ノリックが?

「伝説のライダー」阿部典史さんが事故死 川崎(朝日新聞 2007年10月8日(月))

7日午後6時20分ごろ、川崎市川崎区大島1丁目の市道で、川崎市幸区レーシングライダー阿部典史(のりふみ)さん(32)のオートバイと、横浜市鶴見区東寺尾1丁目、運送会社員千野智彦さん(51)のトラックが衝突した。阿部さんは午後8時50分過ぎに死亡した。阿部さんは世界GPで過去3度優勝して「伝説のライダー」と呼ばれ、国内のオートバイファンの間で人気があった。
川崎署の調べでは、現場は片側2車線の直線道路。千野さんがUターンしようとした際に、右後方から近づいた阿部さんのオートバイ(500cc)と衝突した。千野さんは「道を間違えたので戻ろうとした」と話しているという。現場はUターン禁止だった。

阿部典史さん〉本人の公式ホームページなどによると、阿部さんは東京都出身で、オートレーサーの父・光雄氏の影響で5歳からバイクに乗り始め、中学卒業後の91年、15歳で渡米して技術を磨いた。帰国後の93年に全日本選手権500ccクラスを制覇した。その後、世界選手権に参戦。96年の世界選手権日本グランプリ(GP)で、オートバイレースの最高峰500ccで日本人としては14年ぶり3人目の優勝を飾るなど、計3度のGP優勝を果たし、「ノリック」の愛称で親しまれていた。ファッションリーダーとしても人気があった。



オートバイレーサーの阿部さんが交通事故死(産経新聞 2007年10月7日(日))

7日午後6時20分ごろ、川崎市川崎区大島の市道で、同市幸区オートバイレーサー阿部典史さん(32)のバイクが、横浜市鶴見区東寺尾の会社員、千野智彦さん(51)の4トントラックに衝突した。阿部さんは搬送先の病院で死亡。神奈川県警川崎署が詳しい事故原因を調べている。
調べでは、千野さんのトラックがUターン中に、阿部さんのバイクが突っ込んだらしい。現場はUターン禁止場所だった。阿部さんは、ロードレース世界選手権で優勝するなどの実績を持つ、日本を代表するレーサーの1人。



人気オートバイレーサー事故で死亡/川崎(神奈川新聞 2007年10月7日(日))

七日午後六時二十分ごろ、川崎市川崎区大島一丁目の市道で、人気二輪ロードレーサー阿部典史さん(32)のオートバイと、横浜市鶴見区東寺尾一丁目の会社員千野智彦さん(51)のトラックが衝突した。阿部さんは、病院に運ばれたが約二時間半後に死亡した。
ヤマハのホームページなどによると、阿部さんは「ノリック」の愛称で知られるオートバイのプロレーサーで、一九九三年に全日本ロードレース選手権500㏄クラスで史上最年少チャンピオンになった。翌年からオートバイレースの世界最高峰「世界ロードレース選手権」(MotoGP)に参戦し、世界のトップライダーとして活躍。九六年の日本GPなど計三回の優勝を果たしている。
川崎署の調べでは、現場は片側二車線で歩道寄りの車線を走行していた千野さんがUターンした際、センターライン寄りを後方から直進してきた阿部さんと衝突したという。現場はUターン禁止だった。



阿部典史さんが交通事故死(スポーツニッポン 2007年10月7日(日))

神奈川県警によると、7日午後6時20分ごろ、川崎市川崎区大島一丁目の市道で、川崎市幸区オートバイレーサー阿部典史さん(32)のオートバイがトラックと衝突。阿部さんは病院に搬送されたが死亡した。
阿部さんは世界選手権シリーズで3勝を挙げた有名レーサーだった。
川崎署によると、トラックがUターンしようとしたところ、後方からきた阿部さんのオートバイに衝突した。
現場は片側2車線でUターンが禁止されている。同署がトラックの運転手(51)から詳しい事情を聴いている。



追突事故:プロ二輪レーサーの阿部典史さん死亡 川崎(毎日新聞 2007年10月8日(月))

