「『旧』教育基本法」の生かし方

定義集--大江健三郎「【後知恵の少しでも有効な使い方】 心に「教育基本法」を」(朝日新聞2006年12月19日(火)朝刊)

高校の一年生でしたが、野球の盛んな地方で、野球部が(私の受けとめでは)無法なことをやり、先生方は大目に見ているし、周りの生徒たちは我慢している。それをやめてもらいたい、と作文に書きました。クラスで注目されたまではよかったのですが、謄写版に刷って配布した人がいて、私は暴力的な制裁の対象になりました。
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毎日、昼休みに校舎裏に呼び出されて、という苦難が続いたのですが、私は殴られることより、自分が一日中、ああしなければよかった、とクヨクヨ考えてしまうのが嫌でした。放課後、図書室の隅で暗い顔をしている、頬(ほお)が腫れ上がってるのでもある私に、事情を知っている国語の先生が、--「ゲスの後知恵」ということわざがある、といわれ、ゲスという言葉に傷ついている私に、英語の先生が"Fools are wise after the event."と脇から追い打ちをかけられた。
そこで私は、クヨクヨ考えるのはやめようと決めて、殴られても屈服してはいない態度を示すことにしました。それで情況がさらに悪化した部分はありましたが、私の味方だといいに来る人も増えて、さきの先生方とはまた別の先生方が、転校先を準備してくださったこともあり、高校生活の後半は生き生きしたものになりました。
今年の紅葉もこの日曜で終わりという日に(チラリともそれは見られない日程)、京都弁護士会の「憲法と人権を考える集い」で話をしました。後半は、舞台に上がった10人の中高生だちと対話する構成だったので、私の準備はおもにそれに向けました。私としては、話をしてくれる中高生が、それぞれ、ああいえばよかった、という後知恵で苦しまなくていいように工夫したつもりです。
あらかじめ提出されている(コンクールの入選作と佳作です)文章を読み、書き手の特質が出ているところに傍線を引いておく。そこを中心に引用しながら、司会の私が要約する。その上で、満員の聴衆に向けてあらためて本人の言葉で語ってもらう。みんな、私の期待にこたえてくれました。
私がこの集まりに行ったのは、今年多くを見た、教育基本法改定法案に対する批判のうち、日本弁護士連合会の「意見」に注目していたからです。とくに私は、改定を進める政府が世間の関心の高まりと同調させようとした、その改定案の10条・家庭教育と、11条・幼児期の教育の項目に、批判の焦点がしぼられているのに共感しました。
改定法は、国及び地方公共団体は《家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するため》働け、といいます。また《幼児の健やかな成長に資する良好な環境の整備その他適当な方法によって》働かねばならないとも。「意見」は、これに注意を呼びかけていました。
若い母親、父親が、個性にそくしたイメージや手法で幼児を育て、その展開として家庭教育を作り上げることに希望がある、と私は考えています。ところが、改定法のいう「教育の目標」「徳目」が、国及び地方公共団体によって一義的に決められることへの危惧があります。
現行の教育基本法のもとでも、関連の法令化は行われました。強制しないと首相が言明した「国歌、日の丸」がいま東京という地方公共団体でどうなっているか?『心のノート』は全国の小中学校に送られました。「その他の」「その他適当な方法によって」、が「曲者(くせもの)」なのです。
私らの世代より年長の者ならば、戦中のこの国、地方公共団体、また「隣組」として制度化された近所の目が、そして権力を持つ家族の長が、個々の家庭の、幼児をふくむ子供らの教育にどれだけ息苦しい圧力を加えたかを知っています。それに屈服せす、若い母親が(また意識的な父親が)自立した個性にみちている家庭教育をすすめる、その手がかりはどのようにあるか?
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衆議院の、政府与党の単独採決に続けて、参議院での、政府に傷の少ない着地が画策されるなか、この文章を書いて来た者の、なお性格に残る後知恵を出します。私は、ついに失われてしまった教育基本法の小冊子を作って、新しく教師になる人、若い母親、父親が、胸ポケットに入れておく、そのようにして、それを記憶し、それを頼りにもすることを、提案します。
まさに「作品」と呼ぶにあたいする文体をそなえた教育基本法には、大きい戦争を経て、誰もが犠牲をはらい、貧困を共有して、先の見通しは難しい窮境にいながら、近い未来への期待を子供らに語りかける声が聞こえます。
あの「作品」を積極的に受けとめた日本人には、その文体につながる「気風」があったのです。それを忘れすにいましょう。
そして幼児とともに、目に見える・見えない抵抗に出会う時、若い母親が開いてみる本にしましょう。