加藤周一「夕陽妄語 − 「すれちがい」の果てに」(朝日新聞2005年6月23日(月)夕刊)

加藤周一夕陽妄語 − 「すれちがい」の果てに」(朝日新聞2005年6月23日(月)夕刊)

今年の三月末に私は北京である歴史家と話していた。場所は清華大学の構内、窓からは静かな中庭の木立が見えた。しかし、会話の内容は、必ずしも静かなものではなかった。日本の首相がなぜ靖国神社参拝に固執するのか理解できない、と彼はいった。私はその感情が中国の大衆、殊にたとえば学生たちの間に、どの程度まで拡(ひろ)がっているのかを知りたいと思った。「それは広い、知っている学生たちの全部かもしれない」と彼は呟(つぶや)き、「私が心配しているのば、このままゆけば、いつか戦争になるかもしれないということですよ」とつけ加えた。


私が東京に帰ったのは四月の初め、その後一週間も経(た)たない週末に新聞やテレビを通じて、投石を含む激しい「反日デモ」が北京をはじめ中国の多くの都市に発生したことを知った。三月末の北京をふり返って、歴史家の話をほとんど予言のように感じたのは、いうまでもない。「反日デモ」は、決して意外な偶発事ではなく、起こるべくして起こったのである。中国側の識者で、「靖国問題」の背景に日本の歴史意識を認め、そこから未来の戦争の予想をしたのは、決して一人ではない。たとえば中国日中関係史学会名誉会長の丁民氏も書いている。「歴史に対する認識が違えば、もう一度侵略戦争をするのではないかという心配があるのです」と(「今日の日中関係を考える」、『マスコミ市民』四三六号、二〇〇五年五月)。徳は孤ならずか。
日中政府は「反日デモ」に、素早く、冷静に、反応した。事件は収まり、五月は平穏に過ぎて今日に及ぶ。その間の交渉で、新聞報道によれば、日本側は主として「デモ」に対する中国政府の対応を問題とし(警察による投石などの制止)、破壊の原状回復(ガラス窓など)や将来の安全保障を求めたらしい。具体的で実際的な要求である。中国側は「デモ」の背景と基本的な要因(「靖国問題」と「教科書問題」など)を指摘して謝罪を拒否しながら、「デモ」のやり方(投石など)については妥協的な態度をとった。短期的にはいわゆる「政経分離」政策の成功である。しかし、長期的には、両国政府の接触は議論の「すれちがい」に終わり、日中の信頼関係の構築からははるかに遠かった。
政経分離」は、政治的友好関係がなくても、経済的関係を発展させるための工夫である。経済的にみれば、日中関係が双方にとって大きな利益であり、その破壊が致命的ではないにしても重大な損害であることはあきらかだろう。どちらの側にも政治的不和から経済活動を隔離すべき理由があった。しかし長期的には経済的関係の安定も政治的友好関係を前提とする。政治的友好関係はその時の権力相互の水準ばかりでなく、大衆感情の中にまで浸透しなければ、その持続性を保証されないであろう。そのための最大の障害は、いうまでもなく十五年戦争であり、それに対する日本の政治社会の節度である。中国側は政府も大衆も「歴史意識」について語る。四月に政府は外交的な言葉で語り、大衆は激しい「反日デモ」で語った。日本側はその言語を理解する必要があると思う。


しかし、四月の政府間交渉は「すれちがい」に終わった。一方は「デモ」の背景を強調し、他方は「デモ」の暴力的なやり方を批判した。一方は歴史的見透(みとお)しにこだわり、他方は当面の対策に注意を集中した。その「すれちがい」には日中の文化のちがいも反映していたのかもしれない。中国には長い歴史のなかで王朝の興亡を眺める知的伝統がある。日本の文化には都合の悪い過去は水に流し、外挿法の適用されない明日には明日の風が吹くとして、現在の状況に注意を集中する傾向がある。その傾向の詩的表現が俳句だが、靖国神社も「教科書問題」も俳句で捉(とら)えるには複雑すぎるだろう。
しかし個別の問題が、必ずしも極端に複雑なわけではない。たとえば「靖国問題」は首相の参拝中止によって解決できるだろうし、歴史を見なおす教科書は、大多数の学校が採用しなければ大きな害毒を流さぬだろう。個別的な問題が処理し難いのではない。しかし個別的問題は相互に関係し、一定の方向を共有し、ほとんど一つの体系のようにみえる。その方向とは何か。<過去>の十五年戦争の<現在>の日本社会による正当化または美化である。「あの戦争は正しかった」、少なくとも「それほど悪くはなかった」。これは世界の大部分の国で今や常識とされている歴史観の裏返しである。この「歴史意識」は中国のみならず日本自身を含めてのアジアの<未来>を脅かすだろう。
「歴史意識」を問うのは、過去にこだわることではない。過去を通して未来を闘うことである。戦後ドイツの「過去の克服」と戦後日本の十五年戦争に対する態度はしばしば比較された。それを今くり返す必要はないだろう。ここではその比較が日本人だけではなく中国人の念頭にも去来してやまないだろうことを指摘すれば足りる。戦争の歴史は日本の歴史であると同時に中国の歴史でもある。「歴史意識」が国内問題であり、外国の介入すべき事柄でないという主張は無意味である。靖国神社は戦争で死んだ軍人・軍属を杷(まつ)るばかりでなく、戦争を解釈するから−その解釈は戦前・戦中・戦後を通じて根本的にほとんど変わっていない−、首相の参拝が国際的意味をもつのである。


私は戦争で二人の友人を失った。彼らが死んで私が生き残ったことを正当化する理由は全くない−という考えは私の生涯につきまとった。もし彼らが生きていたら望んだであろうように生きてきたとは到底いえないが、少なくとも彼らが拒否したであろうことはしたくない、その意味で彼らを裏切りたくないと思った。それが彼らの死を悼む私の流儀である。私には靖国神社に行く必要がなかった。しかし、戦争や死刑のように国が人を殺す事業に反対する理由はあった。死は全く不条理であり、そのことにおいて一種の平等主義を実現する。すべての差別は死と共に消滅する、貧富も、賢愚も、愛憎も、国籍のちがいも。死者を政治的に利用するのは、死者の冒涜ではなかろうか。