政治の言葉

袖のボタン - 政治と言葉 丸谷才一朝日新聞 2006年10月3日(水)朝刊)

小泉前首相の語り口はワン・フレーズ・ポリティクスでいけないという、あの非難を耳にするたびに、おや、と思った。物心ついてからこの方、日本の政治はみなワン・フレーズであったからだ。
わたしの歴史は六歳になったばかりの満州事変勃発(ぼっぱつ)ではじまるのだが、その張本人、石原莞爾(かんじ)は満州国の国是として「五族協和」をかかげた。天皇機関説が問題になると「国体明徴」とか「万世一系」とか「金甌(きんおう)無欠」とかがしきりに言われ、昭和史前半の標語は「八紘一宇(はっこういちう)」だった。近衛内閣は「聖戦完遂」と唱えつづけ、平沼内閣は欧州情勢が「複雑怪奇」であるとして退陣し、東条英機はいくさが敗けそうになると「本土決戦」「一億玉砕」などと強がり、いよいよ手をあげるとき鈴木内閣は「承詔必謹(しょうしょうひっきん)」と国民に諭した。吉田茂は南席繁を「曲学阿世(きょくがくあせい)」とくさし、池田勇人は「所得倍増」で、田中角栄は「列島改造」、中曽根康弘は「不沈空母」だった。こうして見ると四字熟語の連続で、字数が多いのは「統帥権干犯」(北一輝)、「大東亜共栄圏」、「ABCD包囲陣」(この二つは誰が言い出したか不明)くらいのものか。
四字熟語つくしになるのはもっともで、これなら簡潔鮮明で威勢がいい。堂上の歌学も浄瑠璃の詞章も参考にならないとき、せいぜい役に立つのは明治の漢文くずしで、師匠筋がこれなら四字熟語が活用されるのは当り前だった。しかしこのレトリックは、横網大関が、「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」「不撓不屈(ふとうふくつ)」「堅忍不抜」などと晴の席での挨拶(あいさつ)に使ったため、滑稽(こっけい)なものになったし、□肉口食(正解はもちろん「弱肉強食」)に「焼肉定食」と答えるという冗談のせいでいよいよ威厳が薄れ、ほうぼうの書店が『四字熟語辞典』を出すに及んで賞味期限が切れた。その政治的言語の危機に際して、「感動した!」とか「人生いろいろ、会社もいろいろ」とか、他愛もないけれどもとにかく新しい手口を工夫したのが小泉前首相である。
他愛もないのは、咄嗟(とっさ)の発言だから仕方がないと同情することもできる。しかしじっくり準備したときは記憶に残る名せりふは出なかった。とにかく短い口語性が特徴で、ざっかけない(ざっくばらん、ざっくりの意)感じが妙に人気を呼んだ。しかしわたしとしては、ざっかけなくても構わないから、もうすこし内容のあることを、順序を立てて言ってもらいたかった。そういう口のきき方をして受けたのなら、どんなによかったろうと思う。
そこで新しい政治言語の仕上げは新首相に委ねられることになるが、あの人、果してどうだろうか。実は今度、新著『美しい国へ』を読んで、小首をかしげたくなった。本の書き方が無器用なのは咎(とが)めないとしても、事柄が頭にすっきりはいらないのは困る。挿話をたくさん入れて筋を運ぶ手法はいいけれど、話の端々にいろいろ気がかりなことが多くて、それをうまくさばけないため、論旨がうまく展開しない。議論が常に失速する。得意の話題である拉致問題のときでさえそうだった。
一体に言いはぐらかしの多い人で、そうしているうちに話が別のことに移る。これは言質を取られまいとする慎重さよりも、言うべきことが乏しいせいではないかと心配になった。すくなくとも、みずから称して言う「闘う政治家」にはかなり距離がある。当然のことながら読後感は朦朧(もうろう)としているが、後味のように残るのは、われわれが普通、自民党と聞いて感じる旧弊(きゅうへい)なもの、戦前的価値観への郷愁の人という印象であった。
近代民主政治は、血統や金力によらず、言葉でおこなわれる。その模範的な例は、誰でも却っているようにリンカーンのゲティズバーグ演説(「人民を、人民が、人民のために」)である。易しい言葉しか使わない短い演説で、人心を奮い立たせた。マーク・トウェインからヘミングウェイに至る新しいアメリカ文学の口語性はここからはじまる、という説もあるらしい(ゲリー・ウィルズ『リンカーンの三分間』)。
しかしいま読み返してみると、リンカーン個人の才能、戦時の大統領という激務のなかにあって二度も原稿を書く情熱もさることながら、やはり古代ローマ以来の雄弁術の伝統が決定的にものを言っている。民衆が政治家に、言葉の力を発揮させているのだ。社会全体のそういう知的な要望があって、はじめて言葉は洗練され、エネルギーを持つ。
しかし今の日本の政治では、相変らず言葉以外のものが効果があるのではないか。わたしは二世、三世の国会議員を一概に否定する者ではないけれど、その比率が極めて高いことには不満をいだいている。『美しい国へ』でも、父安倍晋太郎(元外相)や祖父岸信介(元首相)や大叔父佐藤栄作(元首相)の名が然るべき所に出て来て、なるほど、血筋や家柄に頼れば言葉は大事でなくなるわけか、などと思った。