶋弥=ひさし=(83)も「沢田さんの意見は正論だと思う。先進国で教育基本法みたいな法律を持っている国はどこもないでしょ。あれは臨時立法だったと思いますよ」と言う。文部科学省の現役幹部の中にも、同様の意見は珍しくない。
実は、文相時代に基本法を発案した田中耕太郎も、似たような考えを持っていた。
「国家が法律をもって(略)教育の目的を明示することは不可能」「国家の目的を法律学的に示すことが不可能なのと同様である」「これを取り除くことはできないにしても、拡張又(また)は強化してはならない」
田中は、論文などでそう記し、あいまいな徳目を法律に記すことに慎重な姿勢をとり続けた。
「抽象的概念を法律に盛り込むのは相当危険なことだ。田中さんは法学者だから、心の問題に国家が立ち入るべきでないという考えが、かなり明確だったんじゃないか」と貝塚は言う。
祖国愛と新憲法下の理想に燃えた学者たちがつくった基本法だったが、一九五〇年代に入るころから与党自由党保守合同で後に自民党)と、日教組などをバックにした社会、共産両党との「政争の具」と化していく。
「法律の中に価値的な問題を入れてしまったがために、基本法そのものが政治的なロジック(論理)の中に巻き込まれてしまった」と貝塚。政治にもてあそばれる基本法改革論議を、若手教育学者の多くは冷ややかにみているという。
自民党公明党の合意といっても、結局足して二で割るっていうような話。『宗教的情操は入れないけど、愛国心だけは入れろ』とか。そういう政治的なロジックに感覚的に飽き飽きしてしまっている。国会周辺では騒いでるが、一般の人はほとんど冷めてるのが実態じゃないですか」(文中敬称略)
<メモ>教育の目的
教育基本法は「人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充(み)ちた心身ともに健康な国民の育成」を期すことを、その目的に掲げている。与党改正案はさらに第2条で「教育の目標」として「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」態度を養うことなど5項目を掲げた。民主党案は前文で「日本を愛する心を涵養(かんよう)」することなどを盛り込んでいる。



基本法改正を検証する<3>「首相倒れた後で」(東京新聞 / 2006年6月4日)

先月三十一日夕、衆議院第二議員会館の会議室に前首相森喜朗、元首相海部俊樹自民党文教族の大物議員が勢ぞろいした。
長年の悲願だった教育基本法改正案が国会に上程された。だが、会期延長しない限り、成立は難しい。それを知りながら、首相小泉純一郎は前日、会期延長をしないと断言していた。
苦虫をかみつぶしたような森たち。「われわれの思いは今国会での成立」−。海部らが翌日、会期延長を申し入れたが、もちろん小泉は応じなかった。

水割りやビールのグラスを手にした有識者らを前に、新首相が長々と熱弁をふるっていた。
二〇〇〇年四月十四日。教育改革国民会議の第二回会合の後、官邸の地下で開かれた立食パーティーは「文教族のドン」と呼ばれる森の晴れ舞台だった。
「氷が溶けてしまいますね」。委員の京都ノートルダム女子大学長(現兵庫教育大学長)梶田叡一は、首相補佐官で後に文相となる町村信孝と語りあった。
一九八四年に中曽根康弘内閣の下で臨時教育審議会が設けられた時、森は文相という絶好のポジションにいたが、当時は基本法改正を言い出せる雰囲気ではない。審議会の設置法で「基本法の精神にのっとり」と盛り込まれたため、あらかじめ改正論議を封じられた。そうした制約のない国民会議は、年来の主張を実現する好機だった。
教育基本法の見直しも含め(略)率直に問い直し議論すべき時期−」
森は、病に倒れた小渕恵三の後継首相として出席したその日の全体会議のあいさつで、早くも基本法見直しに言及した。
「まず第一に、思いやりの心、奉仕の精神、日本の文化・伝統を尊重する気持ちなど、人間として、日本人として持つべき豊かな心、倫理観、道徳心をはぐくむことが必要である」
その一カ月後、森の言う日本の文化・伝統や道徳心の一端が明らかになる。
「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知をしていただく−」。いわゆる「神の国発言」だった。

