小熊英二「〈民主〉と〈愛国〉」インタビュー

小熊英二さん『〈民主〉と〈愛国〉』を語る(上)「『七人の侍』をみて、「これが戦後思想だな」と思った」

■「つくる会」に対抗したかった
――小熊さんにこれだけの大著を書かせた動機はなんだったのですか。
★前著の『<日本人>の境界』で戦後沖縄の復帰運動を書いたこととか、いろいろありますけれど、一つには90年代に「新しい歴史教科書をつくる会」が出てきたり、加藤典洋さんの『敗戦後論』をめぐる論争が盛り上がったりしたことです。私にいわせれば、あれは「戦争の歴史認識を論じる」というかたちをとって、「戦後という時代をどう考えるか」を論じていたといってよいと思う。「戦争」は「戦後」のネガであるわけですから、「あの戦争をどう位置付けるか」は、「戦後日本をどう位置付けるか」とイコールであるわけです。
しかし当時の私の知っている範囲から見ても、議論の前提になっている「戦後」の認識が間違いだらけだということが、はっきり分かった。例えば小林よしのりさんの『戦争論』は、戦争に対する無知ばかりでなく、戦後史に対する無知に基づいて書かれています。
ところが小林さんや「つくる会」を批判するにあたって、戦争の歴史認識が誤っているという話は多かったけれど、戦後の認識が誤っているという意見は非常に少なかった。つまり、小林さんや「つくる会」を批判する側も、戦後認識があやふやだということです。そこで戦後について、きちんと押さえておかなければいけないなと思った。
それからもう一つ、私は小林よしのりの『戦争論』を読んで、共感はしなかったけれど、「これは売れるだろうな」と思った。記述は間違いだらけだけど、今の時代の気分というか、現代社会に対する漠然とした不満をつかまえていると思ったからです。
たとえば『戦争論』の冒頭は、渋谷の街頭でサラリーマンがぼんやりした顔で歩き、女子高生が座りこんでいる絵が書かれて、「平和だ…。あちこちがただれてくるような平和さだ」「家族はバラバラ、離婚率は急上昇、援助交際という名でごまかす少女売春、中学生はキレる流行に乗ってナイフで刺しまくり」などと書かれている。そして「戦後の日本」は、アメリカに影響された「戦後民主主義」のもとでミーイズムと利己主義が蔓延し、モラルが崩壊してしまった時代であるとされ、それに対照させて「人びとが公に尽くしていた時代」としての戦争や特攻隊が美化されているわけです。
つまりあの本は、正確にいえば「戦争論」ではなくて、「戦後批判論」なんです。もちろんこうした戦争認識、戦後認識は大間違いなのですが、ミーイズムにうんざりし、「公」と呼ばれるものを求めたり、何らかの形で政治や社会に関心を持ちたいという今の若者の気分はとらえている。だから『戦争論』は売れるだろうなと思った。
それからほぼ同時期に、ある映画館で黒澤明特集をやっていて、見に行ったら初回が『七人の侍』だった。そして映画館は満員で、上映が終わった途端に満場の拍手になった。私はそのとき、「なるほど。こういうのが受けるのが、今の時代の気分なんだ」と思った。『<民主>と<愛国>』でも引用したように、『七人の侍』のハイライトの一つは、侍の主将が戦闘から逃れようとする農民に向かって、「他人を守ってこそ自分も守れる。おのれのことばかり考えている奴は、おのれをも亡ぼす奴だ」と一喝する場面ですからね。
もっともこういう風潮というのは、あながち悪いことばかりでもない。最近、イラク反戦デモに多くの人々が集まったことが注目されましたが、それと小林よしのりの『戦争論』が売れるというのは、ある種共通の土壌から出ていると思う。つまり、「今の社会には不満だ。何か社会に関心を持ちたい」というエネルギーが、潜在的に鬱積している。そもそも小林よしのりさんも、薬害エイズ運動を経てきた人です。
しかしそういう潜在的なエネルギーを、侵略戦争の賛美とか、「戦後民主主義はミーイズムを蔓延させたから憲法改正だ」とかいう方向にもっていかれてはたまらない。ここで戦後認識をきちんとしておけば、そういう潜在的エネルギーをよりよい方向にもっていけるのではないかと考えたのが、『〈民主〉と〈愛国〉』を書いた動機の一つです。
