終戦記念日 - 社説

社説:終戦記念日 暮らしの安全保障が必要だ 「民の現実」を見つめよ(毎日新聞 2007年8月15日(水))

今日は終戦の日。数えて62回目になる。あの日、今日の平和と繁栄を予想した人はほとんどいなかったに違いない。私たちはこの戦後の歩みの大枠を肯定する。
安倍晋三首相は、小泉純一郎前首相の政治を継承しながらも、立ち位置を右にシフトし「戦後レジーム(体制)からの脱却」を唱えた。国家主義的心情に新自由主義的経済・社会政策を接ぎ木した政治、と言えるだろう。
参院選で安倍首相は有権者に対し「首相選択の選挙」だと迫った。結果は自民党の大敗。安倍政治に対する「ノー」と解釈するほかない。しかし、首相は「基本路線は国民の理解をえている」として続投を表明した。明らかな民意の読み違えである。
戦後レジームに対し、利己的な「一国平和主義」であり、安全保障に関する「思考停止」だという批判がある。聞くべき批判だと思う。私たちは、国連平和維持活動(PKO)や政府開発援助(ODA)を通じ、日本はもっと平和への国際的責任を果たしていくべきだと主張してきた。


立憲主義にそむく
しかし「戦後レジームからの脱却」という観念的なことばで、戦後の民主主義の歩みを切り捨てることがあってはならない。この点、首相とまったく意見を異にする。
戦後レジームからの脱却の一環として、首相が推進してきた安全保障政策の内実は、結局、米国との軍事的一体化をめざすものだ。北朝鮮の核に対し抑止力を供給できるのは米国だけであり、米国との軍事的一体化は当然という論理である。
しかし、米国もイラクの泥沼に足をとられ、ポスト冷戦の世界戦略を持っていないことを露呈しつつある。北朝鮮6カ国協議に引き戻す過程では、日本との亀裂も明らかになった。そうした米国にすがるだけの安全保障政策でよいのだろうか。
米国との同盟関係は重要だが、過剰に依存すれば米国の思惑次第で右往左往することになる。日米の国益が常に一致するとは限らないからだ。もっと主体的な安全保障戦略が必要だが、安倍政権にその用意はなさそうである。国民の多くが感じる安倍政権への心もとなさは、そこに原因がある。
集団的自衛権に関する取り組みにしても粗雑である。首相は私的懇談会を設置したが、全員が賛成論者である。「結論ありき」という批判は当然だ。
これを根拠に憲法9条の解釈の見直しを強行し、集団的自衛権の行使に道を開けば、立憲主義にそむくものとして、その正当性を疑われることになるだろう。
集団的自衛権の議論はタブーではない。必要だと信じるなら、国民の納得を得るまで丁寧に説得すべきなのだ。安全保障政策の見直しは、国民の分裂をあおらず国民の合意を目指すものでなければならない。
私たちは安倍政治のすべてを否定しているわけではない。
昨年10月の電撃的な訪中・訪韓は北東アジアの安定、つまりは日本の平和にとって大きな前進だった。政権発足直後の首相の政治決断は高く評価できる。
首相は靖国問題でも「参拝したともしないとも言わない」あいまい戦術で、ともかくも対立の表面化を防いでいる。北朝鮮の核開発が現実的脅威となっているいま、中韓両国との関係改善の意義は大きい。
安倍政治にはこのように柔軟な現実派の側面があった。小泉政治が市場主義に走って弱者切り捨ての批判を浴びたのを踏まえ、初期の安倍政権は「再チャレンジ」を掲げるなど軌道修正を図った。
しかし、それは中途半端に終わり、途中から改憲という最終目標にむけ、教育基本法の改正、防衛庁の省への昇格、改憲手続きを定めた国民投票法の制定と強行採決も辞さず歩みを速めた。
首相は信念に忠実だったのだろうが、優先課題を見誤った。参院選の結果がそれを示している。イデオロギーを優先させた結果、年金や地方の疲弊に対する手当てを怠った。
さまざまな世論調査で、改憲を問えば「賛成」が半数を超えるのが現状だ。ただ「改憲」といっても、いつ、どの条項を、どう変えるか、については多様な考えがある。国民は結論を急いでいるわけではない。
安全保障は幅広い概念であり、軍事的な安全保障はその一部でしかない。安倍政権は軍事以外の安全保障に関して目配りを欠いた。それが致命的な錯誤だったのだ。つまり「暮らしの安全保障」の軽視である。


◇こだわりを捨てて
自民党参院選に大敗したのは単に「失われた年金」と「政治とカネ」の不始末だけが理由ではない。首相がそのように敗因を矮小(わいしょう)化するなら、過ちを繰り返すことになるだろう。
冷戦後のグローバリズムは「善しあし」の問題ではない。そこにある現実だ。逃げずにその力を活用するほかない。中国は脅威だと言われたが、対中輸出で日本は景気回復したのである。グローバリズムに対応するための改革は継続する必要がある。市場主義的な手法が不可欠だ。だが、単線的な改革一辺倒ではうまくない。
いま、世界のどの国でも、グローバリズムの荒々しい力と、普通の人の暮らしの安全・安心をどう調整するかが問われている。潮流に乗り遅れても、逆に人々の暮らしを守り損なっても政権は失格の烙印(らくいん)を押される。
首相は理念を先行させ過ぎた。「愛国心」や「伝統」を憲法に書き込めば、それで立派な国ができると錯覚したのではないか。「国のかたち」への過剰な思い入れを捨て、「民の現実」を優先しなければならない。



社説:戦争という歴史―「千匹のハエ」を想像する(朝日新聞 2007年8月15日(水))

中学、高校で歴史を学ぶ皆さんへ。
今日は62回目の終戦記念日です。夏の暑い盛りですが、少し頭を切りかえて、あの戦争のことを考えてみませんか。
唐突ですが、千匹ものハエなんて、見たことありませんよね。
今年95歳になった映画監督、新藤兼人さんは、それを目にした日のことを鮮明に覚えています。


■醜さを伝える責任
新藤さんは31歳で召集され、翌年、兵庫県宝塚市にあった海軍航空隊で敗戦を迎えました。1年半ほどの軍隊生活でしたが、上官から理由もなくこん棒で尻を殴られる、惨めな毎日だったそうです。
そんなある日、命令が下りました。「本土決戦に備え、食料となるコイの稚魚を育てろ」
この作戦には褒美もついていました。エサになるハエを千匹捕まえたら、一晩の外出が許されたのです。妻に会いたい一心でやり遂げた仲間がいました。
びんにためたハエを新聞紙の上にばらまき、上官の前で1匹ずつ細い竹の先でより分けて数えていく。新藤さんは傍らで「正」の字を書いてそれを記録しました。998、999……、ついに千匹を数え上げ、外出許可をもらった時の、戦友の笑顔を新藤さんは忘れられません。
千匹のハエとはどんなものか。殺虫剤などの実験用に飼育する研究所で、死んだハエ千匹を実際に見せてもらいました。白い紙にばらまかれた黒い異様な群れ。これを1匹ずつ集めたのかと思うと気が遠くなりました。
一緒に召集された100人のうち、生き残ったのは6人だけでした。
戦争って、どんなものなのでしょうか。戦後の、豊かで平和な時代に生まれ育った世代には、なかなか具体像をイメージすることができません。
新藤さんは、戦争が勇ましく、人が死ぬことが美しく描かれている本や映画を見ると、怒りがわいてくるといいます。
戦争は醜い。個を破壊し、家族をめちゃめちゃにする。そのことをきちんと伝えるのが生き残った者の責任だ。そう考える新藤さんは、自らの戦争体験をもとに「陸(おか)に上(あが)った軍艦」という映画の脚本を書き、自ら証言者として出演しました。この夏、映画が公開されています。
特攻隊、集団自決、大量殺戮(さつりく)……。戦争のそこかしこに「狂気」があります。新藤さんが見たハエもその一つでした。