国民会議を立ち上げた小渕は、森と違っていた。
初会合が開かれた二〇〇〇年三月二十七日。定刻前にふらりと会場に現れた小渕に、委員の一人が「何を議論するんですか」と問いかけた。小渕は「分かっていたら、こんな会議はつくらんよ」と答えたという。
「教育とはなんぞやという原点に立ち返り、戦後教育について総点検する」。まず基本法改正ありきでなく、幅広い議論を求める小渕の思いは、最初のあいさつに凝縮されている。
「教育は国家百年の大計と常々申し上げており、皆さまには百年の大計をつくるという思いで、腰を据えた、密度の濃い議論を積み重ねていただきたい」
だが一週間後、小渕は病に倒れる。後を継いだ森の意向もあり、会議は基本法見直しに傾いていく。特に「人間性の教育」を論議する第一分科会には改正論者が集中し、「改正が必要だという意見が大勢」という分科会報告をまとめた。
改正論には二つの流れがあったと梶田は言う。「敗戦前の日本に戻るような復古調の改正方向と、次の時代に向かって新しいものをつくろうという流れと…」
最終報告を起草した「企画委員会」は、ウシオ電機会長牛尾治朗が中心となり十六回の会合を開く。その中で「一度は『愛国心』も含めて、教育勅語を思わせるような強いものが出た」(委員の一人)。だが「さすがにまずい」との声が出て書き換えられ、二〇〇〇年十二月の最終報告では見直しに向けた論議を提言するにとどまった。
委員の渋谷教育学園理事長田村哲夫は「改正には一年という期間は短すぎた。後は中教審で、ということになった」と証言する。
その言葉通り、続く中教審論議は、基本法改正を前提に進んでいった。(文中敬称略)
<メモ>教育改革国民会議
小渕恵三首相(当時)の私的諮問機関として、教育制度の抜本的な見直しのために2000年3月に設けられた。ノーベル物理学賞受賞者の江崎玲於奈筑波大学長を座長に26人の有識者が参加。同月から同年12月まで13回の全体会議のほか、人間性、学校教育、創造性をテーマとする3つの分科会に分かれて議論を重ねた。最終報告「教育を変える17の提案」では、「新しい時代の教育基本法」に向けた見直しが提言された。初回の全体会議後に小渕氏が脳こうそくで倒れ、2回目からは森喜朗前首相が引き継いだ。



基本法改正を検証する<4>「拡散する『定説』」(東京新聞 / 2006年6月5日)

「親の子殺しから子の親殺しに始まって、本当にひどい、信じられないような事件ばかり続発し」「最小限のルールさえ身につけていない…そういう状態に日本が陥りつつある」
民主党代表に就任後、初めて小沢一郎が首相小泉純一郎と対決した五月十七日の党首討論。小沢は、教育をテーマに切り込んだ。
社会の荒廃を嘆く小沢はその原因を戦後教育の失敗と結論づけた。小泉は「教育も大事でしょう…」「が、まさに今、親の世代が人間としてどうあるべきか、大人の責任は子供に対してどうなのか」と、あっさり受け流した。

