グレッグ・イーガン「ディアスポラ」読了

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

図書館から。
肉体人と機会化人と精神化人の世界。量子物理と数学の専門用語が何の解説もなくただただ溢れかえる情景描写は、わかろうとわかるまいとやり過ごすしかない。悔し紛れに言うわけではないが、これを完全に理解しながら読み切れる人はそう多くはないだろう。ただ、それで「わからない人」を排除してしまわずにあるところは大したものなのかもしれない。何となぁくこんな感じ、と自分の中でイメージさえできれば(あるいはできなくてさえ)物語をなぞっていくことはできる。その意味ではこの実世界を超越した記述の氾濫は不要とも言えるかもしれないが、「ディアスポラ」たる所以を構築する基盤となっていることは確かである。しかし、根本にあるのは結局、イーガンの短編のテーマと同じアイデンティティとは何か、ということに尽きるように思う。
巻末に「用語説明」があったり著者のサイトでいろんな解説(英語にて)もしているようで、ページ数もたっぷりあるし、一筋縄で読み切れるものじゃなかった。ワームホールの話はよくわからなかったけど(それに、話のうえでも失敗に終わっちゃったし)、クロック落とし?による見掛けの時間の高速化とかクローンばらまきとかは、ありそうな面白いアイデアでした。
短編集「祈りの海」と同じ訳者だったこともあって日本語には相当不満がある。読解力にも問題があるかもしれないが、難しい内容だからこそ、きちんと咀嚼して訳してほしかった。その点、(どちらがよいのかどうかはまた別にしなくてはならないかもしれないけれど)伊藤典夫やら浅倉久志やらがやはり偉大に思える。
訳者あとがきで「果てしなき流れの果てに」とか「ゴルディアスの結び目」を引き合いに出しいていて、確かに似ているテーマなのかもしれないけれど、作者の思いの置き場所やその深さはまったく違うだろうと思う。その程度の思い入れで訳しちゃった(そんなことはなかろう、とは思いたいが)のであれば相当に残念だ。ハードSFとして有り得べき姿と言うのであればなおさらだ。
オーランドもパオロもイノシロウも何もなく、ヤチマはあるのだ、ということだった。他のバージョンのヤチマはどうだったんだろうね。