■アジアからの視点
今年初め、ある中学校の授業で、一本のアニメDVDが上映されました。
主人公の女子高校生が、見知らぬ青年と出会い、戦死者らがまつられている靖国神社に誘われます。
青年はこう語りかけました。
「愛する自分の国を守りたい、そしてアジアの人々を白人から解放したい。日本の戦いには、いつもその気持ちが根底にあった」
「悪いのは日本、という教育が日本人から自信と誇りを奪っている」
神社で手を合わせる2人。帰り道、青年は姿を消す。その青年は、じつは戦死した女子高校生の大伯父だった――。そんな内容です。
「誇り」と題されたアニメは、若手経営者らの集まりである日本青年会議所が「今の歴史教育は自虐的すぎる。子どもたちが日本に誇りを持てるように」との思いから作ったそうです。
「日本が悪いと思っていたが、そうではなかったことがわかりました」
「日本に誇りを持つようになった」
見終わった生徒たちの感想文には、こんな言葉が並びました。
でも、このアニメは、新藤さんが味わったような非人間的な軍の日常や、日本が侵略などでアジアの人々を苦しめたことにはほとんど触れていません。
会議所の依頼でアニメを見せた先生は後日、日本の侵略の実態についても授業で補ったそうです。歴史を教える難しさを痛感した、と先生は話していました。


■過去にせまる挑戦
戦争には、さまざまな「顔」があるということかもしれません。どこから見るかによって、見えてくるものががらりと変わってくる。
皆さんは、あの戦争について学校でどれぐらい学んでいますか。歴史教科書のかなり後ろの方にあるので、授業は駆け足になりがちです。
でも、戦争を学ぶための材料は、授業や教科書以外にもたくさんあります。
広島と長崎にある原爆の資料館を訪れれば、目を覆いたくなるような悲惨な被害を目の当たりにします。沖縄には、地上戦の裏で繰り広げられた壮絶な体験を語るひめゆり部隊の生き残りのおばあさんたちがいます。
それは、アジアの国々も同じです。中国や韓国には、日本の侵略や植民地統治、それに対する抵抗の歴史が刻まれた記念館などがたくさんあります。
私たちは、過去を体験することはできません。でも、戦争の現実につながるさまざまなことに触れたり、見たり、聞いたりすることはできる。そして、現実の戦争を想像してみることができます。その力を培うことこそが、歴史を学ぶ大きな意義だと言えないでしょうか。
見たくないものに目をふさげば、偏った歴史になってしまいます。一つのことばかりに目を奪われれば、全体像を見失う。いかに現実感をもって過去をとらえるか。その挑戦です。
62年前、家族に会うために、千匹のハエを捕まえた兵隊が確かにいたという現実がありました。
今日という日に、そんなことに思いをめぐらしてみてはどうでしょう。



社説:終戦の日 静謐な追悼の日となるように(読売新聞 2007年8月15日(水))

8月15日。国のために犠牲となった人々を追悼し、平和への思いを新たにする日である。
今年も東京・九段の日本武道館でとり行われる全国戦没者追悼式には、天皇、皇后両陛下とともに、国家三権の長である衆参両院議長、首相、最高裁長官が参列する。
これは、日本国としては最も厳粛な形式の行事である。
だが、式典会場の外の状況は、これまで、必ずしも静謐(せいひつ)とは言えなかった。
とりわけ小泉内閣時代は、日本武道館のすぐ近くにある靖国神社への首相参拝を巡り、賛否両論が渦巻いた。
靖国論議は国内にとどまらず、中国、韓国との外交論議にも発展し、とくに中国とは、「政冷経熱」といわれるような外交的停滞を招くことにもなった。
今年は、一転して、静かな追悼の日を迎えようとしている。
安倍首相は、靖国参拝については「参拝する」とも「しない」とも、あるいは「参拝した」とも「していない」とも、一切明言しない「あいまい戦略」を採っている。靖国問題を政治・外交上の焦点から“ぼかして”しまおうという戦略だろう。
結果としては、中国の国内事情、外交戦略的思惑も絡んで、日中関係は大きく改善された。
また、今年は、安倍内閣の全閣僚が、靖国参拝を控えるようだ。
これは、一つには、参院選での自民党大敗という状況の中で、余計な摩擦要因は作りたくない、という政治的考慮によるものだろう。
しかし、他方では、昨年から今年にかけて、いわゆる「A級戦犯」の靖国神社合祀(ごうし)についての昭和天皇の「心」が、次々に明らかにされたということも、作用しているのではないか。
「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」
昭和天皇が晩年に詠まれた靖国神社に関するお歌の「うれひ」とは、「A級戦犯」の合祀問題を指していたことが、最近、明らかにされた。徳川義寛侍従長の生前の証言を、歌人岡野弘彦氏が近著で述べている。
戦死者の魂を鎮めるという靖国神社の性格が、「A級戦犯」の合祀で変わってしまうのではないか。戦争に関連した国との間に、将来、禍根を残すことになるのではないか。
そうした思いから、昭和天皇は、「A級戦犯」の合祀には反対のお考えだったという。
昭和天皇が、「A級戦犯」の靖国神社への合祀に対して、強い疑念を抱いていたことが明らかにされたのは、これが初めてではない。
昨年7月、宮内庁長官だった富田朝彦氏のメモに、昭和天皇靖国神社参拝をやめたのは「A級戦犯」合祀が理由である、と記されていることが分かった。
今年4月には、元侍従・卜部(うらべ)亮吾氏の日記にもこれを裏付ける記述のあることが公表されている。
靖国神社への「A級戦犯」合祀をめぐる議論の一つの難しさは、「A級戦犯」を裁いた極東国際軍事裁判東京裁判)が連合国による「勝者の裁き」で、日本人自身による戦争責任の究明ではなかったことにも起因するのだろう。
東京裁判のプロセスや結果については少なからぬ疑問もつきまとう。
例えば、重大な戦争責任があったとは思われない「A級戦犯」がいる一方、日米開戦をあおりながら、容疑者にもならなかった陸海軍の軍事官僚たちがいた。東京裁判の「A級戦犯」の概念には問題がある。
読売新聞は、東京裁判の「戦犯」概念とは距離を置きながら、日本の政治・軍事指導者の「昭和戦争」の戦争責任について検証し、昨年8月に最終報告をまとめた。
その結果、特定された戦争責任者の中には、昭和天皇が名指しで靖国神社に合祀されたことを批判した2人の「A級戦犯」、松岡洋右外相と白鳥敏夫駐イタリア大使も含まれる。
2人は国際情勢を見誤り、日独伊三国同盟の締結を強力に推進し、日本と米英両国との関係を決定的に悪化させた。このことが、対米英開戦への道を開く大きな要因となった。
東条英機首相をはじめとする「A級戦犯」の多くが、日本を無謀な戦争へと導き、日本国民に塗炭の苦しみをもたらした「A級戦争責任者」と重なることは間違いない。
彼らの引き起こした戦争が、東アジアの人々に、様々な惨害をもたらしたことも確かだろう。
こうした経緯を考えれば、靖国神社天皇参拝を復活させようと望むなら「A級戦犯」を分祀するしかあるまい。
しかし、靖国神社神道の教学上、どうしても分祀はできないということであれば、それも宗教法人としての固有の選択である。その選択に政府が関与することは、憲法政教分離の原則に違反することにもなろう。
ただ、そうした靖国のあり方は、新たな国立追悼施設の建立、あるいは千鳥ヶ淵戦没者墓苑の拡充などについての議論の広がりを避けがたいものにすることになるのではないか。



【主張】8月15日 鎮魂と歴史の重みを思う(産経新聞 2007年8月15日(水))

列島に猛暑日がつづく中、日々論説委員室に届く出版物や封書、はがきなどとともに、この1冊もあった。
タイトルは『いつまでも、いつまでもお元気で』(草思社刊)。
敗色濃厚となった太平洋戦争(大東亜戦争)末期、知覧(ちらん)(鹿児島県)をはじめ各地の基地から飛び立った特攻隊員33人の遺稿集である。
18歳の青年は出撃前夜のトランプ占いの結果をこのように遺(のこ)した。
≪御母様が一番よくて、将来、最も幸福な日を送ることが出来るそうです。…輝夫は本当は35歳以上は必ず生きるそうですが、しかし大君の命によって国家の安泰の礎として征(ゆ)きます≫
29歳の父親は遺児となる一男一女にあてて次のように記した。
≪父ハスガタコソミエザルモ、イツデモオマエタチヲミテイル。…ソシテオホキクナッタレバ、ヂブンノスキナミチニスゝミ、リッパナニホンヂンニナルコトデス≫
62回目の終戦記念日である。あらためて思うのは、このように国の安泰や立派な日本人の明日を願って逝った戦死者たちに胸を張ることのできる日本であるのだろうかということだ。
300万を超す尊い犠牲者たちを慰霊するとともに、あの破局的結末をもたらした歴史の重み、そして国を守ることの大切さをもう一度、考えるべき時なのではあるまいか。


