逐条点検 日本国憲法(東京新聞)

暮らしそのもの『国の基本』全103条


<第9条> 戦争放棄は“国際標準”

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

憲法改正論議の最大の焦点となる九条。「戦争放棄」をうたう一項は、日本の平和主義の考えを集約した最大の特徴として語られることが多い。しかし、「戦争放棄」は、必ずしも日本のオリジナルではない。
戦争放棄」のルーツは、一九二八年に締結されたパリ不戦条約にある。同条約は「国際紛争解決のための戦争に訴えることを非とし、国家の政策の手段としての戦争を放棄する」と宣言。日本を含む十五カ国が署名した。
九条一項は内容をみても、この条約を下敷きにしていることが分かる。従って、これは日本だけでなく、フィリピン憲法には「国策遂行の手段としての戦争を放棄する」とあるし、イタリア、ハンガリー、さらにはアゼルバイジャンにも似た表現がある。
四五年に調印された国連憲章にも、「武力による威嚇又は武力の行使を慎む」と、不戦条約の精神が生かされている。こうしてみると、九条一項の内容は、「国際標準」と言ってもいいのかもしれない。
ただ、「戦争放棄」を宣言した各国も、国防のための軍隊を常備している。「国際紛争解決のための戦争」とは侵略戦争のことであり、自衛戦争は別と解釈しているからだ。武力紛争を繰り返してきたインド、パキスタンですら、憲法に「国際平和」を掲げている。
その点、戦力の不保持に踏み込んだ九条二項は、国際的に見ても特徴的な内容と言える。戦後、政府が拡大解釈を繰り返し、骨抜きになっているとはいえ、一切の軍備を禁じていると読めるこの項こそ、平和主義の核であろう。
国会の憲法調査会などでは、「現行憲法の平和主義を守るために一項は堅持し、二項を改正して自衛軍保持を明記する」という主張をよく聞く。だが、「国際標準」とも言える一項を維持することで、平和主義を守ったと言い切るのは無理がある。二項がどうなるかが重要で、それに着目する必要があるだろう。
また、九条の一、二項を堅持したうえで、自衛隊もしくは自衛軍の存在を三項として書き加えればいいという主張もある。しかし、この場合でも、「前項の規定は自衛隊の設置を妨げるものではない」などの表現にすれば、戦力不保持の「縛り」がかかるが、「前項の規定にかかわらず自衛隊を設置する」とすれば、自衛隊の存在が九条の精神から独り歩きしていく可能性も出てくる。
そうした意味でも、九条改正論議は、単に「自衛隊」などのキーワードだけでなく、前後の文脈にも細心の注意をはらうことが不可欠となる。

核心 歴代首相にみる『9条』骨抜きの歴史


なし崩しに広がる自衛隊の活動領域 湾岸戦争が転機


憲法九条には、「戦争を放棄し、戦力を持たない」と書いてある。しかし、戦後の世界情勢の荒波にほんろうされるように、警察予備隊に始まった自衛隊の活動領域は、なし崩し的に広がっている。憲法九条骨抜きの歴史を、歴代首相の答弁の変遷を中心に振り返った。

  • 吉田茂元首相 「自衛のための戦争もしない」
  • 岸信介元首相 「領域外での行動一切許せない」 
  • 海部俊樹元首相 ペルシャ湾に掃海艇「海外派兵当たらない」
  • 小渕恵三元首相 周辺事態法の対米支援 「中東、インド洋行かない」
  • 小泉純一郎首相 インド洋、そしてイラクに「戦闘行為には参加しない」



自衛戦争も放棄
一九四六年の憲法制定議会。吉田茂首相は九条の戦争放棄規定について「自衛権の発動としての戦争も放棄したものだ」と答弁した。
吉田氏は、過去の戦争は仮に侵略戦争に近いものでも、「自衛」を理由にして行われたものが多いと指摘。交戦権を全面的に放棄することで、世界平和実現の先頭に立つ決意を示している。
敗戦の傷あとが生々しかった当時。吉田氏の姿勢は多くの国民に歓迎された。このころは、「戦争放棄」「戦力不保持」をより明確にするための改憲論が議論されていたほどだった。
ところが、朝鮮半島情勢が不安定になると、米国側の対応が少しずつ変化。日本にパートナーとしての期待を強めていくようになった。
五〇年、朝鮮戦争が起きると、「治安維持が目的」の警察予備隊が創設。そのころ、吉田氏は「自衛権を放棄するとまで申したことはない」と答弁を修正、政府は迷走した。
実は憲法制定時、衆院で改正案を審議する委員会の芦田均委員長らの手で、九条二項の冒頭に「前項の目的を達するため」という文言が書き加えられていた。この「芦田修正」は、吉田氏が答弁を修正し始めたころから、「自衛の戦争は禁じていない」という政府見解の根拠として利用されるようになっていった。


■海外出動せず
警察予備隊は保安隊を経て、自衛隊に。こうした動きは、戦争放棄を支持する勢力からは「逆コース」と批判された。
ただ、国会や政府は、誕生間もない自衛隊の活動を厳しく制限しようとしていた。五四年、参院は「自衛隊の海外出動は行わない」と決議。その際、「一度この限界を超えると、際限なく遠い外国に出動することになることは、先の戦争の経験で明白だ」との提案理由が説明されている。
六〇年、日米安全保障条約改定の際、岸信介首相は「自衛隊が日本の領域外に出て行動することは、一切許せない」と断言した。岸氏は歴代首相の中でもタカ派として語られることが多いが、当時の答弁はかなり自制が利いていた。


■“禁”破り海外へ
ところが、こうした積み重ねも、一九九一年の湾岸戦争の発生を機に変質する。自衛隊はこれまでの“禁”を破り、海外出動の道を歩み出す。キーワードは国際貢献だ。
湾岸戦争後にペルシャ湾に遺棄された機雷の除去が目的で、海部俊樹首相は「憲法の禁止する海外派兵には当たらない」と力説した。
九二年、自衛隊は国連平和維持活動(PKO)協力法に基づいてカンボジアへ。「武力行使と一体とならないものは憲法上許される」という政府見解を根拠にしていたが“外国領土”での活動に初めて道を開いた。


■そして戦地へ
その後、自衛隊の活動は、対米協力の色彩を強めながら、さらに広がっていく。
九九年には、周辺事態法が制定。九六年の日米安保共同宣言に基づいて、日本周辺地域での米軍支援(後方地域支援)を可能にするものだ。この時、小渕恵三首相は同法の対米支援の範囲について「中東とか、インド洋とか、地球の裏側は考えられない」と答弁していた。
ところが、二〇〇一年には、米国によるアフガニスタンでのテロ掃討作戦支援のため、テロ特措法をつくり、インド洋に海上自衛隊を派遣することになる。小泉純一郎首相は「武力行使はしない。戦闘行為には参加しない」と強調したが、自衛隊の海外活動は“戦時”に広がった。
自衛隊の海外活動をついに“戦地”まで広げたのが、〇三年のイラク特措法武力行使との一体化を避けるため、政府は活動地域を非戦闘地域に限定したが、この定義について、小泉首相は「自衛隊が活動している地域は非戦闘地域だ」と“迷答弁”。今国会でも議論は続いている。