大江健三郎「伝える言葉 - 子供の記憶は正しい - 自由は「理性的な自己決定」」(朝日新聞2005年3月22日(火)朝刊)

(前略)
さて私が戦後すぐ、先生や近くの大人たちによく言われた言葉として覚えているのは、「自由を履きちがえるな」。平和主義、民主主義、基本的人権については、直前まで別の考えだったかれらも、正面から否定することはしませんでした。ところが、人間の解放をいう時、いつも「自由を履きちがえるな」と付け加えるのです。
(中略)
新しい憲法によって個人が解放されたいま、その自由をいかに質の高いものにするか? 丸山さんは、「拘束の欠如」としての自由をもっばら楽しむのじゃなく、「理性的な自己決定の能力」を働かせることこそ、人間らしい自由だ、と書いていました。それが新しい規範を創造し、それによって民主主義は達成される……
いま自由=市場経済規制緩和は時の勢いです。昨年7月、日本経団連は「武器輸出三原則」と「宇宙平和利用原則」の見直しをもとめる提言をしました。防衛予算の削減に危機感をいだいて、ということです。今年になって、それは憲法九条の改定をもとめる提言に重ねられ、政府に示されています。
戦後の日本政府が「理性的な自己決定の能力」を発揮して、新しい規範を創造した、その大切なひとつに武器輸出三原則がある、と私は思います。
まず67年に、これは国際的な圧力の範囲内でのことでしたが、佐藤内閣が、?共産圏向け、?国連が輸出を禁止している国、?国際紛争当事国か恐れのある国への輸出を禁じました。加えて三木内閣が、さきの対象地域以外にも「輸出を慎む」という統一見解を出します。現在まで武器輸出全面禁止は続けられて、いずれの大国に対しても誇りうる新しい規範となりました。さらに、冷戦終了後の世界の窮状が、先見の明をあかしています。
それをとくに今、経団連が廃止するよう政府に迫るのは、防衛産業部門の、かれらの意識内での突出を示すものです。私は戦後60年の、経済界で力を持ちながら、あまりに政治主義的であることは自制した、「理性的な自己決定の能力」を持つ人の後継ぎたちを信じたいのですが……
(中略)
九条の会」の集まりで私が話しているのは、戦後の苦しく新鮮な再出発の時、子供の自分がなにを経験し、なにを感じとって理解し、そしてなにを希望したか、ということです。私は、いまの子供に、また忘れていないのにウソをいう大人に、子供の記憶は正しい、といいたいのです。

「野放図な『自由』」をすでに警戒する「大人たち」には「理性的な自己決定」の能力がない、あるいはそれを信じる(余裕を持つ)ことができない。だから子どもの記憶が正しいとも、その希望がまっとうだとも感じ取ることができないのだろうか。今の状況はそれよりももう少し浅ましい、そんなことを「信じてはいけない」いや、「信じられるハズがない」と規制して、未来を見ようとしない、そして自分らの基準だけを拠り所として考えも行動もする<大人・若者>らが台頭しているんではないか。そしてそこには宗教<のようなもの>であったり政治<のようなもの>であったり善意の団体<のようなもの>であったりするものが見えたり隠れたりしているのではないか。
いろいろな言葉を聞いておくことだ。「履きちがえない」ために。