◆深化させたい日米関係
日本の国際環境はむしろ厳しさを増しているのに、今回の参院選で外交・安全保障がほとんど争点にならなかったのは残念なことだった。
保有の既成事実化と支援獲得の二兎(にと)を追う北朝鮮、環境や食の安全を放置して軍事・経済大国路線をひた走る中国、そして石油パワーを背景に資源帝国主義を突き進むロシア。わが近隣諸国の掛け値なしの姿である。
だからこそ一層、深化させねばならない日米関係にもきしみが走る。
6カ国協議における米国の北への際限ない妥協は、日本には背信行為も同然に映る。下院本会議での慰安婦決議採択と久間章生前防衛相の原爆投下「しょうがない」発言という相次ぐ不適切な出来事は、機微に触れるがゆえに、結果的に多くの日本人の心の奥深くに米国への失望と不信を生んだ。
一方、対テロ特別措置法の命運は、野党が参議院過半数を制したことにより一気に不透明になった。
インド洋での海上自衛隊の活動は11カ国に対して行われており、単なる「対米協力」ではない。ましてや「対米追随」ではない。国際協力なのだ。もし同法が葬られれば、テロとの戦いをつづける国際社会と日本の乖離(かいり)は広がり、信頼の損失は計り知れない。
日本は、130億ドルを拠出しながら「少なすぎて遅すぎる」と感謝すらされなかった、湾岸戦争の外交的失敗を繰り返す愚を犯してはならない。
62年前の8月15日は日本にとって明治維新にも匹敵する歴史の転換点だった。日本は米国を「敵」から「同盟」の相手とする稀有(けう)な歩みをつづけた。もちろんそれは占領という強制により始まり、その後も経済や防衛など数々の局面で摩擦や緊張はあった。


◆地についた安保論議
しかし重要なことは、それら紆余(うよ)曲折を双方がともあれ克服して今日があるという点である。一夜にして同盟が破棄され、友人が敵となることもあり得るだけに、この事実は重い。
同時に日米同盟は、いまやアジアひいては世界の平和と安定の礎たる国際公共財としての役割も求められ始めている。その維持と向上には当然ながら日本も責任の一端を負っている。
国の道筋を誤らぬよう、与野党はいまこそ21世紀らしい、かつ地に足のついた安保論議を進めるべきだ。
少子高齢化の不安や地方の疲弊などが、日本人を内向きにしているのは確かである。だが時に失敗もあったが、歴史は総じて目を海外に向けることで日本が活路を開き、発展してきたことを物語っている。
再び21歳の特攻隊員が発(た)つ前の最後の手紙を引く。題して皆様へ。
≪私が居なくなってもみんな元気でお父さんは外でお働きになる。お母さんは内の仕事をおやりになる。…そして皆が明るく楽しく扶(たす)けあって美しい生活を営む。私はそれを希(ねが)いそれを祈って居ります≫
きょう8月15日は東京・日本武道館で全国戦没者追悼式が行われる。靖国神社には多くの老若男女が参拝するだろう。甲子園ではサイレンとともに球児も観客も黙祷(もくとう)する。
すべての国民がそれぞれ慰霊の思いを捧(ささ)げたい。



【社説】終戦記念日に考える 極限からのメッセージ(東京新聞 2007年8月15日(水))

平和は未来を奪う。希望は戦争−。そんな過激な論文が若者の心をとらえ、共感を広げているといわれます。戦後六十二年、ちょっと悲しいものがあります。
「『丸山真男』をひっぱたきたい」というのですから、タイトルからして刺激的でした。論座一月号に掲載された赤木智弘さんの論文です。
丸山真男とは輝ける戦後知識人の時代を築いた東大教授。サブタイトルに「31歳フリーター。希望は、戦争。」とありました。参院選自民党が歴史的大敗をした二〇〇七年のことしを象徴する論文となるかもしれません。


希望は戦争に深い絶望
論文での自己紹介によると、赤木さんは北関東の実家で暮らし、月給は十万円強。結婚もできず、親元に寄生するフリーター生活をもう十数年も余儀なくされ耐え難い屈辱を感じています。父親が働けなくなれば生活の保障はなくなります。
定職に就こうにもまともな就職口は新卒に限られ、ハローワークの求人は安定した職業にはほど遠いものばかり。「マトモな仕事につけなくて」の愚痴には「努力が足りないから」の嘲笑(ちょうしょう)が浴びせられます。事態好転の可能性は低く「希望を持って生きられる人間などいない」と書いています。
今日と明日とで変わらない生活が続くのが平和な社会なら、赤木さんにとって「平和な社会はロクなものじゃない」ことになります。
ポストバブル世代に属する赤木さんの怒りは、安定した職業へのチャンスさえ与えられなかった不平等感に発し、怒りの矛先はリストラ阻止のため新規採用削減で企業と共犯関係を結んだ労働組合や中高年の経済成長世代に向けられていきます。
赤木さんにとって戦争は社会の閉塞(へいそく)状態を打破し、流動性を生み出してくれるかもしれない可能性の一つです。さすがに「私を戦争に向かわせないでほしい」と踏みとどまっていますが、「希望は戦争」のスローガンには多くの若者たちの絶望が隠れています。


苦悩直視が唯一の救い
若者が希望と未来を失ってしまったというなら(若者でなくとも)薦めたい一冊があります。
ビクトル・E・フランクルの「夜と霧=ドイツ強制収容所の体験記録」(みすず書房)です。人間への信頼と内からの勇気が湧(わ)いてくるかもしれないからです。
フランクル強制収容所からの奇跡的生還を遂げたユダヤ人心理学者です。毎日のパンと生命維持のための闘いは、あまりにも厳しく、良心の消失、暴力、窃盗、不正、裏切りがあり、最もよき人々は帰ってこなかったと収容所生活を回顧しています。
フランクルが語るのは英雄や殉教者ではなく、ごく普通の人々の小さな「死」や「犠牲」ですが、著者まずもっての感動は、どんな極限にあっても、人間の尊厳を守り抜く少なからずの人々の存在でした。勇気や誇り、親切や品位が示され、若いブルジョア女性は「こんなひどい目に遭わせてくれた運命に感謝します」と最期まで気高く快活でした。
著者にも愛の救いがありました。妻の面影のなかに勇気や励ましの眼差(まなざ)しを見たのです。精神の豊かさへの逃げ道をもつことで、繊細な人が頑丈な身体の人よりもよく耐え忍ぶという逆説がありました。
クライマックスは絶望からの救いの思想です。人生に期待するのではなく、人生がわれわれに何を期待しているかを問うこと、具体的には唯一、一回限りのわれわれ自身の苦悩を誠実に悩み抜くことが結論でした。苦悩の直視と時にはそのための涙が偉大な勇気だともいうのです。
いかなる人間も未来を知らないし突然、何らかのチャンスに恵まれないとも限らない。未来に落胆し、希望を捨てる必要はないとのフランクルの仲間への励ましは、収容所の内と外で変わるものではないでしょう。
本日付朝刊の特集面に登場している経済同友会終身幹事の品川正治さんは市場主義全盛に抗して「人間のための経済」を唱え「人間の力」「人間の努力」に期待する心熱き財界人です。その「人間中心の座標軸」が戦場の体験から生まれ、戦後も一貫させてきたことが語られるなど鈴木邦男氏との対談は熟読していただきたい内容です。
品川流の人間のための政治や経済からすれば、若者を「希望は戦争」との絶望に追い込み、大量の低賃金・不安定労働を生み出してしまった政治や経済は間違っているに決まっています。是正の取り組みに人間の努力が向けられなければならないはずです。新たな大きな課題です。


何より人間の尊厳
日本はどこに向かっているのか。国民の不満と不安が噴出したのが先の参院選の結果だったといえるでしょう。富者と貧者、都市と地方の容認できないほどの格差拡大、富める一部が富み、弱者、貧者が切り捨てられる社会は国柄にも反します。何より人間の尊厳は守らなければなりません。



社説:戦争の歴史を忘れずアジアと友人で(日本経済新聞 2007年8月15日(水))

