「表現の自由」危機

まだ一般に公開されてもいない映画が、首都圏で上映できない事態となった。上映する予定だった映画館が、客への被害を恐れて上映を「自粛する」というのが理由なのだが、激しい抗議行動があったような報道もなく、それだけが本質的な理由であるとはにわかに信じがたい。先般プリンスホテルでも同様の理由により日教組の集会が拒否されたが、この際も裁判所の命令に反してまで強硬な拒否を貫くという異常さだったのを思い返してみると、どうもこの国では、こうした問題についてずいぶん過敏な反応をしなくてはならない状態になってしまったようだ。ウラで何か圧力があったのではないかとも勘ぐりたくなる。
民主主義とは、どんな意見でも態度でも自由に表明することができることをもって初めて担保されるものだと信じる。日本国憲法においてもこのことについて、国民の不断の努力によって維持確保するものだと宣言されているはずだ。このままでは、じわじわとどころではなく、本当に何かを失うことになりかねない。大いに危惧を表明しておく。
そもそもの発端は一国会議員が件の映画に文化庁がカネを出したのがどうも疑わしい、とケチを付けたのが始まりだ。有志を集めて上映会を開き、「靖国神社が、侵略戦争に国民を駆り立てる装置だったというイデオロギー的メッセージを感じた」という感想を述べた。これが圧力であったり同調する勢力を鼓舞する発端となったりはしなかったのか。文化庁文科省を始め、大臣及び関連する国会議員たちは、口で「上映自粛は残念」などとほざくばかりでなく、キチンと上映できるよう尽力するのがスジだ。
id:t-hirosakaさんのエントリ「靖国 YASUKUNI」に大いに同意・共感する。


新聞各社の社説。
社説:「靖国」中止 断じて看過してはならない(毎日新聞 2008年4月2日(水))

(前略)
黙過できない。言論、表現の自由が揺らぐ。そういう事態と受け止めなければならない。
(中略)
全国会議員が対象という異例な試写会は、どういう思慮で行われたのだろう。映画の内容をどう評価し、どう批判するのも自由だ。しかし、国会議員が公にそろって見るなど、それ自体が無形の圧力になることは容易に想像がつくはずだ。それが狙いだったのかと勘繰りたくもなるが、権力を持つ公的機関の人々はその言動が、意図するとしないとにかかわらず、圧力となることを肝に銘じ、慎重さを忘れてはならない。
逆に、今回のように「後難」を恐れて発表の場を封じてしまうような場合、言論の府の議員たちこそが信条や立場を超えて横やりを排撃し、むしろ上映促進を図って当然ではないか。
事態を放置し、沈黙したまま過ごしてはならない。将来「あの時以来」と悔悟の言葉で想起される春になってはならない。



社説:「靖国」上映中止―表現の自由が危うい(朝日新聞 2008年4月2日(水))

これは言論や表現の自由にとって極めて深刻な事態である。
(中略)
客や周辺への迷惑を理由に、映画の上映や集会の開催を断るようになれば、言論や表現の自由は狭まり、縮む。結果として、理不尽な妨害や嫌がらせに屈してしまうことになる。
自由にものが言えない。自由な表現活動ができない。それがどれほど息苦しく不健全な社会かは、ほんの60年余り前まで嫌と言うほど経験している。
言論や表現の自由は、民主主義社会を支える基盤である。国民だれもが多様な意見や主張を自由に知ることができ、議論できることで、よりよい社会にするための力が生まれる。
しかし、そうした自由は黙っていても手にできるほど甘くはない。いつの時代にも暴力で自由を侵そうとする勢力がいる。そんな圧迫は一つ一つはねのけていかなければならない。
(中略)
稲田氏は「私たちの行動が表現の自由に対する制限でないことを明らかにするためにも、上映を中止していただきたくない」との談話を出した。それが本気ならば、上映を広く呼びかけて支えるなど具体的な行動を起こしたらどうか。
政府や各政党も国会の議論などを通じて、今回の事態にきちんと向き合ってほしい。私たちの社会の根幹にかかわる問題である。
(後略)



