広く知る必要のあることば

高橋哲哉氏意見陳述(教基特名古屋地方公聴会)(「保坂展人のどこどこ日記」2006年11月9日分)

昨日の教育基本法特別委員会における高橋哲哉さんの意見陳述は、多くの人に耳を傾けてほしい内容だった。「衆議院テレビ」で普段の国会審議はインターネットで見ることが出来るが、地方公聴会はそもそも映像記録されずに後から見ることが出来ない。議事録が後ほど公表されるが、それまでしばら時間がかかるので、高橋哲哉さんの許諾を得て、本日皆さんに読んでいただくことにする。


名古屋市公聴会における意見陳述」 高橋哲哉
私は政府提出の教育基本法案に反対する立場から、私見を述べさせていただきます。
安倍晋三首相は、今臨時国会の最大の課題にこの教育基本法改正を掲げておりますが、今なぜ現行法を改正しなければならないのか、その理由は今もって不明です。教育に関する基本法の改正であれば、本来、児童・生徒、教職員、保護者など教育現場の当事者たちから求められ、その必要に応じて行なわれるのが筋ですが、今回はそうではありません。最近発表された東京大学基礎学力研究センターの調査でも、全国の公立小中学校の校長の66%が教育基本法改正に反対という結果が出ています。今回の教育基本法改正は教育的理由からではなく、政治的意図から出ている点に大きな問題があります。
安倍首相は、「戦後体制(レジーム)からの脱却」という政権課題の柱の一つとして教育基本法改正を掲げ、「占領時代の残滓を払拭することが必要です。占領時代につくられた教育基本法憲法をつくりかえていくこと、それは精神的にも占領を終わらせることになる」(『自由新報』05年1月4・11日号)などと主張しています。しかし、教育基本法があたかも占領軍の押し付けによって生まれたかのようなこの議論は、根拠のない偏見にすぎません。
私はここで、教育基本法の生みの親に当たる政治哲学者、南原繁が1955年に書いた「日本における教育改革」(『南原繁著作集・第8巻』)という文章を、安倍首相のみならず、政府案に賛成するすべての皆さんにぜひ読んでいただきたいと思います。
南原繁は、東京帝国大学の最後の総長、新制東京大学の初代の総長であり、当時貴族院議員を兼務し、「教育刷新委員会」委員長として教育基本法案作定の中心人物でありました。南原はこの文章で、教育基本法が「アメリカの強要によってつくられたものであるという臆説」が流布されており、「一部の人たちの間には、日本が独立した今日、われわれの手によって自主的に再改革をなすべきであるという意見となって現われている」が、これは「著しく真実を誤ったか、あるいは強いて偽った論議といわなければならない」と断じています。南原によれば、教育刷新委員会の六年間、「一回も総司令部から指令や強制を受けたことはなかった」のであり、教育基本法もこの委員会で当時の日本の指導的知識人たちが徹底した議論を行なってつくりあげられたものなのです。
安倍首相の、「教育基本法は占領時代の残滓だからつくりかえねばならない」という主張は、すでに50年前、南原によって、「著しく真実を誤ったか、あるいは強いて偽った論議」として斥けられたものにほかなりません。
南原によれば、教育基本法の根本理念は、「われわれが国民たる前に、ひとりびとりが人間としての自律」(ママ)にあります。教育の目的が「人格の完成」に置かれているのは、「国家の権力といえどももはや侵すことのできない自由の主体としての人間人格の尊厳」が中心にあるからです。これは、安倍首相が「教育の目的」を「品格ある国家をつくることだ」と言って、「国家のための教育」を打ち出しているのと反対です。
ここから南原は、国家を頂点とする教育行政権力の役割を教育条件の整備に限定し、「不当な支配」を禁止した現行法第10条の意義を強調します。「戦前長い間、小学校から大学に至るまで、文部省の完全な統制下にあり、中央集権主義と官僚的統制は、わが国教育行政の二大特色であった」。したがって、教育をそこから解放して自由清新の雰囲気をつくり出すためには、「まず文部省が、これまでのごとき教育方針や内容について指示する代わりに、教育者の自主的精神を尊重し、むしろ教育者の自由を守り、さらに教育のため広汎な財政上あるいは技術上の援助奉仕に当たるという性格転換を行なったことは、特記されなければならない」。