戦没者を追悼し、平和への誓いを新たにする「終戦記念日」は日本人にとって、お盆とも重なり特別な日だ。だが、8月15日はアジア諸国などでは必ずしも終戦の日ではない。62年前に終わった戦争を巡る歴史認識には隔たりがあることを踏まえつつ、アジアや世界と向き合いたい。
米英仏や当時の中華民国など連合国にとっては、9月2日が対日戦勝記念日だ。1945年のこの日、東京湾に浮かぶ米戦艦ミズーリで日本は降伏文書に公式に署名した。
8月15日を特別の日にしているのは、日本以外では韓国の光復節北朝鮮解放記念日くらいだ。中国は降伏文書調印翌日の9月3日を戦勝記念日とし、東南アジアでも9月に設定している国が多い。
今年の終戦記念日安倍晋三首相をはじめ安倍内閣の全閣僚が靖国神社の参拝を見送る見通しだ。昨年、当時の小泉純一郎首相が参拝したのに対し中国などが反発したのは「8月15日」だからだけではない。A級戦犯がまつられている靖国神社への首相の参拝自体が問題だった。
日本の一部には先の大戦真珠湾攻撃で始まったと思っている人もいる。終戦直前に原爆が投下されたため「米国には負けたが、中国には負けていない」と考える人もいる。
7月7日といえば、日本では七夕かもしれない。しかし、中国人は日中戦争の発端となった盧溝橋事件を思い起こす。今年は日中国交正常化35周年であると同時に、同事件から70周年に当たる微妙な年だ。
10年前の8月15日に亡くなった孫平化中日友好協会会長は遺稿となった「私の履歴書」でこう書いた。
「中国と日本との関係では、双方の歴史観の開きが大きくなっているのではないか。特に若い世代ほど距離が広がっている気がする」
今夏も特攻隊など戦争に関する映画が数多く上映されている。日系三世の米国人、スティーブン・オカザキ監督のドキュメンタリー映画ヒロシマナガサキ」は、被爆者と原爆投下に関与した米国人らの証言を軸に核戦争の脅威を冷静に描く。
この映画には日本の若者たちに45年8月6日に何が起きたかを質問するシーンがあるが、誰ひとり答えられない。戦後生まれが人口の4分の3となり、唯一の被爆国でさえ戦争は風化しつつあるのが現状だ。
戦争がいつ始まり、いつ終わったかを含め国家間に認識のずれがあるのは当然かもしれない。アジア諸国・地域と真の友人になるためにも戦争の歴史を忘れてはならない。



社説:終戦記念日 「加害」責任も忘れてはならない(愛媛新聞 2007年8月15日(水))

終戦から六十二年。日本の無謀な戦争で、日本だけでなくアジアでも多くの犠牲者を出した。犠牲者の霊を慰めるとともに、率直に過去を反省し、不戦の誓いを新たにしたい。
近年、この時期には首相の靖国神社参拝問題が大きな政治・外交問題になっていた。小泉純一郎前首相が靖国参拝を明言し、時期を変えながらも参拝を続けていたためだ。
安倍晋三首相は「参拝するかどうか、明言しない」という態度だ。あいまい化路線で、問題が根本的に解決したわけではないが、中国や韓国との関係悪化が緩和したのは事実だ。
しかし、日本の戦争責任に関して別の角度からクローズアップされることになった。従軍慰安婦の問題だ。今年七月、米下院本会議が「日本政府は公式謝罪をすべきだ」と初の決議を可決したからだ。
同盟国である米国の議会から非難の決議を突きつけられた事実を、政府は深刻に受け止めなければならない。
決議の背景には、今でもスーダンなどで女性が犠牲になっており、国際社会が戦場での性犯罪に敏感になっている事情がある。慰安婦問題は現代の人権問題に直接つながっており、日本政府もそうした認識を持つことを迫られている。
しかし、政府はあまりに鈍感だ。安倍首相は「官憲が人さらいのように連れて行く強制性はなかった」と述べ、米議会の怒りを増幅させた。
慰安所が軍の管理下に置かれていたのは明白で、軍人が占領地の女性を強制連行して慰安婦にしたケースも少なくなかったことが、証言や資料で明らかになっている。政府の認識は根本から改めるべきだ。
従軍慰安婦への償いを目的に設立された「女性のためのアジア平和国民基金」は、フィリピンや韓国、台湾などの元慰安婦に対し、民間募金と政府資金を基に償い金の支払いや医療福祉支援を行った。
しかし、政府の公式謝罪と国家補償を求めて受給を拒否した元慰安婦も多く、基金は十分に機能しなかった。それだけに安倍政権は当時の国と軍の責任を明確にした上で謝罪し、適切な補償を急ぐべきだ。そうでなければ本当に「戦争は終わった」とは言えないはずだ。
戦後レジーム(体制)からの脱却」を掲げ、憲法改正を声高に叫ぶ安倍政権には、慰安婦問題でもみられるように歴史と正面から向き合う姿勢が乏しいように思えてならない。
沖縄戦で日本軍が住民に「集団自決」を強制したとの記述が教科書検定で修正された件も、こうした政権の姿勢に沿ったものといえるのではないか。
過去に向き合わなければ、未来に対しても真剣に対応しようとする姿勢は生まれない。久間章生前防衛相の原爆投下「しょうがない」発言も、そうした意味で許せない。
安倍首相が「美しい国」を実現したいなら、その前に「美しくない過去」と誠実に向き合うことが必要である。



社説:終戦記念日 平和と不戦を誓う日に(琉球新報 2007年8月15日(水))

戦後62年の終戦記念日が今年も巡ってきた。去る大戦で犠牲になった多くのみ霊に謹んで哀悼の意を表する。あらためて恒久平和と不戦を誓う日にしたい。
最近の日本の現状を見ると、過去の過ちに目をつぶり歴史の風化を促すような動きが顕著である。極めて憂慮すべき状況だ。
今年3月に公表された高校日本史教科書検定沖縄戦「集団自決」の日本軍の関与が削除・修正されたほか、第2次大戦中の従軍慰安婦問題では安倍晋三首相が「(旧日本軍による慰安婦動員の)強制性について、それを証明する証言や裏付けるものはなかった」などと発言し批判を浴びた。


検定意見の撤回を
不用意な首相発言が一因となって、7月には米下院が日本政府に慰安婦問題で公式謝罪を求める決議を初めて可決する事態になった。
教科書検定問題、従軍慰安婦問題などに共通しているのは、旧日本軍の犯した非道な行為を可能な限りぼかし、糊塗(こと)しようとする意図が透けて見える点だ。
戦後62年が経過し大戦の実相を証言できる人が少なくなってきたのをいいことに、歴史を歪曲(わいきょく)することは絶対に許されない。
再び過ちを繰り返さないためには、過去の行為を直視して反省し、史実を後世に正しく伝えていくことが不可欠である。
政府内で、過去の過ちをあいまいにしようとする動きが見られるのは危険な兆候だ。こうした傾向が強まれば、やがては大戦自体を正当化することにもなりかねない。
沖縄戦の集団自決については、昨年の検定まで、軍の強制を明記した教科書もすべて合格していた。ところが、今年の検定で、唐突に修正意見が付いた。
教科書を審査するのは教科用図書検定調査審議会だが、検定意見の原案は文部科学省が作成している。何らかの政治的意図が働いたとしか思えない。
にもかかわらず、伊吹文明文科相は検定意見撤回の要請に対し「政治による教育への介入になるので難しい」と述べ、教科用図書検定調査審議会の結論を尊重する考えを示している。
審議会に修正を求める検定意見を出させておきながら、抗議を受けると審議会を盾にして撤回を拒む。このような欺瞞(ぎまん)がまかり通っていいはずがない。
同問題では、県議会と県内全41市町村議会が検定撤回を要求する意見書を可決した。県議会や県子ども会育成連絡協議会、県PTA連合会、県老人クラブ連合会、県高等学校PTA連合会、県遺族連合会、県婦人連合会などによる超党派の県民大会が9月に開催される運びになっている。
終戦記念日に際し、政府がなすべきことは、歴史の真実に目を向け、検定意見を直ちに撤回し記述を復活させることだ。