社説:「靖国」上映中止 「表現の自由」を守らねば(読売新聞 2008年4月2日(水))

憲法が保障する「表現の自由」及び「言論の自由」は、民主主義社会の根幹をなすものだ。どのような政治的なメッセージが含まれているにせよ、左右を問わず最大限に尊重されなければならない。
(中略)
その映画に、公的な助成金が出ていることについて、自民党稲田朋美衆院議員ら一部の国会議員が疑問を提示している。
しかし、公的助成が妥当か否かの問題と、映画の上映とは、全く別問題である。
稲田議員も、「私たちの行動が表現の自由に対する制限でないことを明らかにするためにも、上映を中止していただきたくない」としている。
(中略)
こうした言論や表現の自由への封殺を繰り返してはならない。
(後略)



【主張】「靖国」上映中止 論議あるからこそ見たい(産経新聞 2008年4月2日(水))

(前略)
映画を見て、評価する人もいれば、批判する人もいるだろう。上映中止により、その機会が失われたことになる。
(中略)
映画館側にも事情があろうが、抗議電話くらいで上映を中止するというのは、あまりにも情けないではないか。
上映中止をめぐり、配給・宣伝協力会社は「日本社会における言論の自由表現の自由への危機を感じる」とのコメントを発表し、映画演劇労働組合連合会も「表現の自由が踏みにじられた」などとする抗議声明を出した。憲法の理念をあえて持ち出すほどの問題だろうか。
映画界には、自民党の議連が試写会を要求したことを問題視する声もある。日本映画監督協会崔洋一理事長)は「(議連の試写会要求は)上映活動を萎縮(いしゅく)させるとともに、表現者たる映画監督の自由な創作活動を精神的に圧迫している」との声明を発表した。
しかし、「伝統と創造の会」が試写会を要求したのは、あくまで助成金の適否を検討するためで、税金の使い道を監視しなければならない国会議員として当然の行為である。同協会の批判は的外れといえる。
(中略)
この映画の最後の部分で“旧日本軍の蛮行”として中国側が反日宣伝に使っている信憑(しんぴょう)性に乏しい写真などが使われ、政治的中立性が疑われるという。
(後略)



【社説】『靖国』上映中止 自主規制の過ぎる怖さ(東京新聞 2008年4月2日(水))

靖国神社をテーマにしたドキュメンタリー映画の一般公開が中止になった。表現の自由が過度な「自粛」で踏みにじられた格好だ。大事なことを無難で済ます、時代の空気を見過ごしては危うい。
(中略)
自由の首を絞めているのは誰なのか。メディア側に問題はないか。映画の関係者に過剰反応はないか。議員もむろん言論の自由には注意深くあるべきだ。自主規制という無難な道を選ぶ、社会全体が自縄自縛に陥っていないか。そこに危険が露(あら)わに見える。
権力だけが言論を封じるのではない。国民の自覚が足りないと、戦前のセピア色が急に、生々しい原色を帯び始める。



社説:映画「靖国」 上映こそ政治家の責務(北海道新聞 2008年4月2日(水))

