ノリック続報

ノリック事故死、海外でも大きく報道…ファンは現場に献花(産経スポーツ 2007年10月9日(火))

ノリック」死す−。オートバイのロードレース世界選手権(WGP、現在のモトGP)を3度制した阿部典史(のりふみ)さん(32)=川崎市幸区、写真=が、同市内でオートバイを運転中にトラックと衝突し、死亡した事故から一夜明けた8日、天才の悲報が、世界を駆けめぐった。
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英オート・スポート紙(電子版)は、WGPの優勝ライダーである阿部さんが公道上で亡くなった皮肉な事件として報道。前身大会を含めてモトGPで5連覇したV・ロッシ(イタリア)が、阿部さんにあこがれて名前をもじり、「ろっしふみ」と名乗った逸話などを紹介。熱狂的なオートバイファンの多いイタリアの大手スポーツ紙「ガゼッタ デロ スポルト」(電子版)もトップページで、サッカー・セリエAの結果とともに、WGPを初制覇した1996年の日本GPの写真付きで報じた。
一方、事故現場の川崎市川崎区大島の市道にも多くのファンが訪れ、小雨がぱらつく中、「ノリック、ありがとう」などとの手紙とともに献花した。
神奈川県警によると、現場は片側2車線。7日午後6時20分ごろ、左車線を走っていた4トントラックがUターンし、右側を後方から走ってきた阿部さんのオートバイと衝突した。阿部さんは搬送先の病院で死亡。現場はUターン禁止だった。
父親でオートレーサーの阿部光雄さん(58)は8日、浜松オート第9レースに出走予定だったが、7日中に悲報を受け、レース参加解除の手続きをとった。
光雄さんは8日のテレビ朝日「スーパーJチャンネル」で、阿部さんについて「若いころから檜舞台に出て、ラッキーボーイでした」と話すと、「(事故死という)この落差が、親としてはひどすぎる」と声を詰まらせた。川崎署は自動車運転過失致死容疑で、トラック運転手(51)から引き続き、事情を聴く。


◆阿部さんが所属するヤマハ発動機の梶川隆社長(63)
「この悲報に接し、深い悲しみでいっぱいです。阿部選手は日欧米やアジア諸国はもとより世界のファンの皆様から親しまれ、世界のモータースポーツ界を代表する貴重な人材でした。今年は14年ぶりに日本国内でのシリーズ戦に参戦することになり、国内のファンの皆様から改めて期待が寄せられていた矢先のことで残念でなりません。ここに阿部選手の他界を悼み、心よりご冥福をお祈り申し上げます」


阿部典史(あべ・のりふみ)
1975年9月7日、東京都生まれ。父親はオートレーサーの阿部光雄。父の影響で5歳からバイクに乗り、91年に中学卒業後に渡米しレース修業。93年に全日本選手権500ccで史上最年少チャンピオンに。翌年から世界選手権(WGP)に参戦し、96年の日本GP、99年リオGP、2000年の日本GPの3回優勝した。02年に美智子さんと結婚。今年から全日本ロードレース選手権に復帰した。


【葬儀・告別式】
通夜は12日午後6時、葬儀・告別式は13日午前11時、東京都港区南青山2の33の20、青山葬儀所で。喪主は父、光雄(みつお)氏。



ヤマハ発動機、故阿部典史の訃報について(motogp.com 2007年10月8日(月))

ヤマハ発動機は8日、代表取締役の梶川隆氏が7日に死去した元MotoGPライダー阿部典史に関するリリースを発表した。
「この悲報に接し、深い悲しみでいっぱいです。阿部選手は日欧米やアジア諸国はもとより世界のファンの皆様から親しまれ、世界のモータースポーツ界を代表する貴重な人材でした。今年は14年ぶりに日本国内でのシリーズ戦に参戦することになり、国内のファンの皆様から改めて期待が寄せられていた矢先のことで残念でなりません。ここに阿部選手の他界を悼み、心よりご冥福をお祈り申し上げます」



阿部 典史選手の訃報について(ヤマハ発動機 2007年10月8日(月))