首相の私的諮問機関として教育改革国民会議ができた直後の二〇〇〇年四月三日。主要八カ国(G8)教育相会合のフォーラムで沖縄県宜野湾市沖縄コンベンションセンターに集まった各国の教育相らを前に、元文相森山真弓が日本の子供の状況を深刻そうに嘆いた。
「いじめとか暴力とか、不登校とか、ドロップアウトとかいうことがみられ…最近では小学校でさえも学級崩壊が見られる」
教育改革の成果や子供たちの未来を語る他国の代表たちと対照的な、自虐的ともいえる姿勢だった。森山は、だから「心の教育」が必要なのだと続けた。
森山の認識は、〇三年に出された中央教育審議会の答申とも一致する。
「我が国社会は大きな危機に直面し…」「倫理観や社会的使命感の喪失が、正義、公正、安全への信頼を失わせている」「青少年が…規範意識道徳心、自律心を低下させている」「青少年による凶悪犯罪の増加も懸念されている」
こうした現状認識が、基本法改正が不可欠だという根拠とされた。だが、そもそもこうした「定説」は正しいだろうか。
少年による強盗事件の検挙数を見ると、確かに一九九六−九七年にかけて前年比57%も増加している。〇四年に急減するまで、増加傾向が続いていた。
だが、法社会学が専門で犯罪白書などの数値を統計的に分析した桐蔭横浜大教授河合幹雄(46)は、それで単純に「少年の凶悪犯罪が増えている」とする説にはカラクリがあるという。
「強盗の検挙人員は、戦後ずっと成人が主だったのに、九六年から少年の比率が急増している。神戸連続児童殺傷事件で少年犯罪への注目が高まり、警察が少年事件に人的資源を集中したためだ。その中で『おやじ狩り』やひったくりが強盗に格上げされた。戦争や恐慌でもない限り、大幅な増減はありえない」
殺人事件の検挙人員をみても、六一年に四百四十八人を記録したが、二〇〇四年は六十二人にすぎない。人口比でも、ほぼ四分の一に低下している。

では、道徳心規範意識についてはどうか。
「国民は利益ばかりを求めるようになり、国家のため公共のために尽くそうとせず、怠慢でしまりのない状態になってしまった」
日本政治思想史を研究する専修大講師菅原光(30)が江戸時代の儒者の文章を現代語訳したものだ。論壇の重鎮・徳富蘇峰も明治時代の人々の道徳心のなさを未開人にたとえ、「裸体の社会」と嘆いてみせたという。
こうした史実を指摘した上で、菅原は基本法に徳目を盛り込むのは効果が薄いと言う。「ホームランが打てないチームの監督が、とにかくホームランを打てというようなもの」。具体策なき精神論で問題は解決しないということだ。
今年から専任で教壇に立った菅原は、学生のまじめさに驚いたという。「出席をとらなくても出席者が減らない。レポートも非常にきちんと書いてくる」
初代首相伊藤博文は「(公徳心退廃の原因は)既に専ら教育の失に非(あら)ず」と記した。
いつの時代も、道徳の荒廃を嘆く声はあったが、伊藤とは対照的に、政策がうまくいかない責任を教育に押しつける今の政治家たち。菅原には「真の問題に目をそらして逃げ込んでいる」と映る。(文中敬称略)
<メモ>少年の凶悪化
少年による殺人事件の検挙数は、戦中期に減少したが、戦後になって急増。1951年と61年のピーク時には約450人を記録した。その後は減少傾向にあり、2004年には60人余にまで減った。少子化を勘案しても増加傾向にない。統計上の「殺人」には、殺人未遂や殺人予備も含まれ、実際に人をあやめた殺人のデータははっきりしない。裁判や少年審判で最終的に殺人とされたケースはさらに少なく、04年の司法統計年報によると47人(うち実際に人をあやめたのは17人)。犯罪学者や法社会学者の間では「少年の凶悪化」は、ほぼ完全に否定されている。



基本法改正を検証する<5>「物言えぬ空気」(東京新聞 / 2006年6月7日)

「信仰は取るに足らないものなのか」
先月十七日、東京都庁で開かれた都人事委員会の公開口頭審理。卒業式や入学式で君が代斉唱やピアノ伴奏を拒否し、職務命令違反に問われた教員側の代理人弁護士、沢藤統一郎が、都側の見解をただした。
君が代は、かつて天皇の長き治世を願う歌だった。戦前、天皇が現人神(あらひとがみ)とされてきた経緯もあり、クリスチャンの教員には、宗教的信念で斉唱を拒む人もいた。
教育庁理事の近藤精一(58)が答えた。「教育公務員は給料を誰からいただいているのか。学習指導要領に基づいて指導してもらわなければならない」。厳しい言葉に、傍聴した約二百人の教員らがどよめいた。