ところが政府法案では、現行法第10条の教育行政の役割限定の部分が削除され、さらに教育が「国民全体に対し直接責任を負って行なわれるべきものである」という部分も削除されて、教育は「国」と「地方公共団体」の「教育行政」が、「この法律及び他の法律の定めるところにより」行なうべきものとなっています(第16条)。第17条の「教育振興基本計画」と相まって、教育の主体をこの国の主権者である「国民」から「国家」へと変えてしまう改正案です。政府法案では、教育の主体と教育の目的も国家になる。国家による国家のための教育、国家の道具としての教育をつくりだそうとする法案だと言わざるをえません。
法案の第2条「教育の目標」に「愛国心」が入ったのも、この枠組みの中にあります。安倍首相は一貫して教育基本法に「愛国心」を入れたいと言ってきましたが、その安倍氏が「国が危機に瀕したときに命を捧げるという人がいなければ、この国は成り立っていかない」(2004年11月27日)と述べていることは何を意味するのでしょうか。
戦後の日本政府が教育と愛国心を初めて結びつけたのは、1953年の池田勇人・ロバートソン会談のときでした。朝鮮戦争後の日本の再武装に当たって、日本国民の間に「防衛のための自主的精神」を育てるために、「教育と広報」によって「愛国心」を養う必要があるとされたのでした。今回も、六年の任期中に憲法9条を変えて「自衛軍」を保持し、集団的自衛権の行使を認めていこうという安倍首相の下で、教育基本法に「愛国心」が入れられようとしているのは偶然ではありません。安倍首相の認識は、「お国のために命を投げ出しても構わない日本人を生み出す。(教育基本法改正の目的は)これに尽きる」と述べた西村眞吾議員の認識と同じです。国家が愛国心をはじめ多数の道徳規範を「教育の目標」として定めた法案第2条は、21世紀の教育勅語とも言うべき趣があり、それによってこの法律は、「国家道徳洗脳基本法」と称されても仕方のないものになってしまうでしょう。
南原は、1955年に、こうした動きに明確に反対していました。「近年、わが国の政治は不幸にして、一旦定めた民族の新しい進路から、いつの間にか離れて、反対の方向に動きつつある。その間、教育の分野においても、戦後に性格転換を遂げた筈の文部省が、ふたたび往年の権威を取り戻そうとする傾向はないか。新しく設けられた地方教育委員会すら、これと結びついて、文部省の連絡機関となる惧れはないか。[〜]全国多数のまじめな教師の間に、自由や平和がおのずからタブーとなりつつある事実は、何を語るか。[〜]このような状況のもとで、その意識していると否とを問わず、ふたたび「国家道徳」や「愛国精神」を強調することが、いかなる意味と役割をもつものであるかは、およそ明らかであろう」。
じつは南原は、「国家道徳」や「愛国精神」によってではなく、現行の教育基本法の理念によってこそ、真理と正義、自由と平和を希求する「真の愛国心」が呼び起こされる、と考えていました。そして、次のように述べていました。
「新しく定められた教育理念に、いささかの誤りもない。今後、いかなる反動の嵐の時代が訪れようとも、何人も教育基本法の精神を根本的に書き換えることはできないであろう。なぜならば、それは真理であり、これを否定するのは歴史の流れをせき止めようとするに等しい」。
政府提出の教育基本法案は、現行法の精神をまさに「根本から書き換え」ようとしています。主権者である「国民」による「子どもたち」のための教育を、「国家」による「国家」のための教育に変えようとするものです。私たちは、「いかなる反動の嵐が訪れようとも、何人も教育基本法の精神を根本的に書き換えることはできないであろう」と南原繁が述べた意味を、よくよく考え直してみる必要があります。教育は国家の道具ではありません。子どもたちも国家の道具ではありません。私は、教育と子どもたちを国家の道具にしてしまいかねない政府法案に反対します。



