予防接種について再び考える

どうして予防接種についてどうにも拭えないモヤモヤが残るのだろうか。
多分、「社会的意義」だのを掲げて「どうしてあなたは予防接種を受けないのか(あるいは受けさせないのか)」と言い募る医師が、結局「副反応・副作用(による障碍とか死亡とか)の確率は低い」ということしか言わないからだと、端的に言えばこの点に尽きる。万に一つ、億に一つでも確率である限り可能性はゼロではない。つまり、そうして気色ばんで説得した相手が例えばしぶしぶ予防接種を受け、「たまたま」障碍が残ったり死亡したりした時にいったい彼は何を用意しているのか。そこのところにそこはかとない、払い取れない不信感が生まれるのだと思う。
確かに多くの人はそんなことを考えてもいないしババを引いたりもしないだろう。直面する医師もさぞかし少ないことだろう。しかし、毎年何某かの数で障碍、死亡の例が記録に残る。そこには必ず当事者がいるのだ。彼ら当事者は、どのようにしてそれを乗り越えた、または乗り越えられなかった、のか。お互いに、それをもっと知っておく必要があるんじゃないだろうか。そして、必要な手だてをもっと実効あるカタチで用意しておく必要があるのではないか。
受診する側からすると、医師と対面しているのは個人だ。さて、医師の側はどうなのか。社会の一員としての個人としかみていないのか。だから「もしあなたがババを引いてしまっても、それは統計の中の一つの数字」として割り切れるのだろうか。私は、そんなことは決してないだろうと信じたい。だったら、やはりもっと何か有意義な歩み寄り方があるハズだ、と思うのだ。
そして、私はどうすればいい? 考えよう、考えよう、自分の頭と言葉でもっとよく考えよう。