「Y'S GEAR Racing」(ワイズギア・レーシング)から今シーズン、全日本選手権JSB1000クラスに参戦していた阿部 典史(あべのりふみ/32歳)選手が、10月7日午後6時20分頃、神奈川県川崎市二輪車を運転中交通事故にあい、午後8時50分頃治療先の病院で亡くなりました。
阿部選手は1993年史上最年少で全日本最高峰500ccクラスのチャンピオンを獲得。翌年94年も全日本スーパーバイク選手権に参戦していましたが、シーズン途中にヤマハに移籍、同時に世界選手権500ccクラスに参戦。1995年からフル参戦を開始し、優勝3回、2位4回、3位10回などと活躍。今年は全日本選手権に復帰して活躍するほか、7月の鈴鹿8時間耐久レースに初参戦。国内外モータースポーツ振興を牽引する人材として多くのファンから親しまれていました。


ヤマハ発動機株式会社 代表取締役社長 梶川隆:
「この悲報に接し、深い悲しみでいっぱいです。阿部選手は日欧米やアジア諸国はもとより世界のファンの皆様から親しまれ、世界のモータースポーツ界を代表する貴重な人材でした。今年は14年ぶりに日本国内でのシリーズ戦に参戦することになり、国内のファンの皆様から改めて期待が寄せられていた矢先のことで残念でなりません。ここに阿部選手の他界を悼み、心よりご冥福をお祈り申し上げます」

阿部 典史選手のプロフィール


出  身/ 東京都
生年月日/ 1975年9月7日
2007年の所属チーム/ Y'S GEAR Racing(ワイズギア・レーシング)


主な成績
1993年:全日本選手権GP500 チャンピオン
1994年:世界選手権GP500 デビュー
1995年:世界選手権GP500 ランキング 9位
1996年:世界選手権GP500 ランキング 5位 (日本GP優勝)
1997年:世界選手権GP500 ランキング 7位
1998年:世界選手権GP500 ランキング 6位
1999年:世界選手権GP500 ランキング 6位 (リオGP優勝)
2000年:世界選手権GP500 ランキング 8位 (日本GP優勝)
2001年:世界選手権GP500 ランキング 7位
2002年:世界選手権MotoGP ランキング 6位
2003年:世界選手権MotoGP ランキング 16位(スポット参戦)
2004年:世界選手権MotoGP ランキング 13位
2005年:世界選手権スーパーバイク ランキング 13位
2006年:世界選手権スーパーバイク ランキング 13位
2007年:全日本選手権JSB1000ランキング3位(第6戦終了時)



事故死ノリックの自宅はひっそり(日刊スポーツ 2007年10月9日(火))

2輪ロードレース世界選手権(WGP)で通算3勝を挙げたカリスマライダー、「ノリック」こと阿部典史(のりふみ)さん(享年32)が事故死した神奈川県川崎市の事故現場から約2・5キロの距離にある阿部さんの自宅マンションは終日、ひっそり静まり返っていた。世界転戦時に拠点にしていたスペインを離れ、帰国後は02年に結婚した夫人、1男1女とともに住んでいた。遺族は留守のもようで、呼び鈴にも受け答えはなく、弔問客が訪れる気配もなかった。また、長く所属していたヤマハ発動機は静岡・磐田市の本社に献花台を設置し、ファンと阿部さんとの別れの場を提供した。



事故死ノリックにファンの悲しみ募る(日刊スポーツ 2007年10月9日(火))