「初めて四万円の給料を手にした時、校長から言われた言葉がそれだった」
見晴らしのいい都庁第二本庁舎二十九階の理事室。近藤は小学校教員になった一九七一年のころを振り返った。
「一晩考えて、給料は子供の保護者からもらっていると思った。子供にもらっているとも言える。だから教員には最低限、学習指導要領に書かれていることは教える責任がある」
穏やかに語る近藤。その背後の壁には、四隅を画びょうで留めた日の丸と、君が代の歌詞を筆で書いた掛け軸が掲げられていた。
式典での「国旗掲揚、国歌斉唱」の指導は八九年改定の学習指導要領に明記された。文部省(現文部科学省)は都道府県別の実施率を毎年調査。東京は九八年、高校の卒業式で3・9%と全国最下位だった。
しかし、九九年に国旗・国歌法が制定されると、都教委は指導の強化に乗り出す。同年十月、校長あての通達で実施を指導。さらに二〇〇三年十月には、違反すれば懲戒処分となる職務命令としての通達を出し、厳格な実施を求めた。
九七年以降、「都立の復権」を掲げて中高一貫校、チャレンジスクールの創設や統廃合などの改革を次々に打ち出す都教委。〇三年七月に作った内部資料「都立学校における『国旗・国歌』の現状と課題」には、「『国旗・国歌の適正な実施』は学校経営上の弱点や矛盾、校長の経営姿勢、教職員の意識レベル等がすべて集約される学校経営上の最大の課題」とある。
都教委は否定するが、「国旗・国歌」の指導強化には、急ピッチで進む改革に抵抗する教職員を統制する目的が垣間見える。九八年には職員会議の位置付けを校内の最高議決機関から校長の補助機関に変えた。
その中で“物言えぬ空気”が広がる。都立高で倫理を教える男性教諭(56)は「長時間かけて話し合ったものが校長のトップダウンで決まるようになった。無力感があり、会議で発言する者が減った」と言う。

入学式と卒業式の風景にも変化が表れている。
君が代斉唱時の不起立などで、都教委に懲戒処分された教職員は〇四年春の卒業式と入学式で計二百三十三人に上った。だが、翌年は六十三人、本年は三十八人と激減している。
最大の理由は、処分による経済的な影響だ。四十二歳の教員をモデルにした都教委の試算では、一回の戒告で退職までに受け取る給料や期末手当、退職金の合計は九十万円減る。君が代斉唱にかかわるこれまでで最も重い処分は停職三カ月で、この場合は三百七十万円もの減収となる。
今春の卒業式で初めて君が代斉唱時に起立せず、戒告処分を受けた四十代の男性教諭は「このままでは生徒まで起立、斉唱を強制されると思った。今後はどうするか分からないが…」と揺れる胸の内を明かす。
国旗・国歌を通じて学校に持ち込まれた「強制」。「わが国と郷土を愛する」態度を養うことを盛り込んだ教育基本法の改正は、それをさらに強める可能性をはらむ。都教育庁の幹部は今、こう口をそろえる。
「教員に内心の自由はあるが行動の自由はない」(文中敬称略)
<メモ>都教委による教職員の大量処分
東京都教委は2003年10月23日、入学式や卒業式での「国旗・国歌」の厳格実施について通達を出した。その後、君が代斉唱時に不起立だったりピアノ伴奏を拒否したりした教職員延べ345人を校長の職務命令に違反したとして、戒告や減給などの懲戒処分にした。この処分がもとで、9人が定年退職後の嘱託再雇用を取り消された。今年3月13日にはある都立高定時制の卒業式で生徒の大半が不起立だったことを受け、教職員への指導徹底を求める通達を出した。教員らからは通達に加え、基本法が改正されることで、生徒への起立強制につながると不安視する声がある。



基本法改正を検証する<6>「評価される愛国心」(東京新聞 / 2006年6月8日)

「わが国の歴史や伝統を大切にし国を愛する心情をもつ…」
五月二十四日、与野党教育基本法案を審議する衆院特別委員会。首相小泉純一郎は、質問に立った日本共産党委員長志位和夫から手渡された小学校の通知表を声を出して読んだ。福岡市で二〇〇二年に使われていたものだ。そして、あきれたように言った。
「これが小学校? これでは子供を評価するのは難しいと思いますね。あえてこういう項目を持たなくてもいいのではないか」