まああとは、「つくる会」への単純な対抗意識ですね。「つくる会」の設立趣意書は、彼らが作る教科書の理想として、「私たちの祖先の活躍に心躍らせ、失敗の歴史にも目を向け、その苦楽を追体験できる、日本人の物語です。教室で使われるだけでなく、親子で読んで歴史を語りあえる教科書です」と述べている。
誤解を恐れずに言えば、それを読んで、そういうものがいまの風潮として求められているなら、私が彼らよりもっとましなものを書いてやろうじゃないかと思った。「日本人の物語」という部分はともかく、「祖先の活躍に心躍らせ、失敗の歴史にも目を向け、その苦楽を追体験できる」という本を書いてやろうと。実際に『〈民主〉と〈愛国〉』を読んだ学生たちが、「戦争ってこんな感じだったんだ」「日本にも60安保闘争みたいなすごい社会運動があったんだ」とか言っているのを見て、あるていど成功したかなと思っています。


■黒澤映画が描く戦後という時代
――『七人の侍』の話が出ましたが、『〈民主〉と〈愛国〉』でも何度か黒澤映画についてふれていましたね。
★あの本では、現在の価値基準から戦後思想の限界を指摘することよりも、そういう思想が出てきた当時のメンタリティを再現することを重視しました。そういう敗戦直後の時代のメンタリティを理解するのに、黒澤の映画は参考になりました。
先ほど話したように、ある映画館で黒澤映画の特集をやっていて、その最初が『七人の侍』でした。ちょうど研究の初期だったんですが、そのときこの映画を見直してみて、戦後のメンタリティというのはこういうものだったのかと、つかめた気がしたのです。
七人の侍』というのは、戦後思想の心情的な特徴を集約したような映画だと思います。例えば農民と侍の対比ですね。農民は卑屈で、自分では何も決断できなくて、権威に従うだけの存在。それに対して侍は、誇り高く自立していて屈することがない。『〈民主〉と〈愛国〉』を読んだ人にはわかると思いますが、丸山眞男大塚久雄が批判した「封建的」な人間像と、「近代的」な「主体性」を備えた人間像の対比は、まさにああいうものです。
そういう侍たちが、そのどうしようもない農民たちに竹槍訓練を施して、野武士に立ち向かう団結を築くわけですね。『〈民主〉と〈愛国〉』の注にも書きましたが、『七人の侍』が公開された当時、多田道太郎は、この映画は知識人と農民、いうなれば前衛と民衆が、いかに連帯できるのかというテーマを描いたものだと評した。黒澤明自身は、そんなことは考えていなかったと思いますが、そういうふうにみられる土壌があった。『七人の侍』の公開は一九五四年ですから、占領中のチャンバラ映画禁止が解けた直後の時代に作られたわけですが、それは同時に山村工作隊の時代でもあったわけです。
一般の観客にしても、竹槍訓練の場面をみて、10年前の戦時中の記憶が蘇った人は多かっただろう。10年前に自分たちが経験した戦争では、実際の軍部や政治家は、作戦も拙劣なうえに官僚主義的で無責任で、おまけに卑怯で利己主義で、国民に多大の犠牲を強いたうえに敗戦の責任もとらなかった。そういう戦争を体験した人びとは、「本当はこんなふうに戦いたかった」という気持ちでみていたとしても不思議はなかったと思う。
七人の侍』は、いうなれば敗戦後の日本で、「理想の戦い」を描いた映画です。やむにやまれぬ自衛の戦いのなかで、みんなが相互の対立とエゴイズムを乗り越えて連帯してゆくわけです。知識人も一般大衆も、右翼も左翼も、共感する土壌があったでしょう。
そして最後の場面で、侍の主将は「また負け戦だったな」という。負けたものこそ正しいんだというメッセージを残して、映画は終わる。日本はほんの10年前に負けているわけですから、「正義は勝つ、悪は負ける」というストーリーでは救われないわけです。
そういうことを頭において『七人の侍』を見直してみると、丸山眞男にも竹内好にも鶴見俊輔にも、みんな相通ずるメンタリティを感じる。それから顔です。
――カオ?