住民守らぬ軍隊
昭和天皇が国民向けのラジオ放送(玉音放送)でポツダム宣言受諾を明らかにした1945年8月15日、沖縄では敗戦を知らずガマに隠れている住民がおり、依然、投降を拒否する日本兵と米軍との間で散発的な戦闘もあった。
久米島では15日以降も、海軍通信隊(約40人、鹿山隊)によって住民がスパイ容疑で次々と殺される事件が起きている。軍は住民を守るどころか刃(やいば)を向けた。
20万人余が犠牲になった沖縄戦で、日本兵は住民を壕から追い出したり、食料を奪ったり、スパイの嫌疑をかけて殺害するなどしている。
こうした悲惨な歴史をありのままに伝えていくことは、後に続く者の務めである。
憲法9条は「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とうたっている。
とりわけ9条2項は「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と明記、戦力の不保持にまで踏み込んでいる。
戦争の悲劇を二度と繰り返さないためには9条を堅持しなければならない。
だが、自民党が9条2項を削除し「自衛権」と「自衛軍」の保持を明記した新憲法草案を2005年に決定するなど、改憲に向けた動きも具体化している。
戦争を防ぐにはどうすればいいのか。皆で考える日にしたい。



社説:終戦記念日 史実を冷静に学びたい(中国新聞 2007年8月15日(水))

「軍事一色だなあ」とつぶやいた人もいる。JR呉駅から設けられた連絡通路を呉市海事歴史科学館大和ミュージアム」に向かう。旧海軍が誇った戦艦大和の全容を伝える。西隣には四月、海上自衛隊呉史料館「てつのくじら館」が加わった。こちらは、米国と一体で進めてきた海の守りを紹介している。
盆で帰省中の人を含め、連日多くの入場者でにぎわう二つの博物館は、戦前・戦後の断絶と連続をありのままに映し出す。以前なら、この種の施設をめぐっては賛否両論が長く激しく渦巻いたことだろう。終戦から六十二年。史実を冷静に学べる時期が来たと受けとめたい。


二者択一でなく
掛け替えのない平和を守り抜くためにこそ、戦争の歴史を振り返る。
史実自体がなお論争の的になっている場合も少なくない。六十二年前に終わった戦争の呼称からしてそうだ。当時のまま「大東亜戦争」にこだわるか、戦後広く使われてきた「太平洋戦争」に従うか。ことし七十周年の節目となった盧溝橋事件に始まる日中戦争からのつながりも重視して、近年の戦史研究では「アジア・太平洋戦争」の表記が目立つ。二者択一に陥らず全体像をとらえようとする一つの見識だろう。
先に米下院本会議が日本政府に公式謝罪を求めて決議した従軍慰安婦問題にしても、教科書の記述が論議になった沖縄の集団自決にしても、軍の強制や関与について「オール・オア・ナッシング」の選択を迫る態度には、疑問がある。結論を下すための判断材料をどう整えるか。戦争中の重大な決定にかかわる極秘資料が今日まで十分な形で保存されているとは信じ難い。関係者の証言からは、主観の「混入」を完全には排除できまい。
しかし、二者択一を避けるのは、決して結論を先送りしたり責任をあいまいにしたりするためではない。
専門家であろうとなかろうと、詳細を今後の調査研究に委ねるとしても「これまでのところ」と限定付きで判断を示すことはできるし、しなければならない。ましてや、戦時下で兵士や庶民の、いわば生殺与奪の権を握っていた軍部が、戦闘やそれにまつわる行為について、結果責任を負うのは当然ではないだろうか。


対等な関係必要
戦争の相手国と、どう和解するかも難問だ。あらためて日付をみる。きょうはポツダム宣言受諾を連合国に伝えた八月十四日でもなく、降伏文書に調印した九月二日でもない。近刊の佐藤卓己/孫安石編「東アジアの終戦記念日」などによれば、昭和天皇玉音放送があった日が終戦記念日になったのは国内向けの要因が大きい。聖断を通じて戦前と戦後が一つにつながったため、社会の激変にもかかわらず、国民の混乱や分裂を回避できたとの見方もある。
だが、日本の「終戦記念日」は同時に韓国の「光復節」、北朝鮮の「解放記念日」でもある事実を忘れてはなるまい。小泉純一郎前首相のようにこの日の靖国神社参拝を特別視する姿勢が、いかに旧植民地の人々の神経を逆なでしているか。A級戦犯が合祀(ごうし)されている現状ではなおさらだろう。
韓国、北朝鮮への態度とは裏腹に、戦後日本はあまりに「親米」的だった。命懸けで戦いながら一転、占領を経て運命共同体に至る。てつのくじら館は、米国の手厚い支援から戦後の国防が始まったと説明する。本来、自衛隊員向けの教育施設でもあると分かっていても、英文が日本文より大書された展示には違和感を抱く人もいるのではないか。
日本がたびたび戦場としてきた中国との間柄もなお不安定といわざるを得ない。経済を中心に互恵関係はもはや後戻りできないほど緊密になったのに、双方とも排外主義をあおる風潮が強まっているのが気掛かりである。平和な国際環境づくりのため、対等の関係をできるだけ多くの国と築きたい。



社説:終戦記念日 重み増す「不戦の誓い」(秋田魁新報 2007年8月15日(水))

きょう62回目の「終戦記念日」を迎えた。あまたの犠牲者の安らかな眠りを祈らずにはいられない。
同時に、戦前の日本が陥った愚かな過ちにいま一度思いを巡らせ、不戦の誓いをあらためて胸に刻む日としたい。
ずっと不思議でならないことがある。終戦記念日が先祖を供養するお盆の期間と重なっていることである。
確かに偶然に違いない。しかし、たとえ歴史のいたずらにしろ、すごく意味深いことのように思えてくる。
なぜ私たちが戦争で死ななければならなかったのか。もっと耳と目を研ぎ澄ましなさい―。死者からのそんな問いかけが込められているような気がしてならないのである。
「いつまでも、いつまでもお元気で 特攻隊員たちが遺した最後の言葉」(草思社)には、死に赴く直前の若者の思いが切々とつづられている。
難しかったり、飾ったりした言葉は一切見当たらない。親兄弟や国のことを思う一方、深い悲しみをにじませる文面は、平易ながらどっしり重く響く。
受け止め方はさまざまあるに違いない。しかし、くみ取るべきは戦争美化といったたぐいのものでは決してないはずだ。
特攻に象徴されるおびただしい犠牲と塗炭の苦しみの上に、現在の平和と繁栄へとつながる礎が築かれた。戦争犠牲者の死に報いることとは、今後も平和を堅持し続けることである。
終戦記念日や平和を考える際、昨今の政治状況に目を向けないわけにはいかない。安倍政権の登場によって「国家」や「愛国心」が前面に押し出されるようになったからである。
安倍晋三首相はさらに憲法の改正を悲願とし、政府がこれまで禁じてきた集団的自衛権の行使も、容認の方向で有識者会議に検討させている。
参院選での自民惨敗後はあまり主張しなくなったが、安倍首相の掲げる「戦後レジーム(体制)からの脱却」の本質が、この点にあるのは明白だろう。
憲法が多大な犠牲の末にもたらされ、戦後日本の大本になってきたことは、何度強調しても過ぎることはない。特に9条は平和主義の象徴である。
この憲法を改正しようというのなら、もっと時間をかけた丁寧な国民的議論が不可欠なことは、今更言うまでもない。
安倍首相がどうしても在任中に成し遂げたいのであれば、憲法、中でも9条の改正を争点として明確に打ち出し、できるだけ早い時期に衆院を解散、民意を問うべきである。
平和主義の限界がよく指摘される。暴力に非暴力で立ち向かえるのかというわけである。しかし、世界は既に核兵器に満ちている。一歩間違えば、勝ち負けなど存在しない破滅の危険性を秘めているのである。
だからこそ、唯一の被爆国として、憲法9条に裏打ちされた不戦や平和を訴え続けることに意義がある。それは日本にしかできないことなのだ。
戦争にいかに備えるかではなく、いかに武力行使や戦争に至らせないか。日本が世界に対して果たすべき役割は依然、極めて重要で大きい。



社説:終戦記念日 62年目の不戦の誓い新た(神奈川新聞 2007年8月15日(水))