2輪ロードレース世界選手権(WGP)で通算3勝を挙げたカリスマライダー、「ノリック」こと阿部典史(のりふみ)さん(享年32)が事故死した神奈川県川崎市の現場に8日、多くの献花が飾られた。強い雨の中、早朝からファンが詰めかけ、阿部さんが倒れていた路上が祭壇のようになった。阿部さんのホームページ(HP)掲示板には秒単位で「ありがとう」「忘れない」などの書き込みが殺到した。
大粒の雨が路上の花束をぬらした。花束が阿部さんが倒れていたことを示す白いチョークの上に次々に置かれた。傘をささずにうなだれた女性が「ノリックー!」と叫んで崩れ落ちた。その横で手を合わせた30代の男性は「7月の鈴鹿8耐で元気な姿を見たばかり。何でだ!」と肩を震わせた。50人以上のファンが立ちつくしていた。
事故現場には生々しい跡があちこちに残っていた。7日午後6時20分ごろ、片側2車線の市道の走行車線を走っていたトラックが突然Uターン。そこに追い越し車線で500CCのスクーターで走っていた阿部さんが突っ込んだ。衝突を避けようとした阿部さんは大きく右側にハンドルを切り、スクーター左側面を擦るだけで切り抜けたが、トラック前部のバンパーに引っ掛かった。阿部さんは約20メートル、スクーターは約40メートル飛ばされた。
逆車線の歩道近くに倒れた阿部さんは、駆けつけた救急隊と警察官に名前を告げ「職業は?」と問われると「ライダーです」。世界的に有名なライダーと知らない救急隊員から「アマチュアですか?」と尋ねられ、「いや、プロライダーです」と答えて市内の病院に運ばれ、それが最後の言葉となった。
事故で折れたろっ骨が動脈を損傷したことで容体は急変。午後8時52分に帰らぬ人となった。乗っていたスクーターは9月に購入したばかり。公道ではバイクに乗らず、愛車のフェラーリしか使っていなかったが、この日は距離的に近い横浜市に所用があったため、手軽なスクーターを使ったようだ。
川崎署には事故現場の住所を尋ねる電話が多数寄せられた。「一般の人からこんなに問い合わせがくることはない」と同署では驚く。阿部さんのHPの掲示板には秒単位で「ありがとう」「早いよ」「あぁキツいなぁ」などとメッセージが書き込まれた。阿部さんは、同HPの9月6日のブログで、その2日前に練習走行中に事故死した沼田憲保さん(享年41)について「危険は未然に防ぐしかない。そのことを強く感じた」と書いていた。【寺沢卓】



ノリック父の光雄さん浜松オート欠場(日刊スポーツ 2007年10月9日(火))

事故死したカリスマライダー、「ノリック」こと阿部典史(のりふみ)さん(享年32)の父でオートレーサーの光雄さん(58)は8日、出場中だった浜松オートを欠場した。事故の一報は7日午後8時ごろ、家族から浜松の選手宿舎に入った。入浴中だった光雄さんは大急ぎで電話に出て、ただならぬ事態であることを知らされた。同室の秋田貴弘選手が「良くないんですか」と尋ねると「良くない」と語り、泣き出しそうな顔だったという。ぬれたままの衣類や身の回りの物をバッグに押し込むと、午後8時15分すぎにタクシーでJR浜松駅に向かった。
阿部さんは、光雄さんが所属する川口オートレース場に何回も来ており、顔見知りの選手も多い。「子供のころから父親のロッカーで整備を見ていた」「交通事故で亡くなるなんて」「レース場より一般道路の方がよっぽど危険」。ノリックの死を知った選手は強いショックを受けていた。



21日鈴鹿でノリック追悼(スポーツ報知 2007年10月9日(火))

7日夜、川崎市内で交通事故死したレーシングライダー阿部典史さん(享年32歳)の追悼行事が、全日本ロードレース最終戦(21日決勝、鈴鹿サーキット)で行われる可能性が8日、高まった。関係者は「チームやご家族の意向もあるが、これから話し合うことになる」とし、日本のレース界に大きな足跡を残した阿部さんへの感謝の気持ちを表せるよう検討を始める。阿部さんは今季、13年ぶりに欧州から全日本に復帰。総合3位で、最終戦に逆転王座がかかっていた。
父でオートレース選手の光雄さん(58)によると、遺体は「体のあちこちにできた擦過傷がひどい」状態で、9日にも実家に戻る予定。光雄さんはオートレース出場のため静岡・浜松に滞在中だったが、7日夜、入浴中に連絡を受け急きょ欠場し帰京した。


◆事故現場にファン献花 JR川崎駅近くの事故現場には、8日朝からファンが続々と花束や線香、写真などを供えた。事故はUターン禁止の片側2車線の道路で4トントラックが左車線から急にUターン、右車線後方から来た阿部さんの500ccスクーターと衝突して発生した。現場は交通量こそ多めだが見通しもよく、通常なら事故が起こるような場所ではない。東京から友人2人と訪れた森崎恵さん(24)は「(公道での事故で亡くなったのが)悔しいです」と立ち尽くしていた。