★最近の映画とは、出演者の顔が違う。ちょっと曖昧な記憶なんですが、80年頃に映画監督の浦山桐郎だったと思いますが、「黒澤明さんはいい時代に映画をつくった。『七人の侍』では村人の脇役にいたるまで、みんなすごい顔をしている。もうあんな顔をした人間を集めることはできない」と言っていました。
たしかに当時の日本には、戦争で殺人をしたことがある人、自分が殺されそうになった人、飢えや犯罪を経験した人、人間がそばで死ぬのを経験した人などがたくさんいた。しかも、まだ記憶が生々しいわけです。そういう人間の顔を集めて映画をとれば、それだけである迫力は出るでしょう。
『<民主>と<愛国>』では、表紙の写真が好評だったんですが、やはり顔に味があると思う。47年の天皇の広島巡幸の写真で、原爆ドームの前で群衆が天皇にむかって叫んでいるのが写っているのですが、歓迎しているのか怒っているのか、喜んでいるのか泣いているのか、よくわからないような顔をしている。わけのわからない感情が人びとにたまっていて、とりあえず巡幸にきた天皇にむかって噴き出している、という感じを受けます。
そういうことを念頭において、たとえば『仁義なき戦い』とかも見てみたんですが、ダメでしたね。73年の映画ですから、顔が全然違うのです。敗戦直後の焼け跡闇市を描いていても、雰囲気が出てこない。
それで『七人の侍』のあと、その映画館の黒澤特集を一通りみてみました。それで感じたのは、『七人の侍』に限らず、黒澤というのはまさに「戦後」の監督だったということです。私が『〈民主〉と〈愛国〉』で述べた、「第一の戦後」にあたる一九四五年から五四年までが、黒澤映画の一番面白い時期です。
そのあと、原水爆問題を描いた『生きものの記録』が55年に公開されるわけですが、どこか歯車がずれはじめている。そのあとの『隠し砦の三悪人』や『用心棒』などは、映画としての完成度は高いのですが、もう時代とシンクロしているようには思えない。そして65年の『赤ひげ』を最後に、そのあとは「絵巻物語り」ですね。ものすごい大作なんだけれど、どこか空虚な感じになっていく。これはもう、戦後思想がたどった軌跡そのものといってもよいと感じました。
七人の侍』などに比べて有名ではないですが、そのとき見て印象に残っている黒澤映画に一九五〇年の『醜聞(スキャンダル)』があります。三船俊郎が新進画家の役で、志村喬が堕落した弁護士の役で出てくる。正義感の強い三船役の画家が、知人の女性の名誉毀損裁判で、志村喬の弁護士を雇う。そして、志村喬の弁護士は一抹の罪悪感をもちながら裏で買収されかかるんですが、そのとき三船と飲んだくれる場面が印象的です。
志村の弁護士が住んでいる焼け跡のスラムに、泥沼がある。泥沼のモチーフは黒澤の映画に何度も出てくるわけですが、その泥沼に星が映っている。二人とも酔っぱらっていて、弁護士の志村喬の肩を抱いて三船が言うんです。「見ろ。あの泥沼にもこんなに星が光ってるじゃないか。どうしようもない人間でも……」って。そのシーンを見て、ああこれだな、これが戦後思想だと思った。後の時代からみれば歯の浮くようなヒューマニズムの「星」は、敗戦の焼跡とスラムの泥沼を背景にしてこそ、光り輝いていたわけですよ。
それから星を眺める直前のシーンでは、汚い飲み屋で、三船や志村のほか、たくさんの客がみんな飲んだくれている。ちょうど年末で、一人の酔っぱらいが立ち上がって、「諸君、今年は本当にどうしようもない年だった。でも、来年こそは、来年こそは」と叫び、それからみんな泣きながら合唱しはじめるんです。この「来年こそは」「来年こそは」というのが、戦後思想の「進歩主義」を支えていた心情だったと思いますね。


■思想が栄える時代は不幸な時代
――戦後思想であれ黒澤映画であれ、戦争体験・敗戦体験が活力の源となっていた。そうした現象は戦後日本特有のものなのでしょうか。
★日本の戦後が特殊なわけではないでしょう。『〈民主〉と〈愛国〉』にも少し書きましたが、「フランス現代思想」として日本に紹介されたものは、じつは「フランス戦後思想」という側面があったと思いますね。年齢からいっても、アルチュセール加藤周一、バルトと丸山眞男ドゥルーズ鶴見俊輔デリダ江藤淳などは、ほぼ同じです。
戦争体験についても、ブローデルアルチュセールは捕虜収容所に何年もいたりしている。レヴィ・ストロースも兵隊にとられ、そのあと亡命しています。そういう人たちの思想が戦争体験から何の影響も受けなかったと考えるほうが、かえって不自然でしょう。フーコーも、『〈民主〉と〈愛国〉』で引用したように、「私はほぼ確信しているのですが、その当時(第二次大戦当時)のフランスの若い男女の大部分が、まったく同じ体験をしたからです。それは、私たちの個人的な生への脅威だったのです」「そこにこそ、私の理論的欲求の核になるものがあるのですよ」と述べています。
