「自分の愛国心が他より優れている」という誤認を戒めよ

思潮21 - 「時代の空気」について 「自国中心」で険悪に 米国引き込む役割を 寺島実郎朝日新聞 2006年10月2日(月)夕刊)

私にとって、故郷札幌の藻岩山は最高の山である。その麓(ふもと)に卒業した高校があり、青春の思い出と重なるからである。人間は自らの生まれ育ちに由来する思い入れを引きずる。夏目漱石が明治四四年に行った講演「現代日本の開化」で面白いことを言っている。「外国人に対しておれの国には富士山があるというような馬鹿は今日はあまりいわないようだが、戦争以後一等国になったんだという高慢な声は随所に聞くようである」
大人になるということは、相対的に物事が見えてくるということで、世界を知る中で自らの思い入れを客観視する視界を身に着けていかねばならない。私自身も、国内外を訪れたり、住んだりする機会が増えるにつれ、世界には様々な魅力のある山が存在することを知った。それでも、啄木の「ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」ではないが、私にとって藻岩山は圧倒的に大切な山なのである。
時代の空気がおかしい。九・一一後の世界が「テロとの戦い」を掲げた逆上するアメリカの表情を投影するかのごとく、全般的に「自国利害中心主義」の潮流の中にある。リーダーたるべき国が諸々(もろもろ)の利害や対立を束ねて制御する中心理念を喪失しているだけに、それぞれの自己主張の中で国際秩序は液状化しているかにみえる。この九月、我々が目撃した非同盟諸国会議(一一七カ国とパレスチナ解放機構加盟)での事実上「米国の一国主義を批判する宣言」や国連総会で相次いだ「反米演説」が象徴しているごとく、世界のムードは険悪とさえいえる。
東アジアにおいても、日中韓の関係が映しだしているごとく、相互に「妥協なき国益の主張」が交錯し、冷たい空気が漂っている。ナショナリズムをテコに政権の維持・浮揚を図ろうとしたそれぞれの政権の意図もあり、国民レベルでの交流の深化とは裏腹に、緊張感に満ちた状況となっている。
こういう空気になると、より強く近隣を批判することが愛国的であるという方向に走り、協調を主張する者を「非国民」「利敵行為者」として排撃する雰囲気が醸成される。それは戦争に向かった日本の戦前の時代の空気に似ている。より強い言葉、そして暴力ヘとエスカレートし、「断固として妥協せず」と自縄自縛になっていったあの道である。思い入れは度を越すと選択肢を狭める。
しかも、日本を覆うナショナリズムの空気が、「近隣の国々には侮られたくない」という次元での屈折し歪(ゆが)んだナショナリズムヘの傾斜であることに気付かねばならない。もし日本に真の国益を熟慮するナショナリストという人が存在するとすれば、それは近隣を罵倒(ばとう)する「閉ざされたナショナリズム」の主唱者ではなく、国際社会の中での日本の立ち位置を自立自尊の方向に持っていくことを主張する者でなけれはならない。そのためには、戦後日本に最も大きな影響を与えてきた米国との関係を、過剰依存・過剰期待の関係から「大人の関係」へと高めていく志向を持つ者でなければならない。
「主張する外交」を掲げた安倍内閣がスタートした。誰に対して何を主張するのかが眼目である。自分の国の利害については声高に主張するが、世界秩序の在り方には沈黙するというのであれば、その主張は世界の敬愛を集めるものとはならない。政治指導者に二一世紀の世界秩序の中での日本の役割についての経綸(けいりん)が問われている。    明らかに、二一世紀の日本の国際的役割は二つに擬縮できる。一つは同盟国アメリカをアジアから孤立させない役割であり、多様な価値を許容する国際社会の建設的関与者になるように米国を支援することである。二つは、中国を国際社会の責任ある参画者に引き入れる役割であり、環境問題から知的財産権問題までこの国を国際ルールやシステムに責任を持って関与する国になることを支援することである。そのためには、多くの国を納得させうる「政策理念」が不可欠であり、改めて国際協調主義と平和主義を貫く意思と構想が必要であろう。
戦後を生きた日本人は、少なからず寺山修司が「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」と詠んだ問いかけを自問自答しながら生きてきた。それは、決して祖国を愛さない「非国民」的な心象風景ではなく、むしろ「身捨つるほどの祖国」への気球を潜在させた熱い想(おも)いを象徴しているとさえいえる。戦後六〇年、封印されてきたナショナリズムが外部環境の変化にも触発されて解き放たれ、行き場を求めて彷徨(さまよ)っている。大の大人として、若者に「国を愛すべきだ」と語るのではなく、愛するに値する国を創(つく)ることに責任を共有せねばならないと思う。大人があるべき社会への理念を胸に真剣に汗を流す姿勢を見せずして、若者の社会参加を語ることはむなしい。
私は、真珠湾攻撃の起案者として不本意ながら対米戦の火蓋(ひぶた)を切ることになる山本五十六連合艦隊司令長官がワシントン駐在武官時代に故郷の渦潮舵送ったポトマック河畔の桜の絵葉書に書き添えた言葉を思い出すことがある。「当地昨今吉野桜の満開、故国の美を凌(しの)ぐに足るもの有之(これあり)候。大和魂また我が国の一手独専にあらざると諷(ふう)するに似たり」
当たり前の事実にすぎないが、何十年も世界を動き回ってきて実感することは、いかなる国においても、いかなる状況下でも、人々は自らの国、民族に誇りを抱き、幸福を希求しているということである。間違っても、自分たちの愛国心が優越していると誤認すべきではない。しかも、世界は特定の超大国が価値を押し付けることのできる状況にはなく、それぞれの自己主張を前提とした全員参加型秩序に向けて変わりつつある。だからこそ、筋道の通った主張への情熱と自らを客観視する冷静さが同時に求められるのである。