愛国心を法律に規定しようとする恥ずかしさ

教育基本法改正 インタビュー(下)(東京新聞 / 2006年6月13日)

「愛国」が盛り込まれた与野党教育基本法改正案をどう考えればいいのか。戦後政治の世界で長く改正を主張してきた中曽根康弘元首相(88)に続いて、気鋭の歴史・社会学者(慶応大総合政策学部助教授)小熊英二氏(43)の意見を紹介する。(聞き手=社会部・片山夏子、加古陽治)


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教育基本法の与党改正案を読んで、三つの問題を感じました。
一つは、この改正案は在日外国人を含めた一般の国民、住民が持つ教育への不安に即したニーズに応えたものではないということです。
いま切実に論じられている教育の問題は、格差や不登校学力低下や学級崩壊などで、与党改正案が重視している愛国心とか道徳問題ではありません。そんなことには、一般国民はさほど関心がないでしょう。この改正案で喜ぶのは、自民党文教族をはじめとした年配の保守系の人たちだけではないでしょうか。
■連携
二つめは、「国と郷土を愛する」「態度を養う」と記していること、さらに家庭教育の重視と社会教育との連携を強調していることです。
多くの人が指摘していることですが、「態度を養う」ということは、生徒が君が代を大きな声で歌っているか評価したり内申書に書いたりできるという拡大解釈につながりかねません。また、卒業式にきた父母が君が代を大きな声で歌わなければ、家庭教育がよくないという評価もできる。さらには、祝日に日の丸を掲げない家庭は教育基本法に反している、そうした家庭は教育委員会から職員を派遣して日の丸を掲げるよう指導する、というような家庭教育と社会教育の「連携」が起こるかもしれない。
つまり、いま学校の卒業式などで起きている国旗国歌をめぐる事態が、家庭や社会全体に及びかねない。政府や与党が「そういうことをやる気はありません」と答弁したとしても、国旗国歌法の時も「学校で強制はしない」と答弁したのですから安心できません。
■介入
三つめに、自民党は「万年与党ぼけ」ではないかと感じました。
今の教育基本法第一〇条は「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って」と書いて、教育への政権の介入を禁じている。これは戦前の軍国主義教育への反省もありますが、制定時の状況では、共産党社会党が政権を取って教育を左右したら大変だという危機感もあったはずです。
基本法を発案した文相の田中耕太郎、教育刷新委員会(今の中央教育審議会)の初代委員長安倍能成、二代目の南原繁、首相の吉田茂らは、みな反共自由主義者でした。実際に一九四七年三月の教育基本法公布の直後、四月の選挙で社会党が勝って政権を取った。基本法を作った当事者たちは、間に合ってよかったと思ったのではないか。
ところが与党改正案では、この一〇条に当たる部分を「不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより」として、政権の介入ができるようにした。これは自民党が教育を意のままにする道を開きかねないと批判されていますが、そればかりではない。もしも今後、民主党共産党の連立政権ができたり、極右政党がかつての日本新党のようにいきなり台頭して政権を取ったら、自民党公明党は「あんな改正をしたのは自殺行為だった」と後悔することになるかもしれません。
しかし与党改正案にはそういう可能性を考えた形跡が全然ない。永遠に自分たちが政権党であることを前提にしている。緊張感ゼロの「万年与党ぼけ」だと思います。
■魅力
以上三つの点から、一般国民にも、場合によれば自民党にも得にならない改正案だから望ましくないと私は考えます。
そもそも、愛国心を教えなければいけないと法律でうたうのは、それほどこの国は魅力がないと自分で言っているようなものです。日本がアジア諸国からも国連でも尊敬を集めていて、政治が立派に行われていたら、教育されなくても国に愛着を持つでしょう。そういう政治や外交をしないでおいて、年に一回の入学式や卒業式での国旗や国歌の扱いにこだわる人たちになど、国の政治をまかせたくありませんね。


おぐま・えいじ 東京大農学部を卒業後、出版社勤務。東大大学院博士課程修了。2000年から現職。専門は歴史学社会学。著書に「単一民族神話の起源」(サントリー学芸賞)、「<民主>と<愛国>−戦後日本のナショナリズムと公共性」(大仏次郎論壇賞ほか受賞)、「日本という国」などがある。