そこで考えると、フーコーは、なぜあれほどフランス共和国の公の理念である「近代」や「理性」を憎むのか。同性愛者だったからという理由も、もちろんあるでしょう。しかし思うに、戦前は人民戦線の共和国だったフランスが、ナチスに占領されて4年間ぐらいは、政治家や大人たちの態度がいきなりひっくり返って親独政権ができ、ユダヤ人狩りとかをやっていたわけでしょう。ところが連合軍が入ってきたら、またいきなり反ナチスにひっくり返った。そうした事態を10代後半でながめていたら、国家の掲げる公の理念なんて信用できない、という感覚が身についても無理はないのじゃないか。
ついでに言えば、フーコー吉本隆明とほぼ同世代です。吉本さんは明らかに、「聖戦」を掲げていた国家や大人が民主主義礼賛にひっくり返って、裏切られたという思いがある。ある時代に支配的なディスクール(言説)なり、共同幻想というものは、簡単にひっくり返るものなんだという感覚は、フーコーと吉本に共通していますね。フーコーの著作というのは、ある支配的な言説が一度ひっくり返り、またまたひっくり返って近代に至った、という筋書きばかり書いていたと思います。
こうした体験をするという事態は、いつの時代のどこの国でも起こりうることです。それこそ現在、イラクアフガニスタンユーゴスラビアで、人びとが経験していることでもあるでしょう。この本を書いていてつくづく思ったけれども、思想が栄える時代というのは不幸な時代ですね。
しかし逆にいえば、不幸な時代のほうが、思想が栄えるともいえる。私は出版社で編集の仕事をしているころから、いろいろマスメディア上の文章を読んできましたが、著者があんまり真面目に書いていないなというか、依頼があったからとりあえず書いているなと思うような文章がたくさんあるわけです。あるいは、力んで書いているのだろうけれども時代とシンクロしていないとか、または「これは『ごっこ』だな」みたいな文章もある。
それに対して、敗戦直後のものをいろいろ読んだときに、これは本気で書いているなという文章が多いことが印象に残った。もちろん敗戦直後にも、くだらないものはたくさんあります。しかし戦争と敗戦で生活が破壊され、みんなひどい体験をした時期ですから、さすがに真剣にものを考える人が多かったんでしょう。この迫力はいったいどこから出てくるのか確かめてみたいというのが、研究を深める動機の一つにもなりました。
しかしその真剣さも、敗戦後10年ぐらいしかもたなかった。年代で言えば1955年、黒澤映画が時代とシンクロしなくなったのと同じ頃までです。やはり人間は、考えなくてすむ環境にいたら、ものを考えなくなるのでしょうか。敗戦直後は、本当に考えないとどうしようもない環境にいたから、考えたもいえますね。
――戦後思想というとすでに「終わった思想」という感じがして、ほとんど読みもせずに近代個人主義のエゴイズム、敗戦後のニヒリズムの思想とイメージしていました。
★いや、私も似たようなもので、研究するまでは詳しく知っていたわけではありません。だけど詳しく知らないという感覚から出発したから、あのような研究になったのだと思う。戦後思想の同時代にいた人は、戦後生まれの人間が戦後思想や戦後社会のどこを知らないか、どこを新鮮に感じるかわからないから、ああした形にはまとめないと思います。
ただ戦後思想が「近代主義」でエゴイズムだというのは、半分は正しいと思います。ただ、そこでいう「近代主義」や「エゴ」が、『七人の侍』の侍たちのようなイメージだったということは、今の人びとには当時のメンタリティを再現してみないとわからなくなった。
まあそれに、戦後知識人たちを含めて人間は、わけてもインテリは、大なり小なりエゴイスティックなものですよ。丸山眞男荒正人鶴見俊輔も、基本的にはかなりひねくれたタイプの人間です。竹内好なんて、すごく内向的な人ですしね。
例えば鶴見俊輔なんて、平和な時代に育っていたら、ただのひねくれ坊主で終わった可能性もある。丸山眞男だって、頭もいいし勘もいいけれども、もとは単なる優等生です。戦争がなかったら、多少時事的評論もこなす研究者で終わったでしょう。素質としては、いまマスコミに出ている評論家や研究者とたいして変わらないと思う。ところが戦争でひどい目にあった結果、時代や社会と正面から向き合わざるを得なくなった。
丸山も鶴見をはじめ、敗戦直後にマルクス主義にストレートに行かないで、あえてそれ以外の道筋でもの考えようとした人達は、多かれ少なかれひねくれた人です。そういうひねくれ者たちが、戦争と敗戦の経験をくぐり、一人でひねくれているエゴイストではやっていけないと真剣に考えざるをえなくなって、戦後思想が生まれたわけです。
だから60年代になって生活も安定してくると、社会と向きあおうという志向はいささか薄れてゆく。丸山眞男なんかも、67年頃の対談では、「天下国家論よりは音楽なんか聞いているほうが楽しい」と言っている。元々はそういうタイプの人なんです。だけどそういう人が、社会や国家のことを考えざるをえない時代にぶちあたってしまったわけですね。
――不幸な時代にはみんな真剣に考えたけれども、社会が安定し生活が豊かになるとともに戦後思想はその活力を失ってしまったと?
