公務員には「思想・信条の自由」がないのか

君が代伴奏拒否:教諭の敗訴が確定 最高裁判決(MSN-Mainichi INTERACTIVE 2007年2月27日(火))

(前略)
判決は、君が代が日本のアジア侵略と結びついているなどとする教諭の考えを「自身の歴史観や世界観に由来する社会生活上の信念」と位置づけつつ「職務命令が直ちに教諭の歴史観や世界観それ自体を否定するものと認めることはできない」と指摘。ピアノ伴奏について「音楽専科の教諭にとって通常期待されるもの」と評価したうえで「命令は特定の思想を持つことを強制したり禁止するものではなく、児童に一方的な思想や理念を教え込むことを強制するものでもない」と述べた。
さらに、職務の公共性に照らして、公務員の人権に一定の制約を認めた過去の判例も踏まえ「職務命令の目的や内容は、学習指導要領などの趣旨にかなうもので、不合理ではない」と判断。命令を合憲と結論付けた。
判決は5裁判官のうち4裁判官の多数意見で、教諭の敗訴が確定した。藤田宙靖(ときやす)裁判官は「斉唱への協力を強制することが本人の信念・信条に対する抑圧となることは明白。伴奏命令と思想・良心の自由の関係を慎重に検討すべきだ」との反対意見を述べた。
(後略)



信じられないような不当な判決だ。予てから憲法判断に踏み込むことをできるだけ避け、国民の最後の砦としての役目を放棄したかのような姿を見せることがあったが、ついに、最高裁は行政の姿勢を追認する機関に成り下がったようだ。
法律論は置いておくが、この教諭だけにピアノ伴奏を押しつける、という点がそもそもおかしいくはないか、と感じている。ピンポイントで白羽の矢を立て、見せしめにされたのかもしれない、今さらながら、そんな感想さえ持ってしまう。教諭は事前に伴奏したくない旨を申し出ており、入学式ではピアノ伴奏の代わりにテープを流すことで滞りなく済んでいる。この学校には「君が代」をピアノで演奏できる教諭が一人しかいなかったのだろうか。そうでないなら「踏み絵」と見られても仕方ないのではないか。
また、毎日新聞が指摘するように、この時期をわざわざ選んだかのような判決にも何かあるのではないか、と勘ぐりたくなってしまう。
こんなことが最高裁の「憲法判断」として定着してしまうなら、公務員は就任時、「思想・良心に反する職務命令も文句を言わずに遂行します」という誓約書に署名を求められることにでもなるのだろうか。時の行政の姿勢により、右に左に流されてしまう不安定な存在になってしまうのであれば、「全体の奉仕者」としての本領を発揮することができなくなるかもしれない。大いに危惧を持つ。


解説:君が代伴奏拒否訴訟・最高裁合憲判決 命令の合理性重視、違憲の基準は示さず(MSN-Mainichi INTERACTIVE 2007年2月28日(水))

(前略)
最高裁は一定の制約は許されるとの前提に立ったうえで「伴奏行為と本人の歴史観、世界観は不可分に結び付くものではない」と指摘し、命令を合憲と判断した。内心に反する行為を命じた場合でも、必ずしもその人の内心自体を否定することにはならないとする判例の立場を踏まえたものだ。
判決はどういう場合に違憲となるかの「判断基準」を示さなかったが、裁判長を務めた那須弘平裁判官は、行政の裁量や秩序を重んじた補足意見を述べた。しかし、判例は行為を命じることが良心の自由を不当に制限する可能性を認めており、行為と内心を完全に切り離しているわけではない。社会常識から見て理不尽な強制が許されないことは当然だろう。



君が代伴奏拒否訴訟:最高裁合憲判決 「なぜ、この時期に」 卒業式目前、教諭ら憤り(MSN-Mainichi INTERACTIVE 2007年2月28日(水))

