国旗・国歌訴訟が問うもの

私の視点 ウイークエンド - 国旗・国歌訴訟 判決を「異例」にせぬために 高橋哲哉朝日新聞 2006年9月30日(土)朝刊)

1891(明治24)年1月、世に言う内村鑑三不敬事件が起こった。第三高等中学校の英語教員であった内村が、教育勅語奉読式で十分な拝礼をしなかったとして、天皇に対する「不敬」を社会的に指弾され、学校を辞めざるをえなくなった事件だ。
学校行事での日の丸・君が代の強制が進む昨今の事態を見るにつけ、私はいつも内村の事件を思い出す。
東京都教育委員会が教職員に「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する」ことを義務つけた03年の「10・23通達」以来、君が代斉唱時の不起立などを理由に処分された都内の教職員は約350人にのぼる。君が代斉唱時の生徒たちの声量指導を求めた東京都町田市教委や、声量調査と指導が実際に行われた福岡県久留米市のような例もある。
教育勅語への頭の下げ方が足りないといって排除されるのと、起立しなかったとか声の大きさが足りなかったといって処分されるのと、どれほどの違いがあるだろうか。100年以上前の内村の事件が、すでに過去のものになったとは言えない社会を私たちは生きているのではないか。
東京地裁は21日、都教委の「10・23通達」と、それに基づく職務命令を違憲・違法とし、それらによる処分を禁止する判決を出した。
印象的だったのは、原告側も被告側も一様に、この判決に大きな驚きを表していたことだ。「1%も敗訴は予想していなかった」という都教委職員がいれば、「夢のような判決で信じられない気持ちだ」という原告の教員がいる。これは、現在この国で、教育の自主権がいかに尊重されず、上意下達が当たり前のことになってしまっているかを示しているのではないか。
判決の核心は、現湯の裁量をいっさい許さない通達や職務命令によって起立・斉唱を迫ることが、憲法19条に保障された思想・良心の自由の侵害であり、教育基本法10条で禁止された「不当な支配」に当たるという判断にある。現憲法と、教育の理念を定めた教育基本法の立法趣旨からすれば、ごくまっとうな判断であるように思える。
どうやら私たちは、現憲法教育基本法の趣旨に忠実な今回の判決が、「夢のよう」に思えたり、「1%も」予想できなかったり、「異例」で「画期的」で「歴史的」な判決と評される社会に生きているらしい。都教委は判決を不服として、29日に控訴した。しかも、いまや憲法教育基本法の全面改正を掲げる安倍政権が誕生したところなのだ。
憲法教育基本法のもとでなら、強制を「不当な支配」として「違法」と断ずる審判がまだ可能だ。しかし、国民の自由と権利への制約を強める改憲案や、教育の主体を国民から政府・行政に移す教育基本法改正案が通ってしまえば、そうした可能性そのものがなくなってしまう。
思想・良心の自由や教育の自由を大切に思う人たちに、今回の判決は「まだ希望はある」と感じさせた。だが、現在の政治の大きな流れが変わらなけれは、この「画期的」な判決も過去の単なる一エピソードとなり、やがては忘れ去られてしまうだろう。
民主主義が目指してきた姿が本当に「夢」になってしまわぬように、何ができるのか−。私たち一人ひとりが胸に問いかけてみたい。