わたしの教育再生 1「普遍的価値持つ基本法 改正諭の褒に国家主義立花隆朝日新聞 2006年11月6日(月)夕刊)

いま教育が、初等中等教育から大学まで、あまりに多くの問題を抱えているのは事実だ。
それらの問題はひとつひとつ丹念に慎重に解決していかなければならないが、それらすべてを差し置いて、教育基本法問題について述べたい。
そもそも今なぜ教育再生がこのような形で政治問題化しつつあるのか。衆院に上程されている「教育基本法改正」が「やっぱり必要だ」という空気を作りたいからとしかいいようがない。
しかし、今の教育が抱えている諸問題はすべて教育基本法とは別の次元の問題だ。教育基本法を改めなければ解決しない問題でもなければ、教育基本法を改めれば解決する問題でもない。
教育基本法に書かれていることは、「教育の目的」(第1条)、「教育の方針」(第2条)をはじめ、すべて極めて当たり前のことだ。急いで改正しなければならない理由はどこにもない。特に教育目的に書かれていることは、人類社会が長きにわたって普遍的価値として認めてきたことだ。
そこにあるのは、「人格の完成」「平和国家」「真理と正義」「個人の価値」「勤労と責任の重視」「自主的精神」「心身の健康」など、誰も文句のつけようがない目的だ。
このような普遍的価値にかかわる問題を、なぜバタバタとろくな審議もなしに急いで決めようとするのか、不可解としか言いようがない。
政府改正案を見ても、なぜそれほど拙速にことを運ぼうとするのか、理由が見当たらない。
考えられる理由はただひとつ、前文の書き換えだろう。
教育基本法の前文は、「基本法憲法の一体性」を明示している。まず新しい民主的で文化的な平和憲法ができたことを宣言し、「この理想の実現は、根本において教育の力にまつ」として、新憲法に盛り込まれた新しい社会を実現していくことがこれからの教育の目的だとしている。
憲法改正を真っ正面の政治目標に掲げる安倍内閣としては、憲法と一体をなしてそれを支えている教育基本法の存在が邪魔で仕方がないのだろう。憲法改正を実現するために、「将を射んとすればまず馬を射よ」の教えどおり、まず憲法の馬(教育基本法)を射ようとしているのだろう。
教育基本法はなぜできたのか。制定時の文部大臣で後の最高裁長官の田中耕太郎氏は「教育基本法の理論」でこう述べている。先の戦争において、日本が「極端な国家主義民族主義」に走り、ファシズム、ナチズムと手を組む全体主義国家になってしまったのは、教育が国家の手段と化していたからだ。
教育がそのような役割を果たしたのは、教育を国家の完全な奉仕者たらしめる「教育勅語」が日本の教育を支配していたからだ。
教育基本法は、教育を時の政府の国家目的の奴隷から解放した。国家以前から存在し、国家の上位概念たる人類共通の普遍的価値への奉仕者に変えた。
それは何かといえば、ヒューマニズムである。個人の尊厳であり、基本的人権であり、自由である。現行教育基本法の中心概念である「人格主義」である。
教育は国家に奉仕すべきでなく、国家が教育に奉仕すべきなのだ。国家主義者安倍首相は、再び教育を国家への奉仕者に変えようとしている。 (聞き手・中井大助)
   ◇
安倍政権が最重要課題として掲げる「教育再生」。日本の教育には何が必要で、どう改革すべきなのか。各界の人たちに語ってもらった。


教育基本法 1947年に施行された「教育の憲法」。政府は今年、改正案を国会に提出し、民主党提出の「日本国教育基本法案」とともに衆院特別委員会で審議が続いている。政府案では、教育の目標として新たに①公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養う②伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う−などの規定が盛り込まれている。