★非常に平凡だけれども、そう言ってしまってもいい側面はあるでしょうね。
だけど今の時代からみて興味深いのは、丸山眞男荒正人竹内好も、みんな共産主義や社会運動に幻滅した地点から再出発していたことです。一九三〇年代の共産主義運動が弾圧や武装闘争、リンチ事件などのなかで崩壊し、多くの元党員が転向して戦争協力に走ったのを見て失望を味わった世代なんです。それが敗戦でもう一度社会に向き会わざるをえなくなって、共産主義に頼らない思想を生み出そうと試みた。
日本の社会運動の歴史からみてマイナスだったのは、そういう努力が「戦後民主主義」などと一括されてしまい、遺産が継承されなかったことですね。そして68年の全共闘運動以後に、丸山たち年長世代を批判して切り捨てた世代が、また弾圧やリンチ事件、そして共産主義運動への失望という径路をくりかえすことになった。
『<民主>と<愛国>でも書いたように、60年代や70年代に新しい考えだと思われていたものも、じつは50年代に原型があったのに、若い世代が知らなかっただけというものもある。いつもゼロから始めて同じ失敗をくりかえすという、いわば堂々巡りの状況を何とかしたほうがいいと思ったことも、あの本を書いた動機になっています。



小熊英二さん『〈民主〉と〈愛国〉』を語る(下)「度量の広さは大切なこと」

■60年安保の全学連と68年の全共闘
――60年安保闘争全学連に関する記述は好意的ですね。
★まあ好意的といってもいいでしょう。ただし、彼らが賢かったとは思いません。冷たい言い方に聞えるかもしれませんが、全共闘運動や60年代の新左翼も含めて、20歳かそこらの人間が上の年代と縁を切って運動をやっても、思想的ないし政治的に賢いものが出てくる確率は少ないと思う。
ただ60年安保闘争の全国民的な――あえてこういう言い方をしますが――盛り上がりをもったときに、全学連主流派はそれなりの役割を果たした。つまり若者の純粋さというか、直情径行な直接行動が、一種の起爆剤の効果をもった。
国会突入を繰り返す全学連主流派のデモを、回りの大人たちは半分あきれて見ていたようですけれど、その純粋さや真摯さに刺激されて、運動が広がっていったわけです。それはいわば、枯葉がたくさんあるところにマッチをすったようなものです。
学生という存在そのものも、60年と68年では大きく違っていた。60年にはまだ進学率が低く、学生という存在があまり大衆化していなくて、社会的に尊敬されていた。そういう「学生さん」ががんばっている、ということが人びとを動かしたわけです。
大学の先生と学生の関係も、60年安保の時は慨して良好です。学生たちが突っ込んでいくのを、一緒にデモにきた先生たちが心配して見守っているという関係だった。竹内好が書いているように、学生たちが先生に、社会的な問題を考えるために学問を教えて下さいと指導を求めてくるという状況もあった。国会突入で死んだ東大生の樺美智子の遺稿集にも、運動もやりたいけれど、卒論も立派なものを書きたいと書かれています。
68年は全然違う。全共闘の学生たちは「大学解体」をスローガンに掲げ、大学で勉強したり研究したりすることじたいがよくないという方向に向かっていった。よいか悪いかは別として、60年の場合には、樺美智子のように、学生らしく勉強もしたいけれど、その勉強をあえて放棄してデモに行くという姿勢が、一般国民に好評だったことは事実でしょう。
60年安保闘争での学生運動というのは、ある意味で古いタイプ――発展途上国型の学生運動だと言っていいと思う。これも樺美智子が述べていることですが、労働者は生活があるから、生活に支障があるような闘争はできない。だから直接行動は学生が担うという。学生が特権層であることをはっきり意識したうえで、全共闘のようにその特権を自己否定するというのではなく、特権層としての役割と責任を担うという姿勢です。こうした形態は、途上国の学生運動によくある形で、中国の五・四運動や80年代までの韓国の学生運動などはこうしたタイプに近い。こういう姿勢が、庶民の尊敬と共感をよんだわけですね。
『〈民主〉と〈愛国〉』が60年安保闘争全学連主流派を好意的に描いているように見えるとするならば、それは私が意図して好意的に描いたというより、当時の多くの人々から彼らが好意的に見られていたからだと思いますね。私は当時の資料を集めて並べ、当時のメンタリティを再現しようとしただけです。
ただし西部邁さんが自治会の不正選挙のことなどを回想しているように、当時の活動家たちが「純粋さ」だけでやっていたわけではないと思う。ここでいうのは、主流派のデモに参加した一般学生たちを含めた、総体に対する当時の評価の話です。
それに対して、上野千鶴子さんと対談した時などは、全共闘吉本隆明に冷たいと言われた。しかしそれも、当時の雰囲気のなかで、戦争体験世代の「大人たち」からは全共闘がそのように見られていたという事実を書いたつもりです。
