加藤周一「夕陽妄語 − 核兵器三題」(朝日新聞2006年10月25日(水)夕刊)

加藤周一夕陽妄語核兵器三題」(朝日新聞2006年10月25日(水)夕刊)

核兵器の歴史も今では半世紀を超える。その間に米ソ間の「冷戦」が始まり、終わり、最近朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮)の核兵器潜在的脅威が語られている。新聞雑誌の記事を拾い読みしながら、私は昔を思い出した。
思い出の一つは「第二撃能力」という言葉である。昔は核兵器についての議論の三度に一度はこの言葉を使っていた。今ではめったにおめにかからない。さればこそたまたま米国の新聞記事の中でこの言葉に出合った時、懐かしく感じたのである。「ナツメロ」のひそみに習えば「ナツカク」とでもいうべきか。


その意味は単純で、外国から核攻撃を受けても破壊されずに残った核兵器で、相手に報復できる能力のことである。その能力が十分に大きければ、いかなる外国も自らを破滅させるような報復を避けて、最初の攻撃をしないだろう(抑止力)。二つの超大国の第二撃能力が釣り合っていれば、どちらが先に攻撃しても双方が亡(ほろ)びる(「相互に確実な壊滅」略してMAD)。これはいわゆる「恐怖の均衡」による冷戦路代の「平和」である。
その後、冷戦と共に核武装均衡も破れた。二大国間の核武装競争(量的及び質的)の代わりに、小国の核武装現象、同路に紛争の地域化現象がおこった。核戦争の確率は増大する。それに対抗するための国階的協力が、核不拡散条約にあらわれている(NPTと略語)。第二撃能力をもたない核武装の小国が、強大な第二撃能力を備えた大国を先制攻撃することは、全くありそうにもない。遂に大国の武力介入を抑止するために小国の核兵器が直接役立つこともないだろう。
要するに第二撃能力のない核武装の主要な役割は、日米軍事同盟のような強大な軍事力に挑むことではなく、NPTの機能を脅かすことではないだろうか。「北朝鮮の脅威」という話は、核開発のどの段階での、誰にまたは何に対する脅威なのか、はっきりしないかぎり、あまりに漠然としているように思われる。イラクヘの先制攻撃も早すぎた。
「第二撃能力」の問題と関連して、私はNPTの歴史も思い出した。インドとパキスタンは公然たる核武装国となり、北朝鮮は爆発実験を行った。それぞれの背景には、あきらかに、それぞれの特殊な状況がある。しかし共通の要因も働いていないはずがないだろう。それは条約の根本的な不平等性である。
一方には主権国家間の平等を原則とする国際的秩序がある。他方には国連加盟国の一部には核武装を公認し、大多数には圧力をかけても公認しないNPTがある。しかしフランスに核兵器を許し、イタリアには許さないことを正当化する説得的な議論はない。中国が核武装国で、インドがそうでなかった理由も明らかではない。これがNPTの構造的不平等の第一である。


第二の不平等は、国連の安全保障理事会常任理事国の内部にある。常任理事国五カ国は、すべて核武装国である。しかし米国が保有する核弾頭は少なくとも千を以(もっ)て数え、フランスの核弾頭は数百である。なぜそうならなければならないか。ロシアの核弾頭は少なくとも数千、中国の核弾頭数百。なぜこの極端な不平等が必要か。
私は専門家ではないので、弾頭の質にあらわれた不平等には立ち入らない。しかし総数を比較することは誰にも容易であり、NPTの極端な二重不平等構造は誰の眼(め)にも明らかだろう。もちろんこの不平等を解消するために核兵器保有国が核兵器廃絶に向かって努力するという約束はあった。しかしその約束は守られていない。
事態がこのまま推移すれば、不平等祖織の崩壊は時間の問題ということになろう。北朝鮮の問題はその一例にすぎない。しかしそれでもNPTを活かすことは重要であり、朝鮮半島の非核化と日本の「非核三原則」の地域的拡大は決定的意味をもつだろう。なぜならそれは朝鮮半島全体の安全、周辺国日本・ロシア・中国の政治的安定に役立ち、米国の利益にも合致するだろうからである。
私はまたヒロシマの焼け跡を思い出した。そこでは道路の網の目と区画、黒い瓦礫(がれき)の平面がどこまでも広がっていた。焼けて一枚の葉も付けない立ち木が何本か残っていた。コンクリート建築の廃墟(はいきょ)の壁も、ところどころに見えた。しかし何よりも平面、すべてが焼きつくされ一匹の蟻(あり)も這っていない、一匹の蝿(はえ)も飛んでいない、生命の痕跡も残さない平面の拡(ひろ)がり、−かつてはそこに広島市があったのだ。金持ちや貧乏人、徴兵された兵隊や郵便配達の少年、学校の教師、子供たち、その母親たち、犬や猫がそこに生きていたが、彼らは一瞬の裡(うち)に消えてしまったのだ。一瞬の裡に、何万人の人生が、何の理由もなく、全く突然に。
私は爆発の時に広島にいたのではない。爆発の後の焼け跡を、かつて市民たちが生きていた空間を見たのだ。その焼け跡にはケロイドが羽織ったボロの間から見える男女が、ゆっくり、音もなく、滑るように彷徨っていた。その光景の全体には音がなかった。その沈黙の空間は永遠に沈黙しているかのように感じられた。


私は死にどういう意味も見いださない。なぜ彼が、彼女が、死なねばならなかったか、理由はない。理由があるとすれば、生きている理由だけだ。私は多くの価値を相対化する。広島の焼け跡を見ながら、どうしてそうしないことができようか。
しかし生きていることそれ自身だけは例外である。何かに意味があるとすれば、今ここに生きていることの他にあるはずがない、と私は考える。そして戦争に反対する。