(前略)
◇最低限の抵抗が…−−成嶋隆・新潟大大学院教授(憲法・教育法)の話
伴奏拒否は、君が代斉唱の強制に対する最低限の抵抗だ。判決は、思想・良心の自由も公務員の職務の公共性に由来する制約を受けるとしたが、多様な価値観が尊重される中で、子供の自由な人格形成を図りたいという教育者としての良心の発揮こそ「職務の公共性」に合致する。校長は、教諭の意思を知りながら職務命令で「踏み絵」を踏ませて懲戒処分にした。これほどの人権侵害を最高裁は追認したことになる。より緻密(ちみつ)な司法審査がされるべきだった。


◇真の論点に触れず−−小林節・慶応大教授(憲法学)の話
判決は筋が通っている内容とはいえ、真の論点には触れていない。教諭が苦痛に思っているのは、自らの良心に反することへの強制という事実。録音テープや他の教諭の演奏など代替手段があってもよかったわけで、教諭が不幸な抵抗を強いられたという実態が判決で述べられていない。公務員として上司の職務遂行命令に従わなければならないとの理屈は分かる。しかし、そもそも国民的合意が深まっていない状況で国旗・国歌法が制定されており、それを強行してきた行政の姿勢が問題だ。



君が代伴奏拒否訴訟:最高裁判決(要旨)(MSN-Mainichi INTERACTIVE 2007年2月28日(水))

(前略)
藤田宙靖裁判官の反対意見
本件における真の問題は、入学式でのピアノ伴奏は、自らの信条に照らし教諭にとって極めて苦痛なことであり、それにもかかわらずこれを強制することが許されるかどうかという点にある。
こういった信念・信条が、国民一般に到底受け入れられないようなものであるのではなく、自由主義個人主義の見地から、それなりに評価し得るものであることも、にわかに否定することはできない。ピアノ伴奏を命じる職務命令と教諭の思想・良心の自由との関係については、こういった見地から更に慎重な検討が加えられるべきだ。
本件の場合(1)入学式進行における秩序・規律(2)校長の指揮権の確保−−という具体的な目的との関係において考量される必要がある。(1)については、教諭は当日になって突如ピアノ伴奏を拒否したわけではなく、基本的には問題なく式は進行している。(2)については、校長の職務命令が、公務員の基本的人権を制限するような内容のものであるとき、人権の重みよりもなお校長の指揮権行使の方が重要なのかが問われなければならない。
教諭の「思想及び良心」の自由と、その制約要因としての公共の福祉、公共の利益との間での考量については、事案の内容に即した詳細かつ具体的な検討がなされるべきである。このような作業を行い、その結果を踏まえて教諭に対する戒告処分の適法性につき改めて検討させるべく、原判決を破棄し、本件を原審に差し戻す必要がある。



主要各紙の論調は以下の通り。


社説:君が代判決 「お墨付き」にしてはいけない(MSN-Mainichi INTERACTIVE 2007年2月28日(水))

(前略)
本来教育のありようや運営法は司法が決するものではない。行政当局が安易に「これでお墨付きを得た」とばかり一律の統制を強化するようでは、ますます亀裂や混乱を深めることにもなろう。
(中略)
学校教育現場の視点からいえば、この判断を絶対的な物差しにすることには無理がある。ケースによって状況はさまざまだ。例えば今回、教諭は式前日から「伴奏はできない」と校長に答えていたが、ならばその裁量でもっと柔軟に対応し、解決する手立てはなかったのか。
また、判決は、公務員としての職務命令服従の必要はいうが、無制限に強圧的な命令を認めているわけではない。
(中略)
「正常化」を名目に一律に抑え込むような処分は、殺伐とした空気を生むだけになりかねない。その時、しわ寄せをこうむるのは敏感な子供たちである。
現在教育政策では、教員免許更新制、教育委員会改革などをめぐって議論が続いている。特に教委については国の権限強化について学校教育現場を抱える自治体や教委などから反発や疑問、不安が次々に出て、国側と対立している。
それは地方分権に反するというだけではないだろう。「上」からの締め付けが最も効果的ととらえるような空気が、教育行政に次第に広がっている。そんな流れが感じられてきたからではないか。
戦後学校教育の原点は「自治」であり、特に学校現場の裁量に期待されるところが大きい。そのことを改めて確認しておきたい。