表現の自由」は、吹けば飛ぶような軽いものなのか。ここは危機感を持って考えたい。
(中略)
一部の映画館には街宣車が押しかけたという。嫌がらせの電話もあったようだ。
周辺にお構いなしの大音量で身勝手に振る舞う街宣車の行動は、厳しく批判されねばならない。
だが、この状況で公開を中止すれば上映阻止をもくろむ人たちを喜ばせるだけではないか。
映画館側の対応は、憲法が保障する表現の自由を自ら狭める行為であり、きわめて残念だ。ここは踏ん張って、上映姿勢を貫いてほしかった。
映画演劇労組連合会はきのう、すべての映画人に上映努力を求める声明を出した。映画が表現や言論の手段でもあることを考えれば当然だ。
しかしこれは、映画人だけでなく、社会全体でも考えるべき問題だろう。脅しや暴力におびえ自己規制する社会は、健全とはとうてい言えない。
(中略)
製作に政府の公的な助成金が出ていることから、自民党稲田朋美衆院議員が文化庁に問い合わせた。文化庁が奔走し、先月中旬に国会議員向けの試写会が開かれた。
国会議員という特定の人を対象に試写会を催し、その目的が、映画の公開前に「公費助成にふさわしいかをみる」という発想は、検閲につながるものではないか。
助成の是非を論じるにしても、表現の自由を考慮すれば、公開後でいいはずだ。
これが上映中止につながったのだとしたら、試写会に参画した議員も文化庁も責任を自覚すべきだろう。
文化庁は、開催した経緯をきちんと説明する必要がある。
稲田議員らは上映中止を「残念だ」と言っている。ならば上映実現に全力を注いではどうか。
国会議員として、民主主義を守る志を、行動で示してほしい。



社説:「靖国」上映中止 表現の自由が脅かされた(新潟日報 2008年4月2日(水))

恐れていたことが現実となった。靖国神社を題材にしたドキュメンタリー映画靖国 YASUKUNI」の上映中止がそれだ。
(中略)
稲田議員らが求めた試写は「事前検閲」にも等しい。映画は思想の映像化であり、何らかの主張を持つ。「中立的かどうか」を問うこと自体、表現の自由への干渉である。
「中止は残念。私の意図とは違う」。中止を聞いた稲田議員の反応だ。素直に受け止めたいところだが、国会議員の発言の重みを理解していないと言わざるを得ない。議員の一言は周囲に大きな影響を及ぼす。NHKに文句を付ければ制作現場は委縮するのだ。
(中略)
表現の自由は民主主義の根幹をなす原理だ。これがふらついているということは、日本社会が不安定化し、自分の気に入らないものを排除する傾向を強めているからではないか。
「外部への迷惑」を理由に上映を中止した映画館側にも苦言を呈したい。映画文化の守り手として毅(き)然(ぜん)たる態度で上映してほしかった。制作者が心血を注いだ作品が日の目を見ないようでは健全な社会とはいえない。
広く公開されることを期待する。作品の判断はその後の話だ。渡海紀三朗文部科学相は「こういうことに至ったのは残念」と会見で語っている。文化の根元がぐらついているのに、危機意識がまるで感じられない。
無形の圧力が表現活動を委縮させる状況は「いつか来た道」に通じている。



社説:「靖国」上映中止 - 文化と民主主義の危機だ(神奈川新聞 2008年4月2日(水))

(前略)
嫌がらせや何らかの圧力があったのならば、憂慮すべき事態だ。日本はいつから、そのような圧力がまかり通る社会になってしまったのだろうか。表現の自由の危機、民主主義の危機である。
(中略)
今回の事態について、「靖国」の配給・宣伝協力のアルゴ・ピクチャーズ社は「日本社会における言論の自由表現の自由への危機を感じる」とのコメントを発表した。切実な言葉だ。日本社会は自由にモノも言えない社会になろうとしているのではないか。一部政治家の責任は重大だ。
自由な社会を維持するためには、すべての市民の毅然(きぜん)とした態度と努力が欠かせない。会場施設や映画館などには、集会の自由、表現の自由の担い手であることを再認識してもらいたい。都内の映画館は、ぜひ勇気と気概を持って上映の名乗りを上げてほしい。そして、そうした担い手を孤立させないよう、主義主張を超え市民の応援の輪をつくることが必要だ。
映画「靖国」は今年の香港国際映画祭で最優秀ドキュメンタリー賞を受賞した。ところが、舞台である当の日本の首都では見ることができない。「先進民主主義国」として恥ずべき事態である。