わたしの教育再生 2「英語の前に自己表現力 愛国は国粋主義と違う」ピーター・フランクル朝日新聞 2006年11月7日(火)夕刊)

本の学校で問題だと思うのは、運動部の部活動だ。朝練もあり、放課後も夜まで練習をし、さらに土曜日も日曜日も、夏休みはもちろん、時には正月でもやる。週末に家族で出かけようとしても、試合があって、結局どこにも行けなくなる。 今の日本の部活動は中毒。それしか頭に入っていない。自分のやっているスポーツ以外にも読書、映画・音楽鑑賞、地域の人々との交流など、自分の視野を広める有意義な活動が世の中にいろいろあるのに。
理系離れといわれるが、運動部と同等に数学部や物理部やらをもっと設ければいいと思う。小学校高学年、中学生レベルが読める算数や数学のおもしろい本はたくさんある。先生が1冊を決めて、大学のゼミみたいにみんなで読んだり、説明したりする。そういう授業以外の時間があれは、興味のある子は受験とは一味違う高いレベルのものを学ぶことができる。
百ます計算」はいいと思わない。集中力をもってある程度の速さで最後まで計算をやるのは、基礎計算力の向上にはつながるとは思う。でも、1分を58秒とか57秒に短縮するまでやるのは、やりすぎだ。
小学生からの英語教育については、そんなに先を急ぐことはないと考えている。日本人が英語ができない最大の理由は、日本語ができないこと。つまり自己表現力の低さ。自分の考えを相手にわかりやすく、簡単な言葉で説明する能力があれば、どの外国語もある程度短期間でかなりのレベルまでできるようになる。自分の知っている少ない英語の語彙(ごい)を何とか並べて自身の気持ちを表すのは、本当はとても楽しい作業なんだから。
自己表現の能力を育てるには、○×式の試験ではなく論述式の試験が必要だ。ハンガリーの小学校から高枚では毎日、口頭試験があった。先生が無作為に何人か選び、黒板の前に立たせて説明させる。最初はみんな下手だけど、自然にできるようになるりだから人前で話すのは決して苦手ではない。日本人は日本語でも人前で話すのが苦手だから、英語でできないのは当たり前じゃないか。
愛国心は必要だと思っている。ただし、安倍首相の「美しい国へ」や、藤原正彦氏の「国家の品格」とか、何冊もこういう本を読んだけど、これらの本は愛国心と言いながら、国粋主義の思想。外国人が日本の悪口を言うと嫌われるから、ボクにとって一番言いにくい問題だけど。
愛国も国粋も、自分の国を愛する気持ちは一緒だけど、愛国主義者は、自分の主観的気持ちだと認めている。でも、国粋主義者は客観的だと思っている。いつも外にスケープゴートを探して、何かをやり玉に挙げる。日本はいいけれどもほかの国は悪いとか、都合の良い比較になっている。
自分のお母さんを愛しているのは自分のお母さんだから。世界で一番料理がうまくて、美しくて、贅いからではない。国についても、母なる国、母国、そういう愛の気持ちは大切。
日本には優しい人、美しい場所、すばらしい文化がたくさんある。そういうことを子どもたちに感じさせるように校外活動を増やせばいい。国を愛しなさいとか、毎朝君が代を斉暗しなさいとか、強制的なやり方ではなくてね。(聞き手・根本理香)


小学校での英語教育 文部科学相の諮問機関である中天教育審議会の外国語専門部会が今年3月、5年生から週1時間程度の必修化を提言した。中教審で議論が進められている。現状では主に「総合的な学習の時間」を利用してゲームや歌を通じ英語に触れる活動が行われているが、学校ごとに内容のばらつきが大きい。
9月に就任した伊吹文科相は「美しい日本語ができないのに、外国語をやってもダメ」と、必修化には否定的な見解を示している。