吉本隆明についていうと、彼の著作を集中的に読んだのは、今回が初めてです。理解しようとできる限り努力したつもりですが、正直なところ好きにはなれなかったですね。もしかしたら、20歳前後で読めば、もうちょっと違ったかもしれない。でも30代後半になって初めて読んだのでは、50年代から60年代の吉本さんが使う「反逆の息子」とか「壊滅的な徹底闘争」とかいうフレーズには、共鳴できないと感じた。
ピエール・ブルデューは、フーコーを批評して「青少年向きの哲学者」と言っています。フーコーはそれだけの存在だったとは思いませんが、60年代の吉本さんの影響のあり方については、ちょっとそういう印象を感じますね。ああいう戦闘的ロマンティシズムというか、「壊滅的な徹底闘争」で「擬制」を倒せみたいな思想として吉本さんの著作が若者にうけてしまったというのは、全共闘新左翼を政治的な観点から評価すれば――文化的な観点から評価すれば別の基準があるでしょうし、「政治」と「文化」がそうはっきり分けられるのかという疑問もあるでしょうが――幸せなことではなかったと思う。
私が『〈民主〉と〈愛国〉』で述べた見方では、吉本隆明の思想が残したおもな政治的効果は、党派や社会運動、あるいは「公」の解体を促進したということだった。彼の力で解体したわけではないけれども、解体を促進する触媒としての機能を果たしたと思います。
ただ吉本さんの文章は、おそらく当時から相当に誤読もされていただろうとも思います。だから吉本さんの思想が社会運動を解体したというと、反論する人もいるでしょう。あるいは『〈民主〉と〈愛国〉』で、吉本さんがじつは戦中に兵役を免れたことに罪責感をもっていて、その罪責感から「死ぬまで闘う皇国青年」みたいなイメージを作っていたことを書いたことで、自分の吉本イメージとちがって驚いたという人もいると思います。
そういう人に幾人かお会いしましたが、そのときはこういう言い方をしています。吉本という人は、要するに思想家というより詩人なんだと。吉本さんの文章は、私が書いたようにその内容をダイジェストして、要するにこういうことを言っていますみたいな形にしてしまうと、特有の魅力が発揮されなくなってしまう。詩のあらすじを書いてしまうようなものですから。だから、「確かにあらすじはそうかもしれないけれど、私のあの感動した心はどうしてくれる」みたいなことをいう人の気持は、否定しません。
だけどそれは、あくまで文学的な次元の話です。もし吉本さんや、あるいは江藤淳さんもそうですが、ずっと詩や文芸評論だけを書いていたら、私はこういう研究で彼らをとりあげる必要はなかったでしょうし、批判をすることもなかったでしょう。しかし彼らが政治評論を書いて、そういう方面で影響を与えてしまった以上は、当人も批判の俎上に乗せられることを覚悟するべきだと思います。


■柔軟さに学ぶ
――べ平連にはやけに好意的な感じがしました。
★最後の章はベ平連についても書いていますが、基本的には鶴見俊輔小田実の思想について論じているのであって、ベ平連についての記述は最低限にとどめました。注でも、運動の経緯に詳しい人には、ベ平連の描き方が「やや概略的かつ公式的と感じられるかもしれない」が、「本章の対象は……彼ら〔鶴見と小田〕の思想がべ平連(とくに初期)の活動といかに関連していたかである」と書いておきました。
ベ平連の活動も、65年に発足してから74年に解散するまで、いろいろな変遷があったのは一応知っています。べ平連も末端レベルまでいけば、鶴見さんや小田さんの思想とはあまり関係のない世界が広がっていたとも思います。しかし、別にそういうことを含めたベ平連の評価を書こうと思ったわけではないですから。
私自身、鶴見さんと小田さんについて、ちょっと記述が甘いかなと思わなかったわけではありません。私も出版社にも長く勤めましたから、彼らや元ベ平連メンバーのいろいろな噂や評価も聞きましたし。しかし今回、あらためて鶴見さんの50年代の文章とか、小田さん60年代の文章とかを読んでみて、こんなに面白かったのかと再発見したことは確かです。これは小田さん自身が書いていることですが、人間は一生ずっと百点満点ということはありえないけれども、ある時素晴らしいということは誰にでもあるわけです。
それから、鶴見さんと小田さん、そしてベ平連でこの本を終わらせたのは、あまり暗い終わり方にしたくなかったという理由もあります。60年安保闘争から全共闘運動、そして新左翼と進んでいったら、内ゲバの話にならざるを得ない。それで連合赤軍事件で終わったら、ちょっと救いがない。その点ベ平連は、ベトナムから米軍が撤退したあと、74年1月に役目が終わったということで解散していますし、内ゲバもほとんどなかった。ですから、これで『〈民主〉と〈愛国〉』もきれいに終わらせようと判断したわけです。