日本の敗北に終わったあの戦争から六十二年がたった。三十年を一世代とすると、二世代が過ぎたことになる。戦前派は既に「隠居」の時代であるし、七百万人といわれる団塊の世代労働市場から次々に退場していく。むろん戦後生まれであるから、においはかいだものの実体験はない。
だが、その後の「戦後派」になると、戦争をまるで知らない者が現れてくる。若者に「どっちが勝ったの」と聞かれると、驚くよりも空(むな)しくなる。日米戦争があったことぐらいは知ってほしい。
長い歳月の中で戦争の記憶は風化しつつある。昭和、それも戦後生まれが大半を占める。かつてはどこのまちでも、隣近所の大人たちが中国戦線や南洋の島々での、つらく過酷な体験を子どもたちにも語っていたものだが、それも遠い記憶になりつつある。
しかし、将兵たちの戦争体験を無意味にするわけにはいかない。ざっと三百十万人といわれる全国戦没者の追悼式は、きょう日本武道館で行われる。天皇、皇后両陛下とともに安倍晋三首相も出席して戦死者たちの霊を慰める。
その安倍首相。言動に危うさを感じざるを得ない。まず第一点は先の参院選自民党は大敗した。議長の座も野党の民主党に奪われたにもかかわらず、政権続投の姿勢を変えない。不信任も同然の選挙結果だったのに内閣改造や党幹部の入れ替えだけでは、民意に応えたとはとてもいえまい。
二点目は、年金選挙といわれた参院選敗北の原因がそれだけだったのかということだ。靖国参拝でも「行く行かない」を明らかにしていない。一国の首相があいまいな態度に終始していては東アジア諸国から疑念を招こう。肝心なところをはぐらかしてばかりでは国民だって不安になろう。
さらにある。年金問題では社会保険庁の失態をやり玉に挙げているが、職員は国家公務員である。彼らを管理、監督、御すことこそ政治家の役目なのに、それをすっかり忘れてしまっている。
あの戦争の責任についても同様である。前防衛相の「原爆投下はしょうがない」発言は信じ難いが、首相はそんな閣僚も更迭せずにかばった。原爆忌で広島、長崎の両市長は、「改憲」を強く唱える首相に反対を訴えた。原爆投下は両市で約三十万人の死者を出し、被爆者は熱線や放射能の後遺症にいまなお苦しんでいる。
何やら硝煙が漂う政権ではないか。参院選での有権者も危険なものを感じたに違いない。国際紛争を解決する手段としての戦争を現憲法は禁じている。それは話し合いで解決するほかないのだ。
終戦記念日」は、不戦の誓いを新たにする日である。誰もが、等しく、真剣に-。それが死んでいった多くの兵士、一般市民に対する最良の慰霊になるはずだ。



社説:終戦記念日*憲法が支える非戦の誓い(北海道新聞 2007年8月15日(水))

どんなにつらい体験でも、時間がたつにつれ、次第に記憶が遠のいていくのは人の常かもしれない。
だが、決して忘れられないことや忘れてはいけないことがある。それは国においても同じだろう。
日本はかつて台湾や朝鮮半島を植民地とし、多くの兵力を中国やアジアに送り、各地に膨大な犠牲を強いた。
それだけではない。国内も米軍機の空襲にさらされ、広島、長崎には原爆が投下され、多くの人々が死んだ。
きょう十五日は、そうした人たちを追悼し、二度と戦争はしないとの誓いを新たにする日だ。
しかし、私たちはあの大戦から何を学んだのだろうか。昨今の世相を見るにつけ、そんな思いにかられる。戦後日本が大きな岐路に立たされている。


*戦争体験の風化が心配だ
なぜそうした感覚にとらわれるのだろう。昨年九月の安倍晋三政権の発足が影響しているのではないか。
首相は「戦後レジームからの脱却」「美しい国」を掲げ、戦後日本を支えてきた教育や防衛などの枠組みに次々と手をつけた。
教育基本法の改正、防衛庁の省への昇格。専守防衛を旨とする自衛隊の本来任務に海外での活動が加わった。
国民投票法も成立した。自民党結党以来の悲願でもある改憲に道筋がついた。衆参両院に憲法審査会が設けられ改憲が現実問題となってきた。
政権内から核保有論議が飛び出し、財界からは「武器輸出三原則」の緩和を求める声が公然と出てきた。
いずれも平和国家としてのかじを大きく切ることになりかねない。
驚いたのは米国による広島、長崎への原爆投下を「しょうがない」とした久間章生防衛相(当時)発言だった。
唯一の被爆国である日本の閣僚として失言ではすまされない。罷免を拒否した首相も含めて核廃絶という国是を本当に理解しているのだろうか。
イラク派遣に反対する国民の活動を自衛隊が調査、監視していたことも明るみに出た。
前首相の靖国神社参拝を批判した加藤紘一自民党幹事長の実家が右翼に放火されたのは一年前の今日だった。
加藤氏は何ともいえない「時代の空気」を感じるという。
戦争体験の風化が進んでいる。
戦前を知る世代から「かつての道を歩んでいるのでは」との声がしきりに聞こえてくる。語り継ぐ努力を続けることだ。あの戦争は何だったのか。家庭で学校で考える場を持ちたい。


国際貢献に軍服はいらぬ
首相のいう改憲の眼目が戦争放棄を定めた九条にあるのは論をまたない。
自民党は二○○五年に公表した新憲法草案で、戦力不保持と交戦権の否認を定めた九条二項を削除。代わって自衛軍の保持を明記し、海外での武力行使を認めている。
首相が意欲を見せる集団的自衛権行使の容認が加わるとどうなるだろう。
米軍と自衛隊の一体化が急速に進む現状と考えあわせると、米国の国際戦略に組み込まれた自衛隊が海外で米軍と戦闘行動を共にすることになる。
それを国際貢献のためというのなら国民感情とかけ離れてはいまいか。
国連の一員として、また平和を希求する国として医療や福祉、農業や土木建築分野などで日本が世界に貢献できる道はいくらでもあるはずだ。
九条のおかげで何度も命拾いをした−。アフガニスタンで長年、かんがい事業や医療奉仕をしてきた医師の中村哲さんがそう記している。
九条を知らなくても「戦争を仕掛けなかった平和な国・日本」のイメージが現地で定着しているというのだ。
自衛隊は戦後、海外での戦闘行動に加わらず、一人の戦死者も出さず、一人の外国人も殺さずにすんだ。
自衛隊イラク派遣の任務が「人道復興支援」にとどまり、時の首相が「自衛隊の行く所は非戦闘地域だ」と強弁せざるを得なかったのも、九条二項が歯止めになったからだ。
戦火やまぬ国際社会で九条が持つ「非戦」の意義が増している。武装部隊を送るのではなく、この国ができる道を模索することが先決ではないか。


*九条の理念を誇りにして
九条を守ろうという動きがいま全国各地に広がっている。
二○○四年に作家の大江健三郎さんや哲学者の梅原猛さんらが提唱した「九条の会」は七千団体を超えた。地域や家族、職場単位の多様なグループが映画会や講演会などを開いている。
このままでいいのだろうかとの危機感が子を持つ親や、あの時代を知る人たちを行動に駆り立てているという。
北海道新聞世論調査でも九条支持が改憲容認者の中で増えている。
中国で終戦を迎えた経済同友会終身幹事の品川正治さんは月刊誌の対談で、復員船の中で憲法の草案を読み、戦友たちとともに泣いたと述べている。
「交戦権すら否定しすべての軍備を放棄すると、ここまで思いきって、これからの日本の生き方を決めている。これで自分たちはアジアで生きていける、仕事をしていけると感じた」
品川さんはその時の体験が戦後の自分の座標軸となったという。
この国は二度と戦争をしないと誓った。戦後六十二回目の終戦記念日。日本が歩んできた道を振り返りたい。



社説:言論の大切さを訴えたい(河北新報 2007年8月15日(水))