7日午後6時20分ごろ、川崎市川崎区大島1の市道で、Uターンしていた横浜市鶴見区東寺尾1、運送会社社員、千野智彦さん(51)運転のトラックに、川崎市幸区戸手4、プロ二輪レーサー、阿部典史さん(32)のオートバイが追突。阿部さんは約2時間半後に搬送先の病院で死亡した。阿部さんはヤマハ発動機に所属し、ロードレース世界選手権などに出場している有力選手。
神奈川県警川崎署によると、現場は片側2車線で、千野さんは左車線、阿部さんは後方の右の車線を走っていた。現場はUターン禁止。千野さんは「道を間違えた」と話しているという。
ヤマハのホームページによると、阿部さんは93年のロードレース全日本選手権GP500のチャンピオン。94年から04年までロードレース世界選手権に出場し、ランキングは最高5位。【梅田麻衣子】



ノリック、事故死(motogp.com 2007年10月7日(日))

ノリックの愛称で世界中から親しまれた阿部典史は7日、川崎市市道でトラックと追突。病院に搬送されたが、死亡した。
18時20分ごろ、川崎市川崎区大島1丁目の市道でオートバイを運転中、片側2斜線の左側からUターンしてきた4トントラックと衝突。全身を強く打ち、運ばれた病院で20時52分に死亡した。現場はUターン禁止だった。
ノリックは、1994年日本GPに初挑戦すると、ケビン・シュワンツミック・ドゥーハンらと優勝争いを繰り広げ、残り3ラップで転倒を喫したが、世界に強烈なインパクトを残した。1996年の日本GPでは、1982年の片山敬済以来となる日本人ライダーによる最高峰クラスでの優勝を飾り、フレディー・スペンサーの20歳196日に次ぐ史上2番目の記録を樹立。1999年リオGP、2000年日本GPで優勝。今年は全日本選手権に13年ぶりに復帰していた。




ノリックが交通事故で帰らぬ人に(MotoGP 速報ニュースサイト インテリマーク 2007年10月8日(月))

世界から愛されたMotoGPライダー、阿部典史選手が7日に亡くなった。
10月7日の午後6時20分ごろ、今年から全日本選手権に復帰していた世界グランプリライダー、ノリックこと阿部典史選手が、神奈川県川崎市市道で 500ccのスクーターを運転する途中、走行していた片側2車線の道路うちの前方左車線を走行していた輸送会社の4トントラックが違法にUターンをしてきたところに後方右車線側から衝突、約2時間半後に搬送先の病院で帰らぬ人となってしまった。享年32歳だった。
1993年に当時の全日本最高峰クラスであった2ストローク500ccカテゴリにおいて、参戦1年目にして年間タイトルを獲得した阿部選手は、1994年のホンダからのWGPスポット参戦において、ケビン・シュワンツミック・ドゥーハンを抑える過激な走りで世界中の注目を集め、ノリックの才能に感銘を受けた元世界チャンピオンのウェイン・レイニーの呼びかけにより、その後はヤマハに移籍してWGPライダーとしての活動を開始。最高峰500ccクラスにおいて2000年の鈴鹿での優勝を含む3回の勝利を記録。どんな時にでも、誰にでも屈託のない笑顔で親しみを持って接する姿で知られる阿部選手は、明るく優しく、決して飾ることのない世界のトップライダーとして、世界中のファンからノリックの名で愛され続けていた。
500ccクラスが廃止された2002年以降は4ストローク化されたMotoGP最高峰クラスで活躍し、2005年からの2年間はSBKに参戦。2007 年の今年からは全日本に復帰してJSB1000クラスで年間シーズンを戦っており、久しぶりの日本でのレース復帰1年目の今年は鈴鹿8耐にも出場。10月 21日には鈴鹿サーキットにおいて全日本の最終戦に出場する予定だった。
MotoGP最高峰クラスで5連覇を達成している現役MotoGPライダーのバレンティーノ・ロッシが彼の大ファンである事も有名であり、ロッシは小排気量時代から、ノリックの典史(のりふみ)の「ふみ」とロッシの名前を合わせ、「ろっしふみがんばって」という日本語の文字を専用のロゴシールにしており、彼の戦う全てのマシンに今でも貼っている。
ノリックは現在でも世界に多くのファンを持ち、今期は全日本を戦う傍らでMotoGPのテレビ解説者を務めるなど、日本では誰よりもファンから愛されたライダーの1人だ。今回の訃報を、全世界のメディアが悲しみと共に報じている。



ノリック事故死 2輪世界GP優勝の名ライダー(中日スポーツ 2007年10月8日(月))