書いていたときに考えていたのは、いまの20歳前後の何も知らない若い人たちが読んで、希望が持てるような本にしたいということでした。まかり間違ってこの本が戦後史の基本文献になったりする可能性を考えると、いくらかでも日本の社会運動に対して、希望があるような終わらせ方をしたかった。
全共闘運動や新左翼にも、いい点はあったと思う。しかし20歳前後の、しかもほとんど男ばかりが集まって先鋭化していったのは、いい結果を生まなかったと思います。
全共闘新左翼のマイナス点の一つは、やはり年長者を切ったことだと思う。あれをある種のカウンターカルチャー的な運動だったとみなせば、年長者と決別したことで文化的に面白いものが出てきたという評価もありうると思います。しかし一方で、思想面や運動面では、実りの少ないものになってしまったのではないか。
もちろん当時なりの事情があったろうし、一概には言えないと思いますが、例えば50年代前半の共産党の火炎瓶闘争時代や、内紛やリンチを体験した人間があるていど混じっていたら、ちょっと違っていただろう。新左翼の一番上の方には、年長者が一人や二人はいたわけですが、その一人や二人は、運動をより先鋭化しようとする一人や二人だった。そうではなく、いろいろな経験を積んだ年長者が例えば10%ぐらいいて、多様な意見を言っていたら、武装闘争の暴走や内ゲバの激化にはならなかったと思います。
そういう点からいうと、ベ平連には、そういう年長者がかなりいた。事務局長の吉川勇一のように、活動家としてはベテランで、しかも共産党内紛期にリンチ事件の凄惨さを経験していた人が、裏方をやっていた。
本を書いたあと、鶴見俊輔さんに会って話を聞いたのですが、ベ平連に警察のスパイらしい人が入ってきたとき、どう対処したかという話が面白かった。自由参加が原則だから入ってくるのは拒めないし、査問とかはやりたくない。しかたがないから、会合と称して夕飯を食べ、飲み屋に行き、深夜喫茶をはしごし、スパイらしき人が帰ってしまうまでそれを続けて、夜明け近くになってから重要なことを決めていたという。「食い倒れ作戦」とか呼んでいたそうですけど(笑)。
またベ平連の脱走兵支援活動で、あるとき脱走兵の一人が気弱になって「もう脱走をやめて隊に帰る」と言い出し、ほかの脱走兵と喧嘩になってしまった。そういうときに、「裏切者」とか問い詰めてもしかたないから、鶴見さんは「せっかく脱走したんだから、隊に帰る前に日本で行ってみたいところはないか」と聞いて、みんなで銭湯に行った。それで午前中の誰もいない銭湯で、窓から日光が入ってくるなかでみんなでお湯に漬かっていたら、その脱走兵が気を取りなおして「やっぱり頑張ってみる」と言ったそうです。
こういう姿勢は、ある意味では「いいかげん」ともいえますけど、ある意味では余裕のある知恵というか、柔軟さというか、太っ腹さともいえる。こういう姿勢が、連合赤軍などにもあったら、事態は違っていたでしょうね。
ベ平連の組織論やスローガンそれ自体は、別に特筆してどうのこうのというものじゃないと思います。中心的な指導部が全体を統制するのではない、ある種のネットワーク型の組織というのは、工業化した社会の運動はみんな自然発生的にそうなっています。いまでは自民党だって、「新しい歴史教科書をつくる会」だって、ネットワーク型の組織になっているし、「普通の市民」とか言っています。
だからべ平連から学ぶものがあるとすれば、組織論よりも「柔軟さ」というか「太っ腹さ」だと思う。それは、異なるものを排除しないという論理につながる。10のうちの1つでも意見が共通していれば、一緒にやればいいじゃないか。今回一緒にやるからと言って、次回も一緒にやらなくたって別にいいじゃないか。またの機会に一緒になるなら、それもまたいいじゃないかという、「来る者は拒まず、去る者は追わず」みたいな余裕の感覚ですね。それは「幅広く取り込む」とかいう、組織拡張志向とは別の問題です。
本にも引用しましたが、66年ごろ吉川勇一が「先日のデモはとうとう40数人しか来なかったのですが……」とこぼしたら、鶴見俊輔は「驚いたなあ、40何人も来たのですか?凄いですねえ」「小さいことはいいことだ」と言ったという。営利事業じゃあるまいし、「お客」の数さえ多ければ偉いというわけでもない。「幅広く取り込む」とかいうのは嫌らしいけど、こういう「来る人は歓迎します、来ない人はご自由に」の姿勢はいいですよね。


■社会運動があってしかるべき時代
――今後の日本の社会運動についてはどう思われますか。
★『〈民主〉と〈愛国〉』を読んで、なるほど戦争体験が生きていた時代には思想も社会運動も生き生きとしていた、それと比べると今の日本は本当にダメだというふうに思った方も、いらっしゃるかもしれません。しかし、あまりそういう発想の仕方をしても意味がないと思う。戦後思想は、敗戦直後にはリアリティがあったというだけのことです。時代が変わったらリアリティを喪失するのは当然です。今の時代には、今の時代に即した思想や社会運動のあり方を考えればいい。