「手前みそだ」との批判を覚悟して、ぜひ紹介したいことがある。
終戦が迫った1945(昭和20)年8月11、13日に、河北新報は「偽龍を愛し真龍を恐る」「戦争目的の真(しん)諦(てい)」と題した社説を掲げた。
「偽龍…」は、竜の詩や絵を愛した文人が、実際に現れた竜の姿に驚いたという中国の故事を引いた。国民には必勝の精神を強いながら、戦局が不利になるや、「あはてふためき右往左往するといふやうなものはないではあらうか」と暗に軍部を批判した。
「戦争目的…」では、「最後まで戦ふ」ということを論じた後、「(勝つという意味の中には)相手から物をとる事にばかりあるのではなく、自ら多くの物を失ふことにもある。要は人類文化をそれを通じて、より高め、より深め、より聖(きよ)めることにある」と結ぶ。戦争の早期終結を訴えたものだ。
広島、長崎に原爆が投下され、戦況は悪化を極めていたものの、11日の河北新報の1面は、陸相が全軍に対し、「死中に活」と徹底抗戦を命じた記事を大きく扱っている。「1億玉砕」論もあった当時だ。
終戦に動いている事実を読者にどう伝えるか。「偽龍…」と「戦争目的…」は、社と論説陣が「決意と覚悟」のもとに論陣を張ったものだったのだろう。
当然のことながら、軍部は激怒した。社説を執筆した編集局長寺田利和は軍部の圧力にもかかわらず、筆を曲げることなく辞表を提出。社は慰留したが、以来出社しなかったとされる。
関係者によると、寺田は恬淡(てんたん)として気骨があり、視野の広い新聞人だったという。後に、「戦局についての正確な情報を国民に知らせない政府の姿勢に憤りを感じた」と語っていた。
終戦から62年のきょう、あえて弊社のことを取り上げたのは、言論の自由の大切さをあらためて訴えたいからである。
満州事変から始まって、日中戦争、太平洋戦争―。ポツダム宣言の受諾で終戦となるまでの約15年。
世界地図を眺めながら、なぜ小さな島国が、遠い大陸、南方、太平洋の島々まで行って戦争をしなければならなかったのか、と思う。国民的熱狂とでも言おうか、狂気の渦はとどまることを知らなかった。
その結果、日本人は戦地で、国内で310万人が亡くなり、アジア、太平洋諸国では2000万人が死亡したとされている。
こんな過ちを2度と繰り返してはならない。河北新報を含む全国の新聞も戦争を肯定、推進する側に回った。そんな中、最後に見せた「社説」の勇気と決断、そして良心をずっと語り継いでいきたい、と考えている。
戦争が始まると、言論が真っ先に統制されるのは歴史が示している。
言論の自由は、与えられるものではなく、勝ち取っていくものだろう。言論を日々訓練し、非戦の力を蓄積しておくことは、平和なときこそ重要だ。きょうの日を、一人一人が非戦を深化させる日にしたい。



社説:62回目の終戦記念日 平和の輝きを忘れまい(新潟日報 2007年8月15日(水))

酷暑の中、今年も八月十五日の終戦記念日を迎えた。
六十二年前、「玉音放送」が終戦を告げたこの日も暑かったという。
巡り来る季節に変わりはないようにみえても、そこに流れる「時代の風」は一様ではない。
戦火に倒れた数百万の同胞を悼み、旧日本軍による侵略の犠牲になったアジアの人々に思いをはせる日が、八月十五日である。
その原点がぼやけていないだろうか。自らの体験として戦争を語ることができる世代は一割程度だ。
戦争の記憶が次第に風化する一方で、憲法九条の改正を視野に入れた動きが進む。格差社会が生んだ憤まんをぶつけるかのように、多様な考えを許さぬ不寛容の精神が一段と広がっているようにもみえる。


歴史認識が問われる
二〇〇八年度用の高校教科書から、従軍慰安婦に日本軍が関与したとの記述が消えた。過去の検定を踏まえ、出版社が申請段階で自粛したのだ。
沖縄戦での住民の集団自決についても、検定意見が付き、軍の強制という文言が削られた。
この七月には、久間章生防衛相(当時)が広島、長崎への原爆投下を「しょうがない」と発言し、被爆者らの抗議を受けて辞任に追い込まれた。
従軍慰安婦問題では安倍晋三首相が「狭義の強制性」を否定し、米議会下院が日本政府に公式の謝罪を求める決議を可決する事態を招いた。
一連の出来事に共通するのは、戦争に対する国家の責任を意図的に「なかったこと」にしようとする動きだ。
「日本だけが悪いのではない」「自存自衛のための戦争であり、アジアの解放につながった」。そうした歴史観に基づく発言は、一部の保守系政治家の間で繰り返されてきた。
これらの発言に共通するのは、ゆがんだ歴史認識と人権意識の希薄さだ。だが、首相や閣僚までがこのような見解を述べるのは極めて異例である。
戦争の経緯や責任の所在をあいまいにし、歴史の流れを逆転させる試みといわねばならない。


◆戦争を語り継ぎたい
いまここで、「終戦」という言葉の意味を問い直す必要があるかもしれない。軍国日本と枢軸関係にあったドイツとイタリアは「降伏の日」をナチスから解放された日ととらえる。
日本も終戦によって軍国主義と決別し、全く新しい国になったのだ。戦争への反省と平和への願いは、国民的な記憶として刻まれた。それこそが終戦記念日のゆえんである。
奇跡ともいえる経済成長を遂げ、国民の意識は大きく変わった。だからこそ戦争を語り継がなければならない。
一九九五年八月、当時の村山富市首相が戦後五十年の談話で、植民地支配に対し、「心からのお詫(わ)び」を表明したことは記憶に新しい。
だが、それ以降も首相の靖国神社参拝問題などに絡んで中国や韓国などの抗議は繰り返され、「いつまで謝罪すればいいのか」と日本国内の反発は高まった。
バブル経済の崩壊により、アジア一の経済大国の地位が脅かされていることも、中国脅威論に輪を掛けた。
美しい国」を唱え、日本らしさを取り戻そうと訴える安倍首相の誕生は、時代の閉塞(へいそく)感の象徴ともいえよう。
平和憲法を軸とする「戦後レジーム(体制)からの脱却」を目指す安倍政権は、改憲を視野に国民投票法を成立させた。改正教育基本法には愛国心を育てることが盛られた。
戦争責任に対するあいまいさと同様、「戦後」とは何なのか、戦後的価値観のどこが問題なのかという説明は首相の口から発せられないままだ。
しかし、国民が「戦後からの脱却」にお墨付きを与えていないことは、先の参院選の結果からも明らかだ。


◆重み増す日本の存在
戦前の最大の反省は言論や思考の多様性が失われ、戦争遂行一色になってしまったことである。
今の日本は、価値観が揺らぎ、混迷が深まっているようにみえる。だが、希望がわき上がるのはそのような時だとはいえないか。
六十二年前の八月十五日、敗戦に打ちひしがれながらも、多くの国民は頭上の青空に未来を託したに違いない。
日米安保という傘はあったにせよ、平和のうちに経済成長を遂げるという、世界に類を見ないモデルを日本はつくり上げた。このように長い年月、戦争をせずに済んだことは誇っていい。
半面、経済至上主義がモラルの崩壊や、弱者に冷たい競争社会を生んだことも認めるべきだろう。
戦争で最も過酷な犠牲を強いられるのは、弱者である庶民である。平和があってこその繁栄だ。あらためてその意味をかみしめたい。
世界は内乱と戦争が絶えない。不戦と平和を国是とする日本の存在は、ますます重みを増している。平和の尊さを訴え続けることが、戦後六十二年目の夏を迎える私たちの責務である。



社説:「戦後」評価を誤ってはならぬ 62回目の「終戦の日」(西日本新聞 2007年8月15日(水))

戦後62回目の「終戦の日」がめぐってきた。先の大戦の日本人犠牲者は310万人。途方もない代償であった。私たちは今日、内外の犠牲者の霊を慰め、不戦の誓いを新たにしたい。
不幸にも、世界では争いごとが絶えない。わが国は戦後、こうした紛争に武力をもってかかわることはせず、非軍事的関与にとどめてきた。
戦争を憎み、忌避する国民の心が、武力を伴う対外活動を許さず、戦争放棄と戦力不保持を定めた憲法の改正を慎重にさせたからと言える。
その間、国内的には国土復興と経済成長を達成した。戦後はおおむね順調に歩んできたというのが大方の国民の受け止めだろう。
ところが、そうした戦後に対する評価が、この1年、大きく揺さぶられ、私たちを不安な気持ちにさせた。


