玄侑宗久「本当の道徳の授業では、教師が教えるのではなく自分の生き方をかけて一緒に考えるしかない」

特集ワイド:言いたい! 道徳の成績評価(MSN-Mainichi INTERACTIVE 2007年4月16日(月))

政府の教育再生会議第1分科会は、小中高の「道徳の時間」を正式教科にする方針を打ち出した。成績評価方法も今後の検討課題とされるが、心の問題である道徳を評価し、成績を付けていいのか?【太田阿利佐】


◇生き方に優劣はつけられない−−玄侑宗久さん(作家、臨済宗僧侶)
知育、徳育、体育のうち、戦後教育が知育に偏ってきたのは確か。もっと徳育を重視しようという方針には賛成です。ただ道徳を評価対象にすること、まして数値で評価するなど論外です。評価すればそれは知育。もはや徳育ではありえません。
道徳教育とは「人の生き方を学ぶ」こと。道徳は老子の「道徳経」に基づく言葉で、「上徳は徳とせず、是(ここ)をもって徳あり。下徳は徳を失わざらんとす、是をもって徳無し」と書いてある。真に徳のある人は、徳を得ようと意識することがないところに徳があり、徳を得ようとか失うまいとする徳は初めから下の徳だ、という。「前識は道の華(か)にして愚の始めなり」は、人より余計に知っているとか早く知っているとかいわゆる知恵者であることは、道を学ぶにあたってはあだ花のようなものであり、愚かさの始まりだ、の意味です。華は目立つこと、ほめられること。点を競う、功名を競う、華を競うことで徳から離れてしまう。
大体、人間の道徳を評価できる人間がいるんでしょうか。評価するには物差しがいる。人の生き方を一つの物差しで測ることが可能なのでしょうか。
例えば、父親が盗みをするところを見ていた子はどうすべきか。孔子なら「孝」の観点からかくまうべきだとする。しかし、そうではない、という議論も当然ある。まして「人としてどう生きるべきか」は、仏教、キリスト教イスラム教などと無数の考え方があり、優劣もつけられない。グローバル化が進む時代だからこそ、優劣のつけられない無数の価値観を知るべきでしょう。
評価しようという背景には、そうしないと生徒がまじめに取り組まないという思いがあるのでしょう。点数や試験は脅し。それがないと授業が成立しない。そんな情けない状況で道徳が教えられますか。
日本人はこう生きるべきだ、という道徳的規範が教科書で示せるなら、ぜひ拝見したいですね。私は現在の副教材「心のノート」(文部科学省)はどろぼうの勧めだと思っています。心のノートでは多くの言葉の出典が明らかにされていないからです。
道徳を語ることは、その人が生きるにあたって宗とすること、つまり根本原理を語ることです。その中で優れたものが、多くの場合宗教として残ってきた。そこからいわば最大多数の思想を抽出し、集めて本にするなんて盗みに等しい行為です。出典不明では、どのように生きどのように死んでいった人々が語ったのか、どのような時代を生きてその生き方を見いだしたのか知りようがない。だから言葉が切実さを欠いてしまう。
徳育の必要性はもちろんあります。市場原理と金がすべてというような価値観が、あらゆるものに広がっている。そのカウンターバリューを見いださなければならない。それなのに道徳の評価とは……。日本人はまだ数値化し、評価できるものにしか価値が見いだせないということです。一つの物差しによる評価は市場原理と同じでしょう。
本当の道徳の授業では、教師が教えるのではなく自分の生き方をかけて一緒に考えるしかない、と私は思います。


◇個人の内面に国が立ち入るな−−本田由紀さん(東大准教授)
教育再生会議の議事録を読むと、思いつきに近い、インパクトのみ強い提案が相次いでいます。道徳の教科化も今まで議論して詰めた形跡がほとんどなく、急激に合意ができてしまった。しかも安倍晋三政権下で直ちに実行されかねない。最近、国家権力が個人の内面、規範、価値観などに介入してもいいんだというような姿勢があからさまになっており、道徳の教科化はその象徴ではないでしょうか。
社会が流動化する中、年長者の若者に対する不安や不満が強まっている。転職や失業などが多い若年層のあり方は、実は社会構造的なゆがみが新規参入者である若者に強く表れているにすぎない。しかし、社会的な問題の起源を若者の道徳的退廃に求め、それを批判し矯正すれば、社会のゆがみが何とかなるかのような幻想が広がっている。
先進各国で近年、市場至上主義の導入と、右派的で全体・伝統に回帰しようとする新保守主義の推進が並行して起きています。個人の選択でよりよいものが残るのが市場主義の根本。その前提には選択肢の多様性があり、それは多様な価値観から生まれる。一方で若者と話が通じなくなってきたことに年長者が不安を感じ、多様なものを均質なものに引き戻そうとする動きがある。
グローバル経済化が避けられないなら、多様性を前提に何が最低限のルールで、どこから先は個人の自由にまかせるかの判断をし、それに基づく制度変革や社会保障整備が必要です。人の内面や価値観、感じ方に対しては介入せず、発展の芽を守る。しかし日本は財政破たんで対応が遅れ、その政策的な不備を個人や家族の責任論でごまかそうとする姿勢が目立つ。
社会全般に、「人間力」「ニート」などと人の内面や人格を丸ごと評価して、使える人は酷使し、使えない人はダメと烙印(らくいん)を押して排除する圧力が強まっています。烙印を押された時、自己責任でやはり自分が悪いんだと思うようになっている。労働市場からの退避者はいわゆる無業者、社会からはひきこもり、この世からは自殺。みんな自ら退出していく。
そんな状況で道徳が教科になり、毎週毎週、感じ方、考え方を表明しろと言われ、「こうあるべきだ」と教え込まれたらどうなるか。自分がその軸に沿えないと感じた時、素直な子は自分を責め、反抗的な子はより離反し、教えられた通りにできる子は同じ鋳型に流し込まれる。いいことは何もない。
教科になれば、いずれ時間数も増え、評価も導入される。教師の再評価制度と結びつく可能性もある。そもそも、教科書に明示されていなくても、道徳が教科として存在するだけで「正しさというものは、国や学校によって定めることができ、評価することができる。人間はこうであらねばならないということを誰かが知っていて、それを教わるべきである」ということが児童・生徒に刷り込まれる。これを社会学ではヒドゥン(隠れた)カリキュラムと呼びます。こうした危険な道徳の教科化を性急に論じる教育再生会議の無神経さに驚きます。


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■人物略歴
◇げんゆう・そうきゅう
1956年、福島県生まれ。慶大卒。ごみ焼却場作業員などを経験後、京都・天龍寺道場に入門。現在は福島県三春町の福聚寺副住職。01年「中陰の花」で芥川賞受賞。
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■人物略歴
◇ほんだ・ゆき
1964年、徳島県生まれ。東大大学院博士課程単位取得退学。専門は教育社会学。著書に「『ニート』って言うな!」(共著)、「若者と仕事」など。