むしろ今の日本は、一時期よりも、社会運動が盛り上がる素地ができてきたように思う。まず「新左翼後遺症」が、30年たってようやく抜けた。私の身近にいる大学生にリサーチをかねて聞いてみると、「内ゲバ」という言葉を知らない者がほとんどです。「『爆弾』と聞いたら何が思い浮ぶか」と聞いても、「イラクに落とすヤツですか」とか答える。それと連動して、一時期あったような「社会運動は怖い」という印象が、ようやく薄れたという感じもあります。だからイラク反戦のデモなどにも、若者が屈託なく参加してくる。
またこれは幸せなことではないのですが、不景気が続いている。これからもっと不景気になり、若者の失業率が上がってきたら、社会への不満が蓄積してくるだろう。これは当然、社会運動の素地になります。
この3月に、イラク反戦デモに行って感心したのは、組織動員が事実上ないのに何万人も集まったことです。60年代には10万人とか20万人とかのデモも多かったけれど、あれは組織動員がかなり多い。組織動員なしで4万も5万も集まるというのは、戦後の社会運動史全体からみてもかなり珍しいことで、むしろ最大に盛り上がったと言ってよい。
ただし私は、あの4万人、5万人が、今後の社会運動にいつも集まってくるとは思いません。一時のブームという側面は確かにある。またあの「屈託のない参加」が、これから「つくる会」の方に集まるか、反戦運動の方に集まるかはわからない。
最初に述べたように、社会に関心を持ちたいという気分は若者に潜在しているようだけれど、それが右に転ぶか左に転ぶかわからない情勢にある。あるいは右にも左にも行かなくて、不景気が続いて不満がたまっても、犯罪が増えて治安が悪くなるだけかもしれない。そこで、そういう潜在的なエネルギーに、どういう通路を提示できるかというのが、思想や社会運動の課題になると思う。
私が『SENKI』の読者に社会運動のことを述べるのは「釈迦に説法」ですが、研究を経て言えることがあるとすれば、さっき述べたようなある腫の「太っ腹さ」というか、度量の広さはあった方がいいだろうと思います。いつの時代でも、この機会に自分たちの組織を拡張しようとか、防衛しようとかいう打算でセコセコしているより、「来る者は拒まず、去る者は追わず」みたいな度量の広い姿勢の方が好かれるでしょう。
それからあの本を書いて思ったのは、妙に勇ましいというか、大言壮語をする人は信用できない、ということでした。吉本隆明は、本当は日和見なのに、「壊滅的な徹底闘争」とか言う。吉本と同世代でも、鶴見俊輔は戦争中に慰安所の係員みたいなことまでやらされて、ひどい目にあって自分の小ささを思い知らされた結果、他人にもあまり過酷な厳しさを要求しない。だけど60年安保のときに、本当に死ぬ覚悟があったのは鶴見のほうだった。
ヤクザだって、修羅場をくぐったことのないチンピラのほうが、できもしないような勇ましいことを言いがちでしょう。もちろん鶴見さんも欠点はあるでしょうが、この点に関しては吉本さんより鶴見さんの方が偉いなという感じがしました。
それは、社会運動が停滞した時代を経てきた今の年長の活動家が、若い人たちに何を提示できるかという問題でもあるかもしれませんね。例えばいま20歳前後で、イラク反戦運動から始めたという人が、「あの時は5万人も集まったのに……」と落ち込むようなことがあったら、「小さいことはいいことじゃないか。小さいデモの楽しみ方なら経験があるよ」とか平然と言える度量があるかどうかです(笑)。あるいは仲間割れしそうになって、「もうあいつは絶対に叩き出せ」とかなったとき、「まあまあ、いいじゃないか」と言えるかどうか。「頼られる大人」というのは、そういうものでしょう。
3月のイラク反戦デモで、面白いと思ったのは、老若男女が来ていたことです。年寄りもいるし、中年もいるし、若いのもいる。女も男も子どももいる。どうみてもあのデモが、機動隊との衝突に発展するとは思えなかった。若者が血気にはやったら、きっと中高年が止めるだろうなという雰囲気がある。これはいいことだと思いましたね。
80年代くらいの社会運動では、「中高年が多くて若い人が来ない」という言い方をよく耳にしました。だけどそういう言い方は、60年代末から70年代に、若い学生ばかりで構成されていた社会運動、年長者との対抗を掲げがちだった運動に参加した人びとの、時代的な感覚というか、あえていえば偏見だと思う。むしろ50年代には、日本の社会運動は学生とか若い人しか来ない、普通のおじさん、おばさんが来てくれないと言って嘆いていたんですよ。若い人が多い方が、ある種の活気はあるかもしれませんが、若い人が来れば偉いというわけではないでしょう。
そういう意味では、思想も社会運動も、70年前後にできた型を、いろいろな意味で相対化できる時期に来たと思う。もちろん、過去の遺産や教訓は学んだ方がいい。私の場合は、『<民主>と<愛国>』を書いて学んだのは、やはり運動にしても人間にしても、度量が広いほうがいいな、ということです。