小泉があきれた通知表の記載は、実は珍しいものではなかった。同様の「愛国心」にかかわる項目は、他の自治体でもある。特に多い埼玉県では公立小約五十校に及んでいた。
同県行田市では〇二年度に全小学校の六年の通知表(社会科)で、「自国を愛し、世界平和を願う自覚をもとうとする」との評価項目が登場した。きっかけは一九九八年改定(〇二年度施行)の学習指導要領だった。学習目標に「わが国の歴史や伝統を大切にし、国を愛する心情を育てるようにする」などと明記されたのを受けて、指導主事らがモデル案を作成した。
疑問を持つ教師もいた。六年担任の男性教諭(51)は「とても評価できないが、自分から働きかけるエネルギーがなかった」と声を落とす。ABCの評価は、歴史への関心の度合いや学習姿勢でつけたという。
国会でも問題となった福岡市では、既に「愛国心」の評価をやめていた。〇二年に、市内の約半数の六十九校で同様の通知表が使われていることが発覚。市の校長会の研究会が統一の様式を作成し、それを使う場合は、市が一括印刷し、費用まで負担していたことが明るみに出た。それらが問題となり、翌年からすべての学校が様式を改めた。
「誤解を与えたかもしれないが、学習指導要領を短くしたもので内心を評価するものじゃない」と、当時の市教育長生田征生(現市総合図書館長)は言う。
だが、実際に通知表をつける現場の教師らの受け止め方は異なる。ベテランの男性教諭は、「愛国心」をどう評価したらいいのか分からず、結局全員に「B」をつけたという。女児を持つ母親は「日本人としてA級、B級と分けられる気がする」と漏らした。

福岡の通知表を批判した首相答弁。それでも、行田市教育長の津田馨は五日の会見で「学習姿勢や関心をみている。内心を評価しておらず支障がない。あえて外すつもりはない」と、評価項目を変更する意向はないことを明らかにした。それには理由がある。
〇一年四月、文部科学省は当時の初等中等教育局長矢野重典名で各都道府県教委などに指導要録の改定を通知した。その別添資料には、六年社会の「評価の観点の趣旨」として、「わが国の歴史や伝統を大切にし国を愛する心情をもつ」と書かれていた。つまり、「愛国心」を評価する通知表は、文科省の指導に忠実に従ったものだったのだ。
衆院特別委の審議でも、文科相小坂憲次は「内心についての(愛国心の)強さを評価でABCつけるなど、とんでもないこと」と言いながらも、問題化した福岡の通知表が不適切だとは最後まで認めなかった。
さらに「総体的に評価できるような評価を行う」と踏み込み、学習姿勢や態度に表れた「愛国心」については、評価の対象となることを明らかにした。
現場が意識しない間に忍び寄る、内心への指導と評価。行田市の女性教諭(50)は、通知表の変化を見逃したことを今、悔いる。福岡市の校長は十分に検討しないでモデル案を採用したうかつさを認め、言う。「強制しないと言いながら、まわりが監視する雰囲気がつくられていく。慣れていく自分も怖い」 (文中敬称略)
<メモ>指導要録
児童や生徒の学籍や指導の過程、結果の要約を記録した原簿。「学籍に関する記録」と「指導に関する記録」からなり、その後の指導や、内申書など外部への証明に使われる。学習指導要領の改定とともに様式が改められ、文科省が各都道府県教委などに参考案を通知している。通知には学年別、教科別の「評価の観点と趣旨」が添付され、2001年通知では、6年社会の評価の観点「社会的事象への関心・意欲・態度」に、「わが国の歴史や伝統を大切にし国を愛する心情をもつとともに、平和を願う日本人として世界の国々の人々と共に生きていくことが大切であることの自覚をもとうとする」と明記された。



基本法改正を検証する<7>「政と官の同床異夢」(東京新聞 / 2006年6月9日)

