加藤周一「夕陽妄語 − 私が小学生だった時」(朝日新聞2006年6月21日(水)夕刊)

加藤周一夕陽妄語 − 私が小学生だった時」(朝日新聞2006年6月21日(水)夕刊)

世間で子供の教育の話が取り沙汰(ざた)されると、私は自分が小学生であった頃のあれこれを思い出す。そして二つのことを考える。第一に、社会は教育を必要としていること、しかし第二に、どういう教育をすれは、どういう人間ができるかは、誰にもよくわからないということである。その二つのことから、多くの教育制度は、成人(おとな)の社会がみずからの願望を子供たちに押しつける装置となる(あるいはそうなる一面をもつ)。


私の小学校には、その頃すでに中学校の入学試験競争が盛んになろうとしていたが、そういうことには目もくれず、理科の実験に熱心なM先生が居た。学校には「理科実験室」と称する小さな部屋があり、その片隅にM先生は蛙(カエル)の心臓とガラスのパイプとリンゲル液(?)から成る自家製の血液循環模型を置いていた。その模型に注意する子供も教員もほとんどいなかったが、私は深く魅せられたといってよいだろう。授業の休み時間に、私は他の子供と校庭へ駆けだしてゆく代わりに、蛙の心臓の脈拍を見つめていた。そこにはすべてがあった、−蛙と私の身体の共通性、メカニズムとしての人体、複雑な対象を模型に還元する環境理解の方法……、後年私は医者になり血液学を専攻した。
 それはM先生の蛙の心臓の結果だったろうか。それはわからない。M先生に出会わなくても私は血液学を学んでヒロシマヘ行ったかもしれないし、出会ってもその他の条件がそろわなけれは、医者にならなかったかもしれない。その他の条件の多くは偶然に与えられたものだし、いくらかの部分は意識的選択の結果でもあった。どちらも小学校での教育とは深い関係がなかったろう。
 たしかに小学校には「いじめ」もあった。教師の権威と力は圧倒的であったから、教室ではなかったが、校庭や通学の途中にそれはあった。病気がちの子供で、腕力に乏しかった私は、いじめる側に加わったことはないが、いじめられる側にまわったことはある。私には自衛の工夫が必要であった。
 教師や親たちに助けを求めることはできない。私は同級生の中でも腕力のいちばん強そうな子供に接近し、その暴力による保護をもとめた。その代わりに教室で教師から質問され彼が窮地に陥ったときには、秘(ひそ)かに解答を彼に手渡した。そのことに気づかない教師もあり、気がついても黙認していた教師もある。
 そういう取引は中学校ではさらに徹底した。私は今でも日本国の外交姿勢を見ると、小学校での私の「いじめ」対策を思い出す。私はその後かつての「ボディーガード」と親しくなったこともあるが、二一世紀の日本はどうなるだろうか。「いじめ」教育の結果も予想しがたい。
 私の両親の子供−一歳ちがいの兄妹−に対する態度はきびしかった。反抗すれば押し入れに閉じこめられたり、家の外に閉め出されたりした。父は子供の言うこと為(な)すことについての不合理は許さなかった。母はやさしく、寛大で、何事についても強制する
よりは説得しようと努めていた。争いがあれば双方の言い分を聞く。私はそのことに慣れ、学校を含めて家庭の外の社会の習慣が必ずしもそうでないことに強く反発していた。


成人(おとな)は「純真無垢(むく)」な子供を空想することを好む。子供は成人(おとな)に尊厳と誤らない判断を期待する。人は現実認識だけでは生きられない。現実を越えようとする何らかの理想、または幻想と共に生きるのであろう。
 私の小学校は東京の渋谷区にあり、夕暮れには宮益坂からふり返ると西の方丹沢山脈の彼方(かなた)に夕焼けの富士があざやかに見えた。そこで私は日本の「自然」を発見したにちがいない。学校の国定教科書に富士が出てきたかどうかは、今覚えていない。たとえ出てきたとしても、富士への愛着を育てたのは、宮益坂の夕暮れで、国定教科書の月並みで退屈な文句ではなかった。それはまだ歌に「世界の人が仰ぎ見る」というナショナリスティックな考えの流行する以前のことである(「世界の人」のことは「世界の人」に聞いてみなければわからない)。
 小学校はまだ日本の「文化」を強調してもいなかった。教室の壁に『富嶽三十六景』が掲げてあったわけではない。後になって私はいくつかの美術館を訪ね、セザンヌのサント・ヴィクトワール山連作と共に北斎富嶽を知った。そこでの問題は山ではなく、画家の眼(め)であることはいうまでもない。「自然」でなく「文化」。「愛国心」というとき、「国」の内容はその自然(山河)と文化(言語・芸術・社会)であろう。「愛」とはなんであろうか。
 私が小学生であったとき、母に抱かれて経験した「愛」は、一般的抽象的な概念を媒介して自覚されてはいなかったが、母から私への、私から母への、あたたかく、確かで、自発的な、あふれるような感情であった。それはあまりに深い内面的な心情で、それを外面化し、制度化し、公教育に結びつける可能性を、私は想像もしなかった。


その後私は女の眼の中に同じような「愛」の輝きを見たことがある。同じような−ではあるが、母の表情が静かで確かだったのに対し、激しく圧倒的な、ほとんど破壊的な心情であった。またその後私はマルティン・ブーバーの「愛」の定義(『我と汝』)を読んで感動したこともある。彼によれば「愛」とは二人の主体が相互に相手を対象化することなしに持つ主体的な関係である。見事な、狭い定義。それはつまるところ唯一神と人との関係へ導かれざるをえないような洞察である。しかし私はユダヤ教徒ではない。
 私は生涯をふり返ってみて、小学校が愛国心を含めて「愛」について語らなかったことを評価する。人格の統一性の根源は理性ではなく心情の深みにある。その深みについての沈黙は、もちろん私の自己理解に何ら積極的に頁献しなかった。しかし少なくともその後の経験と矛盾するものではなかった。
 「愛」について、その対象の如何(いかん)を問わず今私はソロモンの「雅歌」の一句を信条とする。「愛のおのずから起こる時まで殊更に喚(よ)び起こし且(か)つ醒(さ)ますなかれ」 (旧約聖書「雅歌」、第二章七、第八章四)。