梅原猛「反時代的密語 - 何かが語っている」(朝日新聞2006年3月21日(火)朝刊)

梅原猛「反時代的密語 - 何かが語っている」(朝日新聞2006年3月21日(火)朝刊)

二年間ご愛読いただいた「反時代的密語」も今回で終わりになる。それゆえ私がなぜこの連載エッセーに「反時代的密語」という表題をつけたのかをここで語っておきたい。「反時代的密語」という言葉は「反時代的」と「密語」という二つの言葉から成るが、反時代的という思想を私はニーチェの著書『反時代的考察』から学び、密語という言葉を空海から学んだ。
『反時代的考察』において、若きニーチェがもっとも厳しく批判した思想家は、当時ジャーナリズムの寵児(ちょうじ)であったヘーゲル左派のダーフィト・シュトラウスである。ニーチェの論争の原則は、そのとき栄えているもののその内面に時代の深い病気を宿している思想家を論争の相手として選び、しかも自分はその思想家よりはるかに無名で孤独であるということであった。
ニーチェは数を頼んで論争を挑むことを潔しとしない。真理だけを頼りにして孤独に闘えというのであろう。私はこのニーチェの思想にひかれ、若き日、あるいは小林秀雄に、あるいは丸山真男に容赦ない批判を加えた。私は一時、彼らを尊敬していたものの、彼らの著書に大いなる退廃を感じたからである。無名の私が彼らを厳しく批判したことによって、その後私はさまざまな迫害を被ったが、このような暴挙と迫害なしに私は多くの著書を書き続けることはできなかったであろう。
世界に例をとれば、ソクラテスもイエス=キリストも孔子も釈迦も、日本に例をとれば、柿本人麻呂菅原道真世阿弥千利休も、反時代的人間であったと思う。真の学問や芸術はその時代の権威の思想に反するものであり、それが容易に理解されるとは思われない。私の青年時代はちょうど戦争中であり、反戦論者の私はまったくの非時代的人間であった。また戦後、マルクス主義が全盛した時代にも私はそれを信じることができず、厳しく批判したために反時代的人間になり、今また蕩々(とうとう)たる右傾化の中で超時代的人間になろうとしている。
「密語」という言葉には、ひそかな言葉という意味とものがいっばい詰まっている言葉という意味がある。思想家というものは、神仏といわれる何か偉大なるものがひそかに語る言葉を人々に伝える人間であろう。
私はかつて、人が思いもよらなかった法隆寺=聖穂太子鏡魂説、柿本人麻呂流罪刑死説、アイヌ文化=縄文文化継承説などを提出し、学界やマスコミ界を驚かせた。それらの説は最初、罵倒(ばとう)、冷笑、黙殺の対象であったが、今はそれらをまじめに検討しようとする学者も現れ始めたようである。
三月二十日、私は八十一歳の誕生日を迎えたが、老齢の私に今、かつて経験したことのないような重要で困難な学問的課題がふりかかってきた。それは前稿で少し語った日本語の起源の問題である。日本人が土着の縄文人と渡来した弥生人との混血によって形成されたことは自然人類学的に明らかであるが、その場合、言語がどうなるかが問題である。渡来した人間が土着人を征服して国をつくった場合、その渡来した人間が土着人より数が多いか、あるいは引き続き渡来が続くならば、言語は渡来人の言語になるが、そうでなければ土着人の言語になるというのが言語学の法則である。日本の場合は明らかに、渡来した弥生人に対して土着の縄文人のほうが数において多く、土着人の言語、すなわちアイヌ語に強く残る縄文語が主体になったと思われる。しかし渡来人が支配者になったので、文法は渡来人が使っていたと思われる古代朝鮮語的になったのではないかと考えざるを得ない。
このような仮説を整然たる体系をもつ学説にするのは困難きわまる仕事であるが、私に与えられた課題はそれだけではない。私は十年ぼど前から、人類の哲学というものについての構想を練っている。今までの哲学は西洋という一つの文化圏の哲学にすぎず、しかもその哲学は今の世界の状況の中で限界を露呈し始めたと思う。しかし私は単に西洋哲学に対して東洋哲学あるいは日本哲学を主張しようとしているものではない。人類はかつてない滅亡の危機に直面している。その危機を免れるためには人類の文明を根本的に反省しなければならないであろう。
今までの哲学は、考察を農業時代の思想の考察から始める。しかし農業が始まったのは約一万三千年ほど前であり、約二十万年に及ぶ今の人類の歴史からみれば農業時代は甚だ短い。工業文明は明らかに農業文明を受け継ぐものであり、人類に甚だ豊かで便利な生活をもたらしたが、あるいは農業文明以後の歴史の道は人類の滅亡への道かもしれない。人類を末氷く生き氷らえさせるためには、人類の運命を狩猟採集時代にまでさかのぼって考える哲学が必要であると私は思う。
私にどれだけの時間が残されているか分からないが、老残の身でこのような課題の追究に熱中できる人生は、何か偉大なるものに命じられ守られている幸福な人生であるとつくづく思う。