【社説】国歌伴奏判決 強制の追認にならないか(asahi.com 2007年2月28日(水))

(前略)
たしかに、入学式に出席する子どもや保護者には、君が代を歌いたいという人もいるだろう。音楽教師が自らの信念だといってピアノを弾くのを拒むことには、批判があるかもしれない。
しかし、だからといって、懲戒処分までする必要があるのだろうか。音楽教師の言い分をあらかじめ聞かされていた校長は伴奏のテープを用意し、式は混乱なく進んだのだから、なおさらだ。
(中略)
今回の判決で心配なのは、文部科学省や教委が日の丸や君が代の強制にお墨付きを得たと思ってしまうことだ。
しかし、判決はピアノ伴奏に限ってのものだ。強制的に教師や子どもを日の丸に向かって立たせ、君が代を歌わせることの是非まで判断したのではない。
(中略)
私たちは社説で、処分を振りかざして国旗や国歌を強制するのは行き過ぎだ、と繰り返し主張してきた。
昨年12月、教育基本法が改正された。法律や学習指導要領で定めれば、行政がなんでもできると読み取られかねない条文が加えられた。
行政の行き過ぎに歯止めをかけるという司法の役割がますます重要になる。そのことを最高裁は改めて思い起こしてもらいたい。



社説(1)[「君が代」判決]「『思想・良心』の侵害はなかった」(YOMIURI ON-LINE 2007年2月28日(水))

(前略)
教育現場の国旗・国歌指導をめぐる混乱に一定の歯止めがかかることが期待される。
(中略)
教師には、公務員として上司の職務命令に従う義務があること、学習指導要領などの法規で国旗・国歌の指導が定められていることなどを考え合わせ、職務命令を合憲とした。妥当な判決だろう。
(中略)
昨年9月、東京地裁で特異な判決が出た。都立高校の入学式などでの国歌斉唱を義務づけた都教育長の通達と校長の職務命令が、教師の思想・良心の自由を侵害し、違憲、違法だと判断した。
最高裁判決に照らせば、ここでも、教師らの歴史観、世界観を否定し、特定思想を強制するために職務命令が発せられたとは認定されないのではないか。
問題なのは、一部の教師集団が政治運動として反「国旗・国歌」思想を教育現場に持ち込んできたことだ。国旗・国歌法が制定され、教育関連法にも様々な指導規定が盛り込まれている現在、そうした法規を守るのは当然のことだ。
卒業・入学式シーズンが近い。児童や生徒たちを厳粛で平穏な式典に臨ませるのも学校、教師の重要な役割である。



【主張】君が代伴奏拒否 最高裁判決は当たり前だ(Sankei Web 2007年2月28日(水))

(前略)
今回の最高裁判決は、1・2審の判断をほぼ踏襲した極めて常識的なもので、当然の結果であろう。
(中略)
この音楽教諭の主張は、どうみても理解しがたい。たしかに、思想・良心の自由は憲法で保障されている。教諭といえども、どのような思想を持つかは自由である。
しかし、女性教諭は市立小学校の音楽教諭というれっきとした地方公務員であることを、全く自覚していない。入学式という学校の決められた行事で君が代を斉唱するさい、ピアノ伴奏をすることは音楽教諭に委ねられた重要な職務行為ではないか。
校長がピアノ伴奏を命じたのは、職務上当たり前の行為である。これが「憲法違反だ」というのは、あまりにも突飛(とっぴ)で自分勝手な論理である。これでは到底国民の支持も得られまい。