憲法ってなに? - 自民党素案を読む 「第9条」(朝日新聞2005年11月1日(火)朝刊)

自前の広範な盾必要 - 福井晴敏さん


亡国のイージス」では、ちょっと誤解を与えてしまったなっていうところがあるんです。
劇中では、北朝鮮工作員と反乱自衛官に乗っ取られたイージス艦に、追走する自衛艦が沈められちゃう。「我々、自衛隊は先に撃てない」と言って。あの場面が余程ショックだったらしく、みんなその先を余り覚えていないみたいなんです。
おれが見てほしかったのは、その後の「撃たれる前に撃つ。それが鉄則だ」と言う主張と、「撃つ前に考えるのが人間だ」という主張のぶつかり合い。劇中で「撃たれる前に撃つ」って言っていた若者は、「撃つ前に考えるのが人間だ」って言う主役の先任伍長の言葉を聞いて、人間的に応答した結果、工作員に撃たれてしまう。
じゃあ、その若者は馬鹿だったのか。馬鹿だという人は、恐らく一人もいないでしょう。そこに込めた思いが思ったほど伝わっていないなって。
ただ、軍備も戦争も永久に放棄することを、おれは考えているわけではない。完全非武装というファンタジーで国は支えられない。絶対こっちからは撃たないし、最初の一発は我慢する。平和国家を名乗るには覚悟がいるということです。
日本の国防をよく「槍衾(やりぶすま)」って言うけど、自衛隊在日米軍の厚い盾と盾の間の透き間を補っている。対潜能力、掃海能力は米軍からしてもギョッとするほど高い。アメリカと日本の国益が一致することはあり得ないんだから、自分の盾だけで全土を覆えるように体制の変更を進めておかないといけない。対潜能力や掃海能力に注ぐ力を分散させてでも、自前の広範な盾が必要なんです。
それともう一つ。国が税金でどんな装備を買って、どれだけの能力を持っているのかを小学生レベルで教えないといけない。国際社会の荒波を渡っていかないといけないのに、何の戦争教育もしていない。そんな中で、右か左を選べっていう今の改憲論議は危険です。
自前の広範な盾という「貯金」もなく、自国の防衛体系についての「知識」もないまま、9条を捨てようとしている日本って、思春期の少年みたい。好きな女の子ができて、「こんなおもちゃで遊んでいるオレってダサい?」って言ってポンと投げ捨てちゃう。思春期にありがちなヒステリーに近い状況だと思う。おれは平和主義っていうおもちゃを子細に見ると、意外と良くできているって思うんですけどね。
戦後の政治家は9条を言い訳にしてのらりくらり、戦争に巻き込まれないで、一方で国際的にはコミットしてますよという姿勢を示してきた。自民党案のように軍にしたら、サボタージュを続けて、いいとこ取りができなくなる。9条を隠れみのに「貯金」と「知識」を増やすのも大人への道。今の解釈で、やれることはまだあるんです。




非戦の決意 再定義を - 是枝裕和さん


第2章のタイトルが自民党案は「戦争の放棄」でなくなったというのが最も象徴的だと思いますね。「戦争の放棄」を放棄したってことでしょう。ほかに新しい権利とか、おいしい条文を加えたけれど、これがまさしく狙いじゃないですか。
イラク派兵だって容易に認められるようになる。国際貢献って名のアメリカの戦争に今以上の支援をする方向を目指しているのは間違いない。それなのに、条文に戦争放棄という言葉を残しているのは欺瞞(ぎまん)です。だまされてはいけない。
結局、アメリカの都合でしょう。押しつけられた憲法だからダメだ、自主憲法だっていう人たちが何でこれを許すのか。9条をアメリカの軍事戦略と一線を画すための担保としておくのが、ぎりぎりのリアリズムだ。
僕自身は「正しい戦争がある」という考え方を否定するものとして、9条をもっと積極的に国際的な共有財として活用していくべきだと考えている。「正しさ」を競うことは幸せに導かない。アメリカの世界戦略の行き詰まりを見ても、9条は先進的な思想だと思う。
戦後の護憲勢力の意識の核には「もう戦争はこりごりだ」っていう被害者的な感覚が残っていたと思う。アジアを侵略した加害者であったという記憶を自らに刻みつけて、非戦の決意として9条を再定義すべきだ。より強い意味で。これは、個人的な体験から感じたことでもあるんです。
父は、出征して中国で終戦を迎えて、シベリアに抑留された。20代を棒に振ったことへの、生涯消えることない後悔は語らなかったけれど感じた。彼にとっても、東京大空襲を体験した母にとっても、被害者としての意識が強かった。それを否定するつもりはないけど、彼らの記憶をどう乗り越えていけるかが、僕のベースになっている。
アジアの映画監督とは共有する感覚っていうのがあるんですよ。アジアもね、欧州連合EU)のような形でお互いに軍縮をして経済的に一つになろうって方向で生き残っていくしかない。日本が9条を捨てて侵略しませんって言っても、中国や韓国がOKしないでしよう。9条は内政問題ではなく、アジア全体の未来にかかわる問題です。
軍備を増強して「普通の国」になっていくための憲法なのか。武力ではなく、話し合いで紛争を解決できる国と国の関係の構築を目指す憲法なのか。どちらも100%の安全はないし、犠牲を伴うけど、僕は後者のリスクなら引き受ける。
ある時期まで映像以外の発言はしないって決めていた。でも、専門家に任せていたら、改憲ムードがどんどん広がっていった。憲法って自分たちのものでしょう。自分の言葉で話すべきだって、考え方を変えたんです。