憲法ってなに? - 自民党素案を読む 「人権」(朝日新聞2005年11月3日(木)朝刊)

障碍者の権利後退 - 山本穣司さん


政治家として秘書給与詐取事件という法を犯した経験を持つ私が、憲法を論じることにためらいを覚えます。しかし、約1年2カ月の獄中生活と障害者福祉にかかわる仕事を通じて感じたことを話そうと思います。
栃木県の黒羽刑務所で私に与えられた作業は、障害を抱えた受刑者たちの世話係でした。そこで初めて、日本はとんでもない国になっていたんだな、と実感しました。
「これまで生きてきた中で刑務所の中が一番暮らしやすかった」「社会に出ていくのが怖い」
満期出所を前に障害のある受刑者の何人もが、私にそう語りました。その言葉一つひとつが今でも忘れられません。
知的障害、精神障害認知症(痴呆<ちほう>症)など様々なハンディを抱えた彼らは、法律の未整備や差別のために社会から排除された末に刑務所に服役していたのです。無銭飲食や置き引きなど、社会に受け皿があれば犯さずにすんだ微罪を繰り返し、実刑となる。入所者の高齢化は世界で突出して高く、刑務所の一部が福祉の代替施設になっている実態に驚きました。
学生時代から福祉の問題には関心がありました。日雇い労働者の集まる山谷にも通いました。インドを訪れ、身分制度カーストの最底辺に生きる人々の集落に泊まり込んだこともあります。
その後、都議、国会議員時代を通じて福祉の問題に取り組んできたつもりでしたが、この国で起きている現実を何も知らなかったんですね。
自民党の意法草案の第2次案には「心身の障害がある者は、差別されることなく、その尊厳にふさわしい処遇を受ける権利を有する」とありましたが、最終案では削除されました。その代わり、憲法14条の法の下の平等規定の中に「障害の有無」で差別されないと加えられましたが、後退ではないでしょうか。やはり、条文としてはっきり書いておくべきでした。
私は「わが国の固有の価値を実現するために新憲法を」というナショナリズム的発想に基づく改憲論には反対です。しかし、憲法9条改正に反対するあまり「一字一句変えるべきでない」という意見にもくみしません。結果的に憲法論議がタブー視され、憲法が保障す
る人権すら社会に根付かず、「人権後進国」との批判を受けてきたからです。
憲法98条2項には、条約や国際法規を誠実に守らないといけないと定めてあります。しかし、女性差別撤廃や難民の保護、子どもの人権などが真に守られている社会になっているでしょうか。
憲法とはもともと、人権保障の仕組みです。人権保障のためにどんな政策や法整備が必要か。そのうえで、憲法を変えるとすればどうすればいいのか。きちんとした検証をしながら、さらに憲法議論を深めていくことが必要だと思います。




「人間尊重」に戻れ - 原田正純さん


水俣病の患者さんと初めて出会ってショックを受けたのは、病気のひどさもさることながら、差別されていることでした。ポロポロの家の雨戸を閉め、息を潜めるように暮らしていました。
何も悪いことをしていないのに、どうして、貧乏になり、病気になり、人にも会わず生きていかないといけないのか。それがぼくの原点となりました。1960年のことです。ぼくは熊本大医学部の大学院生でした。
3年後の63年、三井三池炭鉱の炭じん爆発事故とかかわります。458人の労働者の命が奪われ、839人の一酸化炭素中毒患者が出ました。診察にあたり、激しい労災闘争も目の当たりにしました。
高度成長を支えるため、九州がかつての植民地の代替地として搾取され公害や労災が多発したのです。中央から離れたへき地の弱い所にしわ寄せが来る。公害があって差別が起こるのではなく、潜在的に差別があり公害が生まれる。確信を持つようになりました。
水銀汚染や環境汚染物質による中毒例の調査のために海外を訪れましたが、同じ差別の構図を見ることができました。
公害に反対するということは差別をなくすこと。憲法で保障された一人ひとりの権利を守っていくことなんです。水俣の患者さんたちは、憲法が保障する幸福追求権や生存権さえ脅かされ、地域社会からも差別を受けていたのですから。
自民党案は「国民が良好な環境の恵沢を享受することができるよう」努力しなさいと国に命じています。しかし、水俣では憲法が保障した人権すら十分に守られなかったという反省がないと、字面を変えたところで変化は期待できません。
昨年10月、水俣病関西訴訟で最高裁が、被害を拡大した国と県の責任を認めました。細部はともかく、画期的と評価できます。ただ、なぜ提訴から22年、水俣病の発見から48年も時を要したのか、理解できません。
95年の水俣病問題の政治決着でも、悲惨な患者たちの声が霞が関や永田町に届くのになぜ40年もかかったのでしょうか。
民主国家、成熟した文化国家とはとても言えません。水俣病を通じて見えてきた「この国のかたち」は弱者に優しくないということです。
自民党草案は「公益」「公の秩序」を強調しますが、水俣病三井三池炭鉱の事故は産業界の利益や国の政策という「公共」の名の下で発生し、拡大したことを忘れてはなりません。
ぼくは医者で法律の専門家ではありません。ただ、憲法を見直すというより、その運用において人権尊重と弱者の立場に立つ本来の精神に戻ることが先決です。それがないまま、憲法の言葉を変えれば世の中が変わるかのような錯覚を与えるのは、かえって問題が大きいと思います。