加藤周一「夕陽妄語 − 60年前東京の夜」(朝日新聞2005年3月24日(木)夕刊)

加藤周一夕陽妄語 − 60年前東京の夜」(朝日新聞2005年3月24日(木)夕刊)

一九四五年三月一〇日に、米軍のB29はおよそ二時間半にわたって東京を爆撃した。焼夷弾(しょういだん)による波状絨毯(じゅうたん)爆撃。抵抗はほとんどなく、東京の半分は焼きっくされて廃墟(はいきょ)と化した。市民の死者は八万人以上、負傷者は四万人を超え、非武装の市民の犠牲は、その五カ月後ヒロシマの被害に匹敵する。


私は何をしていたか。東京の大学の附属病院で内科の医者として働いていた。運よく病院は焼はなかったが、隣接する上野、神田、浅草などの地区は火の海となり、家を失い、家族にはぐれ、火傷(やけど)に苦しみながらもかろうじて脱出した多数の人々が病院に集まって来た。しかし、病院の寝台は少なく、病室はせまく、患者ば廊下にまで溢(あふ)れた。しかも薬剤は不足し、輸血用の血液をもとめることはできない。そして何よりも人手が足らなかった。それほど多くの患者の手あてに応じるためには医者も足りず、看護婦も足りない。われわれはみんな昼夜をおかず働きつづけた。そうして疲れきった時に、二、三時間だけ眠るという日が一週間も十日も続いたのである。私は今でも、床に寝ている患者をまたいで走るように廊下を歩いたことを思い出す。その時私の念頭には少しでも早く目標とする病人のところへ行くことの他に、どういう想念も感情もなかった。私にできることは何であったか。一人の男の激しい痛みを、−もし心臓の状態がよく十分な皿圧があれば、鎮痛剤を用いて軽くすることであった。
戦争も、爆撃も、火傷さえも、与件であって、変えることはできない。私は私にできることをするのに忙しくて、できないことについて理解を深めたり感傷的になったりする心理的または心身的な余裕はなかった。それが東京大空襲についての私の当事者体験である。「反戦」というような考えが出て来たのは、それ以前、またはそれ以後のことだ。
それは私だけではなく、歴史的事件に何らかの意珠で参加した多くの当事者がその事と係(かか)わりで体験した普遍的なことであろう。事件の大きさにくらべて事件との接点はきわめて小さい。東京大空襲は歴史的事件であり、その原因も、経過も、結果も、証言され、叙述され、分析されている。しかしそういうことを私が知ったのは、何年も後になってからである。私が直接知っていたのは爆撃直後の病院の内側でのことだけだ。その狭い空間の中で、私は事件の全体を理解しようとしていたのではなく、観察しようとさえしていなかった。
そうではなくて、事件の被害者の小さな部分、われわれの眼(め)の前に居た数百人の市民にたとえわずかでも医療を行っていたにすぎない。爆撃という事件の当事者は、加害者と被害者である。被害者に働きかける医者も小さな当事者である。当事者は行勤し、観察者は行動しない。私はその時、東京市民と同じ目的、−何とかして生きのびる目的を共有し、彼らと共に当事者として全力を傾けて行動していたのである。


一九三七年末「南京陥落」を祝う提灯(ちょうちん)行列に私は参加しなかった。四一年一二月「真珠湾の攻撃」を歓迎することもなかった。四五年九月には「ヒロシマ」へ行ったが、その主要目的も観察と調査であって死者を弔うためではなかった。私は歴史的大事件の真ん中へとび込まず、ある距離を置いて事件に対そうとした。そのために同胞市民との距離は次第に開いた。その距離がほとんど完全に消え、私自身が全く市民の一人になったのは、あの三月一〇日とその後に続く数週間のことである。しかし時が経(た)つにつれて、そのことを次第に鋭く意識するようになり、同時にその意識が私だけのものではなかったということをも発見するようになった。
例えば堀田善衛は、目黒の友人宅から深川の知人宅に向かって焼け野原を徒歩で横断した。そして偶然「焦土を臠はせ給ふ」 (当時の新聞の見出し、今制限漢字には含まれないだろう一字はミソナワスと読む)天皇の車列に出会う。焼け跡を彷(さまよ)っていた臣民=難民は、その姿に土下座して、涙を流しながら、申し訳ありません、申し訳ありません、とくり返していたという。一九心二年にそのことを思い出しながら、堀田は「無常観の政治化 politisation」 (『方丈記私記』、「政治化」はサルトルの用語)を指摘していた。彼は四五年に焦土を観察し、その観察をその後二五年間深め、広い視野を開いたのである。
さらに二〇年が経って、遠い少年時代の残酷な体験をふり返り、『方丈記私記』の堀田の観察を思い出したのは国弘正雄氏である(「物思わせる三月十日」、『軍縮問題資料』一九九二年四月)。国弘氏は「無常感の政治化」を「政りごとに対する諦(あきら)め」と訳して、堀田と同じように、そこに違和感を感じていた。時が経てば、事件のすじ道を変えるために行動することはできない。行動が不可能になったとき、観察の対象との距離が生じ、事件の全体を見透かす可能性が生じる。


しかしそれだけではない。行動(参加)と観察(認識)との間には絶つことのできない密接な関係がある。六〇年前に私は臨床医であった。臨床医の理想は、第一に診断、第二に治僚であって、その逆ではない(実際には治療を先行させなければならない場合もある)。診断を誤れば適当な治療を期待することはできないからである。しかし医師の行動の目的は治療であって診断ではない。もし私が三月一〇日に焼夷弾の降る東京の真中の病院にいなかったら、あれほど強い被害者との連帯感は生じなかったろう。
もしその連帯感がなければ、なぜあれほど悲惨な被害者を生み出した爆撃、爆撃を必然的にした戦争、戦争の人間的・社会的・歴史的意味についての執拗(しつよう)な関心はおこらなかったろう。知識の動機は知識ではなくて、当事者としての行動が生む一種の感覚である。しかし戦争についての知識がなければ、反絨毯爆撃・反大量殺人・反戦争は、単なる感情的反発にすぎず、「この誤(あやま)ちを二度とくり返さない」ための保証にはならぬだろう。堀田も、国弘氏もその関係を見事に把握していた。