何を言いたいのかよくわからない書評

田中優子 評「女はなぜ土俵に上がれないのか」内舘牧子著(幻冬舎新書・819円)(毎日新聞 2007年1月7日(日)朝刊)

横審委員が背水の陣で出した結論
議論沸騰大相撲土俵の巻。知事や総理や総理代理は、大相撲での賞の授与という仕事がある。しかし彼らが女性である限り、土俵に上がれない。つまり授与の任事は果たせない。それをあなたはどう思うか?という、女性差別問題の踏み絵のような問いがある。本書はその問いに答えた本だ。
ただし趣味で答えたのではない。著者は横綱審議委員だ。女性の委員としていかなる立場に立つか。それを明らかにするのは自分の責任だ、と思ったに違いない。本書には、その背水の陣の迫力がある。しかし単に力が入っている、という意味ではない。この本は書き上げたばかりの修士論文の一部を使って作られている。つまり著者はそれを一から学問として学び、可能な限り客観的に問題を整理し、その上で理屈ではなく、自らの存在(感性、直感、知性などの全体性)をもって、「やはり、あがってはならない」と結論づけた。その覚悟と手際が見事である。
私も日本の過去の文化を専門にしている。あるとき「伝統はすべて嫌い。女性差別の温床だから」と言われたことがある。しかしそれはひと昔前のこと。もう女性たちの知性は、こういう何もかもいっしょくたにして一刀両断で切ってしまう単純さからは、とっくに抜け出しているはずである。いま必要なのは、「伝統文化」という言葉にまどわされず、事実から判断する知性と思考力だろう。
著者は大の相撲好きだが、二つのことを冷静に観察した。ひとつは相撲の聖性と土俵が、じつは江戸時代の中頃に作り出された新しいものである、という事実である。土俵もその神聖さも決して伝統ではなく、むしろ相撲が生き残るための、江戸時代ならではのビジネス手法だったというのだ。土俵は一六八四年ごろに出現したと見られ、神迎え、神送りの儀式が始まったのは、なんと一七六三年ごろだったという。相撲が国技とされたのは一九〇九年、国技館が作られたときだ。
もうひとつは、女性が穢(けが)れた在在だ、とされた歴史である。『血盆経』の存在と、霊(チと続んだ時代がある)カヘの畏(おそ)れの経緯から、その歴史を真実として正面から捉える必要がある、と説く。相撲の権威や聖性を本来のもの、とねつ造するのでもなく、女性差別はなかった、と覆い隠すのでもない。事実を見た上で判断しよう、という姿勢には説得力がある。
ではなぜ著者はそれでも「あがってはならない」と結論したのか。そこへ導かれる大事な箇所が、土俵を築く過程の詳細な記録である。機械力を導入せず、毎回作り替える土俵の中心には鎮め物が埋められ、場所が始まる前に神迎えの儀式が、終わると同時に神送りの儀式がおこなわれる。古代から続くというわけではないこの過程がなぜ人の心を打つのか。著者は二つの点を指摘する。ひとつは、絶えず新しく語り直されるものとしての伝統、という伝統の真実である。もうひとつは、「単なる土」と「聖なる土」を分別してとらえる人の心の存在である。実は、ここまで来ると分かる人と分からない人がいる。私も今までそれをいやというほど経験してきた。私も「単なる土」と「聖なる土」の別を感じ取ってしまうが、それはなかなか理解されない。しかしそれは迷信のひとつではなく、知性のひとつ、と考えている。確かにここに至ると、分かる人には分かる、としか言いようがなくなってしまう。
そこで著者は、これ以上議論を長引かせずに土俵問題を解決する現実的な方法を、本書で提示している。伝統の面白さを、あらためて感じる良書である。