ノリック”の愛称で親しまれてきた日本一の人気ライダー、阿部典史さん(32)が7日、川崎市内で起きた交通事故で死亡した。ロードレース世界選手権(WGP)で活躍し、日本GPを含む3勝を挙げて世界のレースシーンにその名をとどろかせた。今年から全日本ロードレースに復帰し、7月の鈴鹿8時間耐久ロードレースにも初参戦して話題をまいていた。
関係者によれば、この日、ノリック横浜市の友人を訪ねたあと、ほかに移動するため川崎市を走っていて事故に遭った。ノリックは日本ではレース以外で2輪車に乗ることはなかったが、今年大型スクーターを知人からもらってとても喜んでおり、今回もそのスクーターに乗っていたようだ。
ともあれ、ノリックは全国のライダーの太陽のような存在だった。父は川崎オートのスター選手の光雄氏(58)。1975年9月7日、東京都に生まれたノリックは父の薫陶を受けて5歳からポケバイに乗り始め、ミニバイクを経験したあと、15歳で渡米。ダートトラック、モトクロスなどを経験し、16歳になるのを待って国内のロードレースに出場した。93年に史上最年少の17歳で全日本最高峰クラスの500ccクラスにデビューし、同年18歳で史上最年少のチャンピオンに輝いた。翌94年には世界への挑戦を開始。WGP500ccクラスにデビューし、95年からフル参戦を開始。96年の日本GP(鈴鹿)で快走を演じ、日本人として14年ぶりに同クラスの優勝を果たした。
06年にはスーパーバイク世界選手権WSB)に出場したあと、今年は全日本ロードレースに復帰、JSB1000クラスにフル参戦して最高位3位と健闘していた。
世界で戦ってきたノウハウを生かし、低迷気味の全日本を活性化したいと燃えていたノリック。事故直後には意識があったという。志半ばの32歳で事故死するとは、本人も想像できなかったに違いない。



ノリックが交通事故死、トラックと衝突(日刊スポーツ 2007年10月8日(月))

7日午後6時20分ごろ、神奈川県川崎市市道で、2輪ロードレースの人気ライダー、阿部典史(のりふみ)さんが乗ったバイクがトラックと衝突、阿部さんは病院に運ばれたが間もなく死亡した。32歳だった。93年に全日本ロードレースにデビューすると、いきなり史上最年少の18歳で総合優勝を達成。世界選手権(WGP)でも通算3勝を挙げるなど「ノリック」の愛称でファンに愛され、日本に2輪ブームを再来させた立役者だった。
世界を舞台に活躍したライダーが非業の死を遂げた。川崎署によると、阿部さんは同市川崎区大島1丁目の片側2車線の市道の右車線をスクーター型の500CCバイクで北上中、前方の左車線からUターンしようとした4トントラックを避けようとしたが、衝突して対向車線に放り出された。当初は意識があったものの、午後8時52分、搬送された市内の病院で死亡が確認された。阿部さんは胸を強打し、ろっ骨骨折や臓器の損傷などもみられたもようだ。
現場はUターン禁止だった。トラックを運転していた51歳の男性は、道を間違えて引き返そうとしていたといい、同署が自動車運転過失致死の疑いで事情を聴いている。
阿部さんはオートレース選手の父光雄さんの影響で、5歳でバイクレースを始めた。93年に全日本ロードレースにデビューすると、いきなり史上最年少の18歳で総合優勝するなど、若くして才能を開花させた。95年から当時、WGPの最高峰クラスだった500CCにフル参戦。翌96年の日本GPで初優勝し、日本人としては14年ぶりの優勝を遂げた。後輪を滑らせながら必死に逃げる姿は、伝説のレースとして多くの2輪ファンに語り継がれている。
レース中になびかせる長髪がトレードマークで、気さくな性格から「ノリック」の愛称で親しまれた。WGPでは通算3勝、表彰台17回の実績を残し、岡田忠之伊藤真一らとともに日本に2輪ブームの再来をもたらした。マイケル・ドゥーハンら世界を代表するライダーと対等に渡り合いながら突然、転倒することもあり、「速くて危険なライダー」とも言われた。
スーパーバイク世界選手権などを転戦後、今季から全日本に復帰。5月のレースでは3位に入り、復活をアピールした矢先の事故だった。



プロ二輪レーサー阿部典史さん事故死 川崎で4トン車と衝突(中日新聞 2007年10月8日(月))

