大江健三郎「伝える言葉 - 読みなおし続ける - 自分の命生かす共生を」(朝日新聞2004年11月16日(火)朝刊)

大江健三郎「伝える言葉 - 読みなおし続ける - 自分の命生かす共生を」(朝日新聞2004年11月16日(火)朝刊)

光が小さい曲を作り始めた最初から、五線紙のノートをすべて家内が保存してきました。三枚のCDを発行した後、光の関心が、作曲より音楽の理論を理解することの方に向いてきたので(それによってFMやCDを聴く楽しみが確かなものになりました)、もう七年ほど、作曲家・ピアニストの加羽沢美濃さんに教わっています。
その間に家内がキーボードで音にしながらノートを読み、美しいカケラのようなメロディーを、光に今の音楽的な関心で新しい曲に作り上げてもらうことにしました。美濃さんのレッスンに、それを励ましたり、宿題を与えて光に問題点の解決へ向かわせたりすることが加わりました。


もともと聴いた曲を書き取ることが目的でしたから、光が作っていた一分かそこいらの曲にも、「パルティータ」とか「田園」とか、かれとしてのタイトルがつけられています。そのひとつ、「悲壮」にチャイコフスキーの単純な反映があるのは当然ですが、少年だった光の哀しみの表情がきらめくようなところもあるのです。
それをもとに、数週間、光が楽譜に向かってきた作品が(以前は一日で作りあげました)完成し、美濃さんが水をえた魚のようにピアノで弾かれるのを聴いて、私はこの間、音がして部屋を見に行くと倒れて起き上がれないかれが、表情にたたえていたものを思い出しました。二十五年前に芽生え、胸のうちで、本ならば読みなおし続けるようにされてきたものが、広がった知識と深まった経験で、新しく表現されているのでしょう。
光がFMとBSテレビで毎日楽しんでいるクラシック番組に、たいてい同じ部屋で本を読み・仕事をする私は、音楽の教養をつけられたと思います。あわせて、かれが長い間視聴してきたテレビの子供番組にも、どこかで影響されてきたのじゃないかと思います。
最近では、もう新しい古典ですが、テレビらしく明暗と色彩が鮮やかで、話しぶりにヤギとオオカミの性格が表現されている分を、中村獅童が見事に朗読する『あらしのよるに』です。あらためて講談社の六冊シリーズを取り出して、家族で読みました。
夜の森の暗いなかで、相手を誰とも知らず友達になったヤギとオオカミの物語。<食われるもの>と<食うもの>が共存しようとするのは、絶対的な矛盾をはらんでいます。その中で友情は深まりますが、お互いの背後に持っている社会からの圧力も強くなります。自分自身との闘いもあるのです。


それに対抗する知恵を働かせて、何度も危機を超えますが、ついに追いつめられます。ふたりで暮らせる「みどりの もり」を探しに行くなかで(ブレイクの、ライオンと小羊の共生する世界を思わせますが、オオカミの食べものはどうなる?)、追いかけてくる仲間から「いのちを かけても いいと おもえる ともだち」を救うためにオオカミは戦い、相手もろとも<なだれ>にのみ込まれます。その後の晴れ間に、ヤギは「みどりの もり」を見つけた、と、遠く呼びかけるのです。
私は自分が子供の時に出会って、老年のいままで胸のうちに持ち続け、光にどのように理解させるかについても考え続けてきた、どうしても解決できない矛盾のことを考えます。たとえば死の問題。
若い母親が子供と一緒に読む本で、それを正面からとらえようとする絵本の作り手を私は尊敬します。時をおいては読みなおし続けられ、話し合い続けられることを思えば、なおさらに。
その上で、『あらしのよるに』のしめくくりが、友達のために命を投げ出すというシーンであることに、他の書き方はないだろうか、と思いました。そこを踏みとどまって、苦しい旅をするヤギとオオカミとともに、ふたり生きての行く末を考えてもらいたい。その方法をどうしても考えつかないなら、子供の(大人になっても読みなおし続ける)読み手に、考えてゆくバトンを渡す。そんな書き方もあるのじゃないでしょうか?
それというのも、「いのちを かけても いいと おもえる ともだち」という<美しい言葉>は、使われ方で<むごい>強制をもたらすからです。「ともだち」を「家族」「国」「世界」と置き換えてみてください。
この二月、自民党民主党議員連盟教育基本法改正促進委員会」の設立にあたって、西村真悟衆院議員が、「国のために命を投げ出してもかまわない日本人を生み出す。お国のためにささげた人があって、今ここに祖国があるということを子供達に教える。これに尽きる」と挨拶しました。
自分の命を差し出す覚悟の発言、というのじゃない。ひとに命を投げ出せ・ささげろという、それも子供にいう。子供たちにいえ、と教師に強いる法律を作ろうとする。この議員の倫理感覚の鈍さにあらためてウンザリしますが、私は自分の命についても、それを生かす道から、一緒に生きることを考え始めたいと思います。自分が生きることを考えない共生は、それこそ矛盾です。