大江健三郎「伝える言葉 - 受忍しない - 戦争、記憶し続ける力を」(朝日新聞2005年8月16日(火)朝刊)

大江健三郎「伝える言葉 - 受忍しない - 戦争、記憶し続ける力を」(朝日新聞2005年8月16日(火)朝刊)

一九四五年三月、米軍が沖縄列島ではじめて上陸した慶良間諸島で、住民たちが集団で自殺するということが起こりました。渡嘉敷島で三百人以上、座間味島で百数十人が死に(あるいは殺され)ました。
私はこの夏はじめて知ったのですが、一歳にみたない子供の「英霊」が、靖国神社に合杷(ごうし)されているそうです。沖縄タイムス紙の「戦後60年/『集団自決』を考える」という力のこもったシリーズで、石原昌家沖経国際大学教授が次のようにコメントしています。
沖縄戦で住民が日本軍に積極的に協力したという基準で適用されるのが「戦傷病者戦没者遺族等援護法」。認定基準の一つに、「集団自決」という。項目があり、ゼロ歳児でも戦闘参加者として靖国神社に合祀されているという事実を直視すべきだ。》
この連載記事には慶良間諸島のみならず、伊江島や玉城(たまぐすく)村、サイパン島までひろげて、集団自殺の具体的な証言が新しく集められています。それを見れば、<ここで日本軍に積極的に協力した>*1と認められている赤んばうが、手手榴弾(しゅりゅうだん)で吹きとばされる母親の腕のなかにいたか、家族の長のふるう石か木片の打撃をこうむってそうなったか、その光景が浮かばずにはいません。
私はいま、一九七〇年に書いた『沖縄ノート』 (岩波新書)での、慶良間諸島集団自殺をめぐっての記述で、座間味島の当時の日本軍守備隊長と、渡嘉敷島の同じ立場だった人の遺族に、名誉毀損のかどで訴訟を起こされています。原告側の弁護士たちは、「靖国応援団」を自称する人たち。
そこで、ここでは右の事実をのべるのみにとどめますが、私はこの裁判についてできるだけ詳しい報道がなされることをねがっています。求められれば、私自身、証言に立ちたいとも思います。その際、私は中学生たちにもよく理解してもらえる語り方を工夫するつもりです。
それというのは、この訴訟が、中学校の教科書の沖縄戦についての文章を書き変えようと積極的に推し進められている自由主義史観研究会のメンバーたちのキャンペーンと、狙いの定め方も攻撃ぶりもまったく同じであるからです。私と心では、なによりも慶良間諸島から沖縄列島をおおって、どのように非人間的なことが「日本軍」によって行われたか、そしてそれがいかに読み変えられようとしているかの実態を示したいのです。
先月のこの欄に書きましたが、被爆者たちによる「原爆被害者調査」が行われた一九八五年、厚生省も、同じく調査を行いました。その基本の考え方を示している文章があります。
《およそ戦争という国の存亡をかけての非常事態のもとにおいては、国民がその生命・身体・財産等について、その戦争により何らかの犠牲を余儀なくされたとしても、それは、国をあげての戦争による「一般犠牲」として受忍しなければならない……》
国をあげての戦争による「一般犠牲」を受忍せよ、というのは過去に向けてだけなされる託宣じゃありません。三年前の七月、「有事」関連三法案が議論されていた衆議院の特別委員会で、当時の福田官房長官は、「武力攻撃事態」での国民の権利制限について政府見解を示しました。《思想・良心・信仰の自由が制約を受けることはあり得る》
そして具体的に、物資の保管命令を受けた者が、思想・良心を理由に自衛隊への協力を拒んだ時、「公共の福祉」によって制約される、としました。「公共の福祉」という言葉は、憲法の言葉です。憲法でももっとも美しいと感じられるところに、このように使われています。
《すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。》
戦争放棄の項とあいまって、この項は60年前の夏、戦争が終わった日に日本人が感じた解放感の柱だったものを表現していると思います。その解放感のすぐ裏側には、私ら十歳の子供にもその前日までずっとあった、そしてそれを口に出していうことはできなかった、個人に死を強制する国という存在への恐怖が、なおこちらをジッと見ている、という気持ちも残っていたのが思い出されます。
この一年、私は「九条の会」の集まりにたびたび参加しましたが、憲法九条が、右の項といかにわかちがたく支えあっているか、そしてこの国が「戦争のできる国」に変わる時、右の項がいかにモロイものとなりうるかを、しばしば考えました。
広島・長崎で、また沖縄で、人間として決して受忍できない苦しみを、人間がこうむったこと。それを記憶し続け、そして新しい世代につたえるために正直で勇敢な努力をすることの大切さを思います。


*1:原文では傍点