七日午後六時二十分ごろ、川崎市川崎区大島の市道で、“ノリック”の愛称で人気があるプロの二輪レーサー阿部典史(のりふみ)さん(32)=同市幸区戸手四=の大型スクーター(五〇〇cc)が走行中、Uターンしようとしていた横浜市鶴見区東寺尾一、会社員千野智彦さん(51)の四トントラックと衝突した。阿部さんは病院に運ばれたが胸などを強く打っており、約二時間半後に死亡した。
神奈川県警川崎署の調べでは、千野さんのトラックがUターンしたため、後方を走っていた阿部さんの大型スクーターがトラック右側面の前方部に衝突したとみられる。同署で詳しい原因を調べているが、事故現場は片側二車線の直線道路でUターンは禁止だった。
同署は自動車運転過失致死と道交法違反の疑いで、千野さんから任意で事情を聴いている。千野さんは清涼飲料水を配送中で、道を間違えてUターンしたらしい。
阿部さんは一九九一年、十五歳で渡米し、モトクロスレースなどに出場。帰国後、本格的にロードレースに参戦し、十八歳だった九三年には全日本ロードレース選手権の五〇〇ccクラスで史上最年少チャンピオンとなった。九四年から二輪レースの最高峰である世界ロードレース選手権に参戦。九六年に鈴鹿サーキットでの日本グランプリで初優勝を飾ったのを含めて同選手権で三度優勝している。
事故発生当時、阿部さんには意識があり、救急隊員に名前などの受け答えをしていたという。



オートバイレーサー阿部典史さん事故死…公道でトラックと衝突(サンケイスポーツ 2007年10月8日(月))

オートバイのロードレース世界選手権で3回優勝している有名レーサー、阿部典史(あべ・のりふみ)さん=川崎市幸区、写真上=が7日夜、川崎市内でオートバイを運転中にトラックと衝突、病院に搬送されたが、死亡した。32歳だった。
川崎署によると、7日午後6時20分ごろ、川崎市川崎区大島の市道で阿部さん運転のオートバイと男性会社員(51)運転の4トントラックが衝突した。トラックがUターン中に、右後方から阿部さんのオートバイが突っ込んだとみられる。阿部さんは午後8時50分過ぎに病院で死亡した。
現場は片側2車線の直線道路で、Uターン禁止場所だった。同署は自動車運転過失致死容疑で男性会社員から任意で事情を聴いている。
阿部さんは「ノリック」の愛称で人気のレーサー。1993(平成5)年に全日本ロードレース選手権500ccクラスで史上最年少チャンピオンに輝き、翌年から世界選手権に参戦。96年の日本グランプリで初優勝、00年の日本GPも優勝するなど世界選手権で計3回優勝した。表彰台には計17回立つなど日本の第一人者だった。
今年5月からは13年ぶりに国内のレースに復帰。7月の鈴鹿8時間耐久ロードレース(8耐)にも初出場したが、9位だった。9月の全日本ロードレース第6戦(岡山)に出場したのが最後の公式レースだった。



長髪なびかせた「ノリック」=阿部典史選手、非業の最期−オートバイ(時事ドットコム 2007年10月8日(月))

オートバイレースの人気ライダー、阿部典史さんが7日に交通事故で亡くなった。公道をオートバイで直進中、禁止区域をUターンしたトラックに衝突されるという非業の最期。「ノリック」の愛称で世界中からファンを得た数少ない日本人の一人だった。
全日本ロードレース選手権の500ccクラスを史上最年少の18歳で制覇。世界グランプリ(GP)最高峰の500ccクラスに参戦すると、いきなりケビン・シュワンツ(米国)、マイケル・ドゥーハン(オーストラリア)らトップライダーと激しいバトルを演じた。
ヘルメットの後ろから伸びる長い髪をなびかせて、深い前傾姿勢をとった。持ち前の闘志と「天才的」と称された技術で同クラス3度の優勝。その後、活躍の場はスーパーバイク世界選手権を経て今季から全日本に復帰。大舞台から遠ざかる形となっても、人懐こい笑みは変わらなかった。
10年ほど前から「ノリックと親子のバイク教室」を開催。自身が大好きなオートバイとモータースポーツの魅力を、次代の担い手たちに伝えた。
2003年に、世界選手権シリーズ250ccクラスの元総合王者で当時26歳の加藤大治郎選手が、レース中の事故が原因で亡くなった。そのライバルで親友でもあったノリックは、32歳になったばかり。世界に誇る日本のエースが、またも早々と駆け抜けてしまった。