ゆとり教育」をめぐる文部科学省の迷走ぶりを描いた論文が今春、ちょっとした話題になった。
書いたのは、東京大生だった公益法人職員田中雄治(22)。卒業論文だった。学力問題は一九七〇年代にも語られたが、当時は「詰め込み教育」のせいだとされた。それが二〇〇〇年代に入ると急に、「ゆとり」バッシングが始まった。
そうした外の声に流されて、猫の目のように政策を変える役所。「いろんな人が根拠なしに好き勝手に語り、教育政策がぶれていった」と田中は分析した。

教育基本法を改正して『愛国心』を盛り込んだからといって、問題が解決すると思っているものは省内にはいないと思うよ」
同省幹部の一人が打ち明ける。それならなぜ改正なのか。そのカギは与党改正案一七条に盛り込まれた教育振興基本計画にある。
今、教育予算は削減の波をかぶっている。国内総生産(GDP)に占める国と地方の学校教育費は二〇〇二年に3・5%。米英仏はいずれも5%を上回っており、日本の少なさが際だつ。国の歳出総額に占める教育費の割合も、五五年度には12%を上回っていたが、八〇−九〇年代には10%を割り込んだ。〇二年度に10%を回復したが、先進各国の水準には及ばない。
就任時、国会での施政方針演説で、貧窮する明治初期の長岡藩が救援物資の米百俵を学校設立の資金に回したという逸話を紹介した首相小泉純一郎だが、積極的に教育予算を増やそうとしたとはいえない。
むしろ、政府は今、教員を優遇した人材確保法や、義務教育用教科書無償制の廃止を検討するなど、教育予算を減らす方向に動く。財政削減効果や、質の良い教員を確保する見通しについて十分な検証もせず、削減の動きは進んでいる。
「(与党側は)根拠なんてどうでもいいんだ。教科書を貸与制にしなくてはいけないくらい財政が窮迫しているという象徴にしようとしている」と、同省幹部はため息をつく。
こうして防戦に追われる文科省にとって、安定した予算の確保につながる可能性のある教育振興基本計画の制定は悲願だった。
幹部らの頭には、科学技術振興基本計画の先例がある。〇一年度からの五年間に二十四兆円、〇六年度からは同二十五兆円という政府研究開発投資の総額が盛り込まれ、財政削減圧力の防波堤になってきた。
「振興計画が予算を得るテコになってほしい」と別の同省幹部は言う。「金額がきちんと明示されないと意味がない。基本法案だって、あんなに徳目を掲げてこれから大変ですよ。政治家はあれもこれもというけれど、予算がなければ何もできないんだから」

愛国心」を植え付けたい与党と、予算確保を狙う文科省の「同床異夢」。そこには、教育の「百年の大計」をどうデザインするかという思想は見えない。
「現場と関係ない人たちの政治的なおもちゃです。教育については『長屋談議』はしないでほしい」
冒頭の田中の論文を指導した東大総合文化研究科助教佐藤俊樹(43)は、現場感覚に欠ける論議に冷ややかな視線を送る。これまでも改革のたびに書類の量が増え、研究や教育に割く時間を奪われるのが実態だったという。
「資源(予算)を投入しないで精神論をぶっても、事態は悪くなるだけ。第二次大戦で日本が負けていったパターンです」
迷走した「ゆとり教育」の軌跡をたどるように、現状や政策効果の科学的な分析を欠いたまま改正論議が進む「教育の原点」−。
「変えた方がいいものは変えなくてはいけないが、変える必要がないものを変えるのはムダ」。政と官が急ぐ改正の動きを、佐藤はそう切って捨てた。(文中敬称略)
=おわり
この企画は、加古陽治、片山夏子、高橋治子が担当しました。


<メモ>教育振興基本計画
政府の教育施策の中期的な目標と施策を定めた計画。教育基本法の与党案では、17条にその制定が明記された。長期的な基本方針に従い、5年間に実施する政策の基本方針と具体的な施策などを明記したものが想定されている。政府の各種基本計画は、それぞれの基本法に根拠を置くのが普通だが、教育基本法には1947年の制定時に盛り込まれなかった。中央教育審議会の答申では、政策目標として「習熟度別指導の推進」「いじめ、校内暴力を5年間で半減」などが例示されている。