「独立回復」目指す政治
「戦後レジー厶(体制)からの脱却」。昨年9月、政権を任された安倍晋三首相のキャッチフレーズである。
言うまでもなく、戦後体制は自民党長期政権の所産である。その継承者であるはずの安倍首相が異を唱えた。
首相は著書「美しい国へ」で記す。自民党結党の目的の1つは「本当の意味での独立を取り戻すこと」であったのに、これが後回しにされ、経済優先の政治が進められた。その結果、家族の絆(きずな)、故郷への愛着、国に対する想(おも)いが軽視されるようになった‐と。
そして、安倍首相は「独立の回復」を象徴するものとして、憲法改正を最重要課題に位置付ける。
首相は就任後、「志ある国民を育て、品格ある国家をつくること」こそ教育の目的とし、教育の憲法とされてきた教育基本法を改正した。
内閣府の外局だった防衛庁防衛省に「格上げ」し、自衛隊の任務に周辺事態での活動や国際平和活動を加えた。通常国会では、憲法改正の手続き法である国民投票法を制定した。
さらに、歴代政府が憲法上できないと解釈してきた集団的自衛権の行使について、憲法解釈を変更すべく、有識者懇談会に検討を委ねている。
同盟国の一方が攻撃を受ければ、他方も武力支援する集団的自衛権。その行使は、日米同盟を強固にしていくうえで欠かせないという判断である。
首相は「独立回復」のための戦後の見直しを着実に進めてきたと言える。
そんな安倍首相に、祖父・岸信介元首相のDNAを指摘する向きがある。
戦時体制の閣僚であり、戦犯容疑者でもあった岸元首相。戦後は「押しつけ憲法」を不当として、自主憲法制定を主張。とりわけ、戦力保持を禁ずる九条改正の必要性を訴え続けた。
安倍首相は祖父への敬慕の念を隠さない。思想的類似性も認める。九条改正を含む改憲は、首相の新人議員のときからの政治目標であった。


参院選での厳しい審判
安倍政治に顕著な「祖父的なもの」への傾倒。そこに戦争体験なきリーダーの「危うさ」を見たのは、私たちだけではなかった。
6月末、宮沢喜一元首相が世を去った。戦後の自民党政権の中枢を歩み続け、「軽武装憲法擁護、経済成長」を政治理念に戦後の制度づくりに関与してきた人物である。
宮沢元首相は一昨年刊行した回顧録で、戦後の「ターニングポイント」の1つに60年安保騒動を挙げている。
「あの時に起こった国民的エネルギーは、おそらく岸さんという戦前派を代表した人の戦前回帰的な権力主義の政治に対する反発ではなかったか」
宮沢元首相は、岸退陣をもって戦前回帰が終わり「新しいデモクラシー」が生まれたとも指摘。このときの戦前回帰政治との決別が、戦後の平和と繁栄につながったと確信する。
安倍首相の登場と宮沢元首相の死。一見、戦後評価の反転を象徴するような出来事とも思える。
しかし、実際は違う展開となった。
先月の参院選での与党大敗である。安倍首相にとっては、思いがけない民意の審判であったろう。
与党の敗因には無論、年金問題や閣僚の不祥事などもあったが、「戦後レジームからの脱却」路線も俎上(そじょう)に載った。民意の共感があれば、また違った結果となったはずである。
私たちは、戦後体制に手を加え、改憲を目指す安倍首相に、しばしば再考を求めてきた。民意のなかにも、同じ懸念があったのだと思う。
戦争の反省からスタートした戦後。その戦後に問題がなかったとは言えない。しかし、少なくとも私たちは自由と民主主義を享受し、国内的安定と国際的信頼を得た。
そこには憲法の役割もあった。世論調査では、改憲論が増えつつあるなかで、九条については今も、国民の多くが改正の必要性を認めていない。
安倍首相が、戦後体制を全否定しようとしたわけでは無論ない。ただ、戦後をめぐる認識で、国民とずれがあったのは否めない。
参院選後、首相の口から「戦後レジー厶」の言葉は消えた。安倍政治に修正が迫られている。
この夏、あの戦争と戦後をもう一度振り返ってみる必要があるようだ。私たちも腰を据えて考えてみたい。



社説:終戦の日 「戦後」の意味を問い直そう(信濃毎日新聞 2007年8月15日(水))

終戦の日」が今年もめぐってきた。
「戦後」とは何なのか−。62回目の今年はこの問いがこれまでにまして、切実な形で私たちに突き付けられている。
その理由は、安倍晋三首相の言動にある。首相は「憲法を頂点とする戦後レジーム(体制)からの脱却」を掲げて、参院選に臨んだ。そして大敗した。
それなのに「基本路線は多くの国民の理解をいただいている」と言い張る。メールマガジンでは「私が進めつつある改革の方向性が、今回の結果によって否定されたとは思えないのです」とも言う。
戦後レジームからの脱却」路線をこれからも突き進む−。そんな意思表示とも読み取れる。
こういうとき大事になるのが、国民一人一人の姿勢である。おびただしい犠牲と引き換えに、われわれは何を得たか、そして守ってきたのか。「戦後」の意味をあらためて問い直しつつ、政治に向き合いたい。


<62年を重ねて>
あの戦争が終わって62年が過ぎた。「戦後レジーム」は62年間、続いてきたことになる。
日本の近現代史の中で、この62年間は国民にとり、全体としては「いい時代」だった。そのことをまず、確認したい。
戦前、戦中と違って、政府の方針と反対のことを言っても構わない。信教の自由は保障されている。憲法の三原則、平和主義、国民主権基本的人権の尊重は、実態面では不十分さを残しながら、考え方としては社会に定着している。
自衛隊は海外で一度も武力行使していない。したがって、戦後日本に戦死者は一人もいない。若者が徴兵を心配することもない。
こうした社会のレールを敷いたのは憲法だ。歴代の政権は大筋では憲法の定めるところに沿って、政治をかじ取りしてきた。「吉田ドクトリン」とも言われる軽武装、経済重視の路線が代表的だ。
この路線を修正しようとする政治家もいた。安倍首相の祖父、故岸信介氏はその一人である。岸氏が目指したのは、九条だけでなく、天皇を元首にし、労働者の団結権や言論・出版の自由も見直す復古色の濃い改憲だった。
その岸氏について首相は「国の将来をどうすべきか、そればかり考えていた真摯(しんし)な政治家」と著書で書いている。


<「脱却」するものなのか>
安倍首相がいうように、戦後体制は「脱却」すべきものなのか。日本人が戦後、憲法を踏まえて営々重ねてきた取り組みは、否定されるべきなのか。
そうではあるまい。一人の戦死者も出さず、豊かさを享受している日本人の今のこの暮らしが、そのことを証明している。
「武力による威嚇または武力の行使」を慎め。国連憲章は加盟国に対しそう命じている。世界人権宣言(1948年)は「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」とうたう。
戦後日本の歩みは、戦争をなくし、人間一人一人の権利が尊重される世の中をつくろうという世界の人々の願いを踏まえている。日本の憲法は決して、世界の常識から外れた“変わり者”の憲法ではない。憲法が制定され、日本社会に定着していったプロセスをたどれば、「押しつけ憲法」との見方は一面的すぎることも分かる。
日本の戦後レジームは、第2次大戦後の世界システムと一体のものである。日本は戦後世界システムから、最も多くの恩恵を受け取ってきた国の一つだ。
そうした中で、日本の首相が「戦後レジームからの脱却」を唱える。世界の人々から見れば、何とも理解しにくいことだろう。
首相は、憲法の三原則は順守することを繰り返し表明してはいる。だが、憲法順守と戦後レジームへの懐疑的まなざしがどう両立し得るのか、分かりにくい。
首相が唱える脱却論は、ひとつ間違えば、戦前回帰の危険な動きと受け取られかねない。


<やり残したこと>
日本を破滅に導いた戦前、戦中の超国家主義体制を批判し続けた政治学丸山真男は、1964年、著書「現代政治の思想と行動」でこう述べている。
「私自身の選択についていうならば、大日本帝国の『実在』よりも戦後民主主義の『虚妄』の方に賭ける」。戦後民主主義を「占領民主主義」などと攻撃し「虚妄」とおとしめる、一部論者への反論である。
「戦後」を否定しようとする政治家は安倍首相のほかにもいる。〈この憲法ある限り 無条件降伏続くなり〉とうたう「憲法改正の歌」を作った中曽根康弘元首相も、その一人に数えていいだろう。
戦争責任の明確化をはじめ、私たちは多くをやり残してきたと考えざるを得ない。日本社会はまだ、あの戦争を清算し切れていない。
「戦後」とは何か、あの戦争は何だったのか−。この問題に引き続き、真剣に向き合い続けたい。
それは、戦後民主主義を時代に合わせて強化し、新たな